第3回 師匠のDNA

『忘れられた花園』はおかげさまで八刷を達成、想定読者数三千人、初版止まりが当たり前の地味な文芸翻訳者にとって、こんなにうれしいことはありません。

 フトコロがぬくもるだけでなく、誤字・脱字・誤訳(!)をちょこっと直せるのもまた重版の恩恵です。初版のみで終わってしまったら間違いに気づいても後の祭り、直したくても直せませんから。

 間違いにもいろいろありますが、翻訳でいちばん恥ずかしいのは、やはり誤読・誤訳の類でしょう。己の不勉強と粗忽にひたすら恥じ入るばかり。「人間だもの」と相田みつをに慰められても心は晴れません。

 十年ほど前、ギルバート・アデアの『閉じた本』でsteak and kidney pudを「ステーキとキドニー・プディング」と訳していたのを、「あれは別々の料理じゃなく、ステーキ&キドニー・プディングでひとつの料理だよ」と教えてくださったのは、訳書を読んでくださった田口俊樹氏(Thanks!)。幸い重版で“と”を“&”に交換してとりあえずは一件落着。

 調べてみれば、ビーフの赤味肉と腎臓を煮こんだものをパイ皮でくるんで蒸した、イギリス国民が普通に食べている家庭料理なんですと! かの地で食べた記憶なし。その後たまたまポワロが登場する短篇集『二十四羽の黒つぐみ』の表題作を読み返したら、謎解きの重要な手がかりのひとつとしてこの料理が出てきて二度ビックリ。こと文芸翻訳に関しては、日常レベルのなんてことない風物にこそ落とし穴が口を開けているのです。

 他にもcrowをcowと読み違えたまま(原因は肉食・草食に関する常識の欠如)、校了間際に常識ある編集者が気づいてくれて事なきを得た、なんてこともありました。

 なんといっても激烈な思い出は、意味のない妄言(呻き声)だと端から信じて疑わずにいた語がれっきとしたウェールズ語だとわかり、腰が抜けそうになったこと。

 英語作品のなかにlwcusとかynadなんて単語が出てきて、「ああ、これはウェールズ語ね」なんて咄嗟に気づくものなんですか? とてもじゃないがわたしには無理。しゃべっているのが重度の認知症を患っているおばあちゃまだったからなおのこと、「るうくす」とか「いやん」とか出まかせに音を作っていたら、なんと前者がlucky 、後者がmagistrateを意味するウェールズ語だったからさあ大変! これまた校了直前のことでした。

 どこでどう気づくことになったのか、そこがいまもって謎のまま。なぜかふとウェールズ語の辞書を調べる気になったという、翻訳の神様のお告げが降りてきたとしか言いようがない怪談めく体験でありました。

 さて神様とは別に、わたしには翻訳の師匠もあらせられます。ゴンブロヴィッチの『ポルノグラフィア』やミロラド・パヴィチの『ハザール辞典』『ブルーノ・シュルツ全集』などの翻訳で知られるロシア・ポーランド文学者、工藤幸雄氏です。

 四年前に鬼籍にはいられましたが、三十年以上にわたってわたしの翻訳修行&稼業を見守ってくださった敬愛すべきMy Mentor。いまもどこかできっとわたしの仕事ぶりに目を光らせている気がします。

 師匠との出会いは四谷にあった日本初の翻訳専門学校(すでに消滅)でのこと。紆余曲折の末、弟子もどきの格好で工藤家に出入りするようになり、師匠ご夫妻には娘のようにかわいがっていただいた。(そのあたりの経緯は「出版翻訳データベース」のインタビュー記事で)

 師匠の教えはただひとつ、「日本語を磨け」でした。

 詩人でもあった方なので表現に対するこだわり、言葉をいつくしむ心は並み大抵のものじゃありません。翻訳者たるもの異国の言葉以上に日本語に敏感であるべし、というわけです。

 訳語の選択から文章のリズム、文と文のつながりの工夫に至るまで、I・B・シンガーの児童書の下訳や師匠の著作原稿の清書(まだワープロすらなかった時代の話)などをしながら、翻訳のスキルを学びました。と言っても体系的な授業があったわけでなく、親方のちょっとした一言に耳を澄まし、技を盗み取る、いわば徒弟制度の職人修業みたいなもの。

 果たしてどこまで師の教えを吸収できたかは怪しいけれど、師匠のDNAは多少なりとも受け継いでいるらしく、やけに格調高い凝りすぎの文章を製造しては編集者の目を白黒させることも……。

