(3)題名のあるエッセー

 わたしが担当する翻訳者エッセイも、今回で終わりです。前回、前前回とも切羽詰った話でお茶を濁してしまったので(まあ、本当に切羽詰まっていたのですが)、最後ぐらいは本来のエッセ・クリティック、つまり批評的なエッセーらしきものを書くことにしよう。

 翻訳者の皆さん、訳書の題名には、けっこう気をつかいますよね。題は本の顔。本のなかに入っていくとき、どうしても通らねばならない入口みたいなものだ。そのつけ方ひとつで、本の売れ行きまで変わるかもしれないと思えば、徒や疎かにできない。自分の訳書の題名でわりと気に入っているのは、原題がIl faudra という絵本。これはIl faut 〜「〜が必要だ、〜しなければならない」という必要性を示す表現の未来形なのだけれど、これだけ取り出したのでは訳しようがない。しかもこの表現は本文のなかにも使われているので、そこの訳文と同じになるようにしたいし、原題の簡潔な力強さもあらわしたい。というわけで考え出したのが『いつか、きっと』という題だ。「きっと」のなかに必要性の意味、「いつか」のなかに未来時制の意味を込めたつもりだ。本文中では、例えば「いつか、きっと、投げなわで雲をあつめ、砂漠に雨をふらせよう」といった訳文になって出てくる。

 とここまでは前置きで、これからが本題。数年前に出されたある本の題名に、わたしは衝撃を受けた。その本とは『目玉の話』。題だけ見たらユーモア小説かと思われるかもしれないが、ご存知のようにこれは『眼球譚』(生田耕作訳)の題で知られていたバタイユのエロティシズム小説の新訳だ。『目玉の話』と『眼球譚』。うーん、たしかに意味は同じだけれど、そこから受ける印象はまるで正反対だと言ってもいい。『眼球譚』は異端の文学に多少なりとも関心がある者なら、誰もが一度は通る作品だ。その内容もさることながら、『眼球譚』という題には何か有無を言わせぬ迫力がある。だから正直、これ以外の訳がありうるとは考えたこともなかった。それがいきなり『目玉の話』と来られたのだから、その鮮やかな発想の転換に虚をつかれ、わたしがしばし唖然としたのも無理からぬところだろう。

 つまり『目玉の話』という題名は、まず『眼球譚』という既訳との対比によって強烈なインパクトを持っているのだ。その破壊力は題名のなかだけに留まらず、作品そのものの読みにまで波及してくる。今まで『眼球譚』だと思っていたものが、今日から『目玉の話』になりましたと言われれば、はたしてそれは本当に同じ作品なのだろうかという疑問が湧いてきても当然だ。それならいったん先入観を捨て、あらためて虚心坦懐にテクストと向き合おうという気にもなるではないか。

 もちろん訳者の中条省平氏は、何もただ奇を衒ってこんな題名をつけたわけではない。訳者による「解説」のなかには、こう書かれている。「原題は Histoire de l’oeil といい、ここに用いられている単語はすべてごく普通のフランス語である。つまり、この表現は、日本語に直訳すれば『目の話』ないしは『目の物語』となるのがふさわしい」と。たしかにフランス語の原題には、『眼球譚』という言葉から受けるおどろおどろしさはない(ちなみに英訳では Story of the Eye となっている)。むしろ『目玉の話』のほうが、原題にも忠実だったわけだ。

 もっとも、ここでひとつ疑問も生じる。はたして「目玉」という言葉は、oeil が「ごく普通のフランス語」であるのと同じくらい、ごく普通の日本語だろうかという疑問だ。考えてみると、われわれが日常生活のなかで「目玉」という言葉を使うことはあまりない。「目玉が飛び出るような」、「大目玉を食らう」、「目玉焼き」、「目玉商品」といった比喩的な表現のなかで使うくらいで(あとは鬼太郎の目玉おやじ)、少なくとも目、眼球そのものを指して「目玉」と言うことはまずないだろう。そう思って前に引いた「解説」をよく読むと、中条氏も「この表現は、日本語に直訳すれば『目の話』ないしは『目の物語』となるのがふさわしい」と書いていて、決して「目玉」とは言っていないのですね。

 それなら中条氏はどうして『目玉の話』という題名にしたのかと言えば、「解説」には続きがあって、「この小説は、眼球と玉子と睾丸という三つのオブジェが、楕円的球体と形態上の類似と、音韻上の類似を介して結びつく無意識の連想のドラマだということと関係がある」と書いている。要するにここで言う「三つのオブジェ」をあらわすフランス語がよく似た音であることから、訳語のなかでも目玉、玉子、金玉という「玉」つながりであらわそうという工夫だったわけだ。すると案外中条氏も、原文の oeil と目玉のあいだにある微妙なずれを意識しつつ、あえてこの題名を果敢に選択したということなのかもしれない。題名ひとつのなかにも、ときとして訳者のさまざまな苦心の跡がしのばれるのである。

平岡敦(ひらおか あつし)。千葉市生まれ、東京在住。主な訳書にグランジェ『クリムゾン・リバー』、アルテ『第四の扉』、ルブラン『怪盗紳士ルパン』、ジャプリゾ『シンデレラの罠』など。

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