翻訳者はみな同じだと思うが、自分が訳した本はかわいい。出版までの数か月のあいだ一言一句じっくりつき合い、校正も含めて何度も読みとおすわけだから、濃密な時間をともに過ごした者としてそれは自然な感情だろう。仮に初読の際には距離感があったとしても、訳書として書店に並ぶころには、人目もはばからず表紙に頬ずりしたくなるほどの情が移っているものなのだ。だから、世に送り出すときは嬉しくもあり寂しくもあり、ちょっとばかり複雑な気持ちになる。調べもので苦労した作品などは、とくにそうだ。

『死海文書の謎を解く』も、そんな特別な感慨を覚えた一冊だった。

 一九四〇年代後半から五〇年代初頭にかけて、パレスティナの死海沿岸のクムラン遺跡で発見された「死海文書」。そのなかに、ほぼ純粋な銅でつくられ、膨大の量の宝物の隠し場所が記された「銅の巻物」があった。本書はユダヤ人の著者が、冶金学という特殊な視点からユダヤ教と古代エジプトの関係を探り、「巻物」の謎解きに挑戦した古代史ノンフィクション(学術書ではなく一般書)である。

 翻訳にあたってはご想像どおり大量の調べもので苦戦を強いられたが、わたしにとって何より印象深かったのは、その調べもののために、ロンドン在住の著者と何十回とメールのやりとりをしたことだった。古代エジプト史、古代ユダヤ史をはじめ歴史の専門的知識について、あるいは著者自身の解釈について、こちらの理解や調査がおよばなかった部分の確認も含めて、百を超える質問をさせていただいたのだ。メールでは、礼儀としてまず自分で徹底的に調べ、根拠もきちんと示したうえで疑問を投げかけることを心がけてはいたが、著者の寛大さ、寛容さにどれほど助けられたかわからない。また監修の先生には、茨城のご自宅にまで押しかけて、ユダヤ教とユダヤ人の壮大な歴史を現代の視点も含めて講義をお願いしたほか、著者のルーツ探しという側面もある本書の読み方について、非常にバランスのとれた解説も書いていただいた。わたし自身、個人的にオープンカレッジの古代史クラスを受講したりもしたが、それだけではとても追いつけない内容だったことを考えると、望みうる最高の支援、協力を得た本書は、ほかに類を見ない幸運、幸福な作品だったと言えるだろう。訳出開始から刊行まで、しんどくも心愉しい二年間だった。

 十年ぶりにページを繰り、本書にずいぶんと鍛えられたことを思いだした。作業をすべて終えて最後の最後に編集者に校正ゲラを託したときの、ほっとしたような残念のような複雑な気持ちがよみがえった。ほんとうに貴重な機会だった。銅色の表紙をなでつつ、改めて当時のすべてに感謝したい。(なのに、当時あれだけ学んだ知識はこの頭のいったいどこに消えてしまったのだろう。それが悲しい)

匝瑳玲子(そうさ れいこ)。静岡県生まれ、東京在住。青山学院大学卒。訳書は、ウィットマン&シフマン「FBI美術捜査官」(共訳)、ウェアリング「七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで」、ランズデール「ダークライン」など。

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