 師匠が八十歳を迎える直前に著した『ぼくの翻訳人生』(中公新書)は、満洲(と当時の表記を用いるあたりも師匠ならでは)に生まれた氏の中国語やロシア語との出会いに始まる外国語との付き合いや、「報われない翻訳稼業」について縦横無尽に語った自分史。随所に飛び出す苦言や泣き言(?)は飄々とした師匠の声がいまにも聞こえてきそうで苦笑をさそいます。巻末を飾る「うるさすぎる言葉談義」はまさに工藤節炸裂といったところでしょうか。

 ここでちょっとお断り——この自伝の冒頭「はじめに」のv頁に出てくる、「一昔前……」に、誰の仕業かご丁寧にも「いちむかしまえ」とルビが振られてしまったのです。たしか本が出来上がった直後に師匠から、意気消沈した声でこれを知らせる電話をもらったという記憶が。果たして重版で直せたのかどうか、今日までこの出来事をすっかり忘れていたので確かめてもいませんが、師匠の名誉のためにも、師匠になり代わり「ひとむかしまえ」に謹んで訂正させていただきます。

 で、話を戻すと——師匠は世にはびこる「すべからく」の誤用をとりわけ憂え、「純子ちゃん、また見つけちゃったよ。困ったもんだね」と、本や新聞雑誌にゴキブリのごとくちょろっと顔をのぞかせる「妖怪スベカラク」を見つけては、知らせてきました。ある年の年末には「今年はもう打ち止めかと思っていたら、ナントカいう有名タレント(男)が毛生え薬のコマーシャルに出てきていわく、〈毛髪のいのちはスベカラク毛根にあり〉。嗚呼、コマーシャルにまでしゃしゃり出るとは世も末ではないか!! 会社名とタレントの名前をチェックされたし」との憤然とした殴り書きの文字がファックスからジジジジーと流れてきたことも。

 弟子のわたしも、これの捕縛に精を出したのは言うまでもありません。蜷川幸雄演出の『王女メディア』を観に行ったら最終場面の最後の最後に平幹二郎の口からこれが飛び出したものだから、「てえへんだ、てえへんだ、親分!」とばかり、帰りがけに本屋に飛びこみ、元になった訳書を買っちゃいましたね。たまたま訳者が師匠の知人だったこともあり、なにかの折にさりげなく伝えたそうですが、その後訳は改められたのかどうか……。

 そうやってふたりで蒐集した「妖怪スベカラク」標本から、ほんの一部をご紹介しましょう(個人攻撃の意図はないので、名は伏せる)。

×欲望の拡大はすべからく“善”!(漫画の台詞)

×人生というのは、すべからく一か八かさ。(小説)

×動物はすべからく排泄するのだが、「みんなのうんち展」は……。(エッセイ)

×国際化とはすべからく非日本化なのか。(日経新聞)

×すべからく新しい機械はお嫌いですか?(インタビュアーの問い)

 これのどこが誤用なの?と首を傾げられた方は、何はさておき国語辞典にあたられることをおススメします。

 すべからくの誤用は留まるところを知らず、最近は仲間同士のおしゃべりの最中にひょいと飛び出すこともあるから厄介です。この語を発する際の当人は、たいてい自己陶酔気味にしゃべっている場合が多いので、「あ、その使い方はペケ……」なんてとても切り出せる雰囲気じゃない。洒落たスーツをぱりっと着こなした紳士に向かって「開いてますよ、チャック」と教えるくらいに勇気がいる。結局、うやむやのまま後味の悪い思いをするしかないのが辛いところ。

 まあ、そんなエラソーなことが言えるのも、妖怪スベカラク退治に情熱を燃やす師匠からその暗躍ぶりをいやというほど聞かされ、同じ轍を踏まずにすんでいるからこそ。それ以外の誤用となったら、どこで何をしでかしているか知れたもんじゃありません。

 師匠のおっしゃる通り、「言葉に精通するためには人生はあまりにも短すぎる」のであります。

 恥を忍んで打ち明ければ、『忘れられた花園』にも迂闊な誤用がありました。読者の方から鄭重なお手紙をいただき、下巻27ページの「……造園家を輩出して……」の“を”が誤用だと知りました。お手紙を要約すると、“輩出する”は、世に出た優れた人材(複数)を主語とする自動詞用法しかなく、ここは「マウントラチェット家からは熱心な造園家が輩出して……」とすべきでは、とのこと。ご指摘に心から感謝しています。訂正は最新の増刷には間に合いましたが、誤用のまま世に出てしまった分もあるわけで、胃とハートがしくしく痛みます。自戒の意味もこめて今後は「輩出する」にも目を光らせねばなりませぬ。

