初めて翻訳の仕事をいただいたのは、十五年前のことだった。緊急医療にたずさわる医師たちが文章を寄せたエッセイ集の共訳で、二十一篇のうち、わたしは四篇を担当することになった。一般読者向けの本なので、ものすごく専門的というわけではなかったが、ちょっとした表現や単語から緊急救命室(ER)の切迫感や喧噪が生々しく伝わってくる作品ばかり。米国のテレビドラマ『ER緊急救命室』がNHKで放映されていた時期でもあり、できるかぎり「それらしく」翻訳するという暗黙のハードルが、わたしにはとてつもなく高く感じられたものだった。

 医学に関することは、念には念を入れて調査をしても、最後まで疑問というか不安というか、そういうもやもやとした気持ちが残ってしまうことが多い。調べものの付け焼き刃では、医学用語や医学的な言い回しを文脈としてとらえることが難しいからだ。この医療エッセイ集のときも例外ではなく、仕事として提出するまえに少しでも確信の持てる翻訳にしなければとあせっていた時期があった。そんなとき、近所の病院の看護師さんに、助言をお願いできそうな医師を紹介してもらえることになった。

「この先生ですよ」

 そう言われて出てきたのは、なんと、学生時代のボランティア仲間。若いころは顔見知り程度だったとしても、十七年ぶりの再会がお互い嬉しくないはずがない。おかげで医学的もやもやはスッキリ解消、より救急医療現場「らしい」形になんとかととのえて、初めての仕事を無事に乗りきることができたのだった。

 それ以来、医師のSさんにはひとかたならず世話になっている。解離性同一性障害に苦しむ犯人が登場するミステリを訳しているときは、埼玉の病院まで足繁くかよって、病気のメカニズム、検査方法、現代医療界における位置づけなど、さまざまな側面から解説してもらった。脳と犯罪の因果関係を論じるノンフィクションと、記憶障害の夫を支える女性のメモワールのときは、脳の仕組みや人間を人間たらしめているものについて講義を受けた。もちろんそういうときは、わたしのほうも全力で調査し、その道のプロであるSさんの胸を借りるつもりで、わからないなりの仮の答えを用意して臨んできた。こちらがこてんぱんにされるのは目に見えているが、それでも調べもの好きとしては堪えられない経験をさせてもらっている。

 調べものは調べもののみにあらず。わたしにとっては、ひととの縁を運ぶ作業でもある。次回もそんな経験を書きたいと思う。

匝瑳玲子(そうさ れいこ)。静岡県生まれ、東京在住。青山学院大学卒。訳書は、ウィットマン&シフマン「FBI美術捜査官」(共訳)、ウェアリング「七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで」、ランズデール「ダークライン」など。

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