1 萌え

 萌え、である。

 いまでこそ、「シャーロック」のカンバーバッチくんに「萌え〜」などと便利に使われているが、かつては架空のキャラクターに対するこの感情をうまくあらわす言葉がなかったように思う。

 自分がいまこういう仕事をしているのは、はるか昔の高校生のおり、アリステア・マクリーンの不動の名作『女王陛下のユリシーズ号』を手にとり、その中に登場するラルストン上等魚雷兵に萌えてしまったからにほかならない。

 村上博基先生のお訳によれば、「亜麻色の髪、碧色をひっそりとたたえた目、スカンジナビアの先祖が代をへだててあらわれた男。(中略)艦内 のだれとも親しい交友をもたず、にこりともせず、端然とおのれの道をあるいている男」(ハヤカワ・ノヴェルズ並製第四版より)。

 キャ〜! である。第二次大戦中、輸送船団を護衛してドイツ軍の待ちうける北大西洋をいく英国海軍巡洋艦ユリシーズの、かっこいいけどシブすぎるおじさまたちの中にあって、若いラルストンは異彩を放っていた。同艦の反乱で弟を亡くし、同時に空襲で母親と姉妹を亡くすという悲劇に見舞われながら、黙々と、そしてみごとに任務をやりとげていく彼に、わたしはすっかりオトメ心を奪われてしまった。

 もちろん、作品そのものにも興奮し、深く感動した。この稿を書くにあたって久しぶりに読みかえしたが、やはり目が真っ赤になるほど泣いた。 【以下ネタばれ反転】クライマックスで、満身創痍のユリシーズ号が敵艦へ突っこんでいくときに戦闘旗をひらく場面、これは忘れられない。【反転終了】自分にとって、つねにオー ルタイムベストのナンバーワンであることが確認できた。

 そりゃ、世間ずれした目で読みかえせば、艦長がなぜあそこまで乗組員に慕われるのか、もう少し書かれていてもいいように感じたけれど、それは大きな問題ではないだろう。『女王陛下のユリシーズ号』は、かつて栄光をきわめた英国海軍の魂が終焉を迎える姿を描いた、ある種の叙事詩なのだと思うから。

 そうそう、高校時代はラルストンの登場する部分だけを何度も読んだものだが、さすがにオトナの今回は、当時シブすぎたおじさまたちにもちゃんと(笑)萌えたのだった。

 というわけで、十五、六でこの路線にはまったわたしは、その後、ダルタニヤンに萌えたり、眠狂四郎に萌えたり、競馬シリーズの主人公たちに萌えたりしているうちに、早川書房に入社して編集者となり、そして翻訳者となった。

 いま萌えているのは、我田引水で恐縮なのだが、拙訳の猟区管理官ジョー・ピケット・シリーズに登場する鷹匠、ネイト・ロマノウスキだ。長身で金髪、特殊部隊にいたらしい謎めいた過去、自分の正義を法律の上に置く非情で容赦のない男。彼の登場する場面を訳すときには、ちょっとワクワクしている。映画化するなら、ぜったいにヴィゴ・モーテンセンでお願いしたい。

 最新作ではジョーが脇にまわり、ネイトがメインとなる模様なので、楽しみでしかたがない。邦訳がそこまで辿りつけるように、みなさま、なにとぞご支援のほどを(ぺこり)。

野口百合子(のぐち ゆりこ)。神奈川県生まれ、東京都在住。最近の訳書は、C・J・ボックス『裁きの曠野』『震える山』、ウィリアム・ケント・クルーガー『希望の記憶』『闇の記憶』、サラ・スチュアート・テイラー『死者の館に』など。

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