 と思っていた矢先、早くもNHKの某アナウンサーがニュースの時間に「〜を輩出して……」とやってくれました。師匠ならすぐさまNHKの日本語センターに手紙をしたためたところでしょうが、そこまでのDNAは受け継いでいないので……。

 おかげさまでリハビリは順調に効果を上げつつあります。本の衝動買いってやっぱり楽しい! 入梅直前の爽やかな平日の昼下がり、池袋西武「リブロの湯」でたっぷり英気を養ってまいりました。

 最近の本屋には雑貨小物コーナーもあって、乙女心(!)がいたくくすぐられます。

 少し前、久しぶりに訪れた早稲田の某中型書店では、かなりのスペースを割いて舶来雑貨や文房具が並び、スナック菓子までもが売られていた。コンビニ化する本屋。本だけじゃやっていけないご時世ということなのでしょうか。

その極端な例がヴィレッジヴァンガード。あの店に置かれた本は、もはや雑貨の一部と化している。そういうのもありなのかな……?

 さて、今回の収穫は以下の通り。

○ウラジミール・ナボコフ『ナボコフ全短篇』作品社

 十年ほど前に同じ作品社から出た上下二巻本に、新発見の三篇を加えて全一巻にまとめたもの。どこに紛れたのか、二巻本のうち下巻しか見あたらぬまま幾星霜。悔しいので買い控えていたのだが、店の棚に鎮座まします分厚い一巻本を目にしてすぐさま買い物カゴへ。これぞ大人買い。

○フェルディナンド・フォン・シーラッハ『罪悪』酒寄進一訳 東京創元社

 言わずと知れた話題のシーラッハ第二弾。酒寄氏の贅肉のないスタイリッシュな訳文がぐいぐい読ませるんですよね。

 そういえば五月二一日付「産経新聞」の文化欄で氏が、「翻訳者は各国語の作家を世界文学の作家へと押し上げる重要なファクター」だと語っていた。翻訳に対するこの熱い思いに力づけられることしきり。がんばろう、ガイブン!

○ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』岸本佐知子訳 角川書店

 岸本氏の手がけるヘンテコ作品はだいたいどれもわたし好み。なかでもミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』とリディア・デイヴィスの『ほとんど記憶のない女』はダントツの面白さでした。

○ブライアン・エヴンソン他『居心地の悪い部屋』岸本佐知子編訳 角川書店

 こちらは十一人の作家の短篇アンソロジー。同じ岸本氏が編訳した『変愛小説集』(全二巻)もなかなかの怪作ぞろいだったから、この新刊にも期待が膨らむ。それにしても岸本氏の精力的な仕事ぶりには頭が下がります。

○ディミトリ・フェルフルスト『残念な日々』長山さき訳 新潮クレストブックス

 オランダ語圏の作家の小説を読むのはひょっとして初めてかも。「赤ん坊の沈む池」を立ち読みし、ぱらぱらとページをめくって台詞を拾い読み。微かに響く関西弁がちょっと楽しいやないか!

○深水黎一郎『言霊たちの夜』講談社

 平台でパッと目に飛びこんできた一冊。「言霊」という言葉に弱い青木。帯に躍る〈笑撃〉の文字にもビビッと反応。「笑い」なくして何が人生か!

○深水黎一郎『人間の尊厳と八〇〇メートル』東京創元社

 同じ作家の日本推理作家協会賞受賞作。買いそびれていたので、この機会に。

○朝倉かすみ『とうへんぼくで、ばかったれ』新潮社

 あ、新刊が出てる!と心のなかで喝采。『肝、焼ける』以来、ずっと追いかけている作家。ちょっと不器用で一途な恋愛模様をさらりとしたユーモアにくるんだ作風に惹かれる。きりりとした文体は学ぶべきところ大。

 以上、〆て税込壱萬九仟八百四拾伍円也

 はてさて、残り壱萬四仟八百弐拾伍円の行方はいかに!

青木純子(あおき じゅんこ)。7月10日生まれ。蟹座。0型。東京都在住。主な訳書:フェリペ・アルファウ『ロコス亭』、クリストファー・バックリー『ニコチン・ウォーズ』、ローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』、B・S・ジョンソン『老人ホーム』、アンドルー・クルミ—『ミスター・ミー』、ギルバート・アデア『閉じた本』、ケイト・モートン『忘れられた花園』(以上東京創元社刊)、マリーナ・レヴィツカ『おっぱいとトラクター』(集英社文庫)など。

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