その3 先達の翻訳

 職業がらか、昔の翻訳に手がのびるタチです。

 現代とまったく違う環境で、先達の方々がひとつひとつ五里霧中で手探りするようにつむぎだしてきた言葉には、一球入魂ならぬ、一語入魂の気迫と、どうしてもこの物語を日本の読者に届けたい!という熱い思いが感じられますし、おまけとして、現代訳とのギャップに当時の国際間相互理解の状況や、翻訳者の思想のようなものがうかがいしれて、たいへん面白いという特典つき。そう、つまり古い訳を読む場合には、新しい訳も読んでくらべてみると、二倍楽しめるのです。

 わたしが翻訳くらべっこ(と勝手に命名)の面白さを知ったのは、ランボーでした。彼の詩集『地獄の季節』にある「最高塔の歌」の一節を最初に読んだのは、日本の作家・堀田善衛のとあるエッセイの冒頭。

ああ! 時よ来い

心の燃える、時よ来い!

 そのときはただ、ふーんそういう詩なのねと思っただけでしたが、少しあとになって、堀口大學訳で同じ詩を読んだときの驚きといったら。

心と心が熱し合う

時世(ときよ)はついに来ぬものか!

 どうですか。全然、印象が違ってきますよね。ちなみに堀口訳はこう続きます。

僕は我慢に我慢した。

おかげで一生忘れない。

怖れもそして苦しみも

天空高く舞い去った。

ところが悪い渇望が

僕の血管を暗くした。

 さて、ここで第三の訳者、小林秀雄の登場です。さあ、お読みあれ。

時よ、来い、

ああ、陶酔の時よ、来い。

よくも忍んだ、

覚えもしない。

積る恐れも苦しみも

空を目指して旅立った。

厭な気持ちに咽喉は涸れ

血の管に暗い蔭がさす。

 どうでしょう? 冒頭の訳は堀田氏に近いですが、堀口訳とはまた印象がまったく違いますよね。鋭く突き刺さってくるような小林訳に対して、どこか丸みを帯びた感じの堀口訳。批評家として、また晩年には骨董収集にいれこんで“真剣勝負”をしていた小林秀雄の、対象の本質にぐいぐい迫っていく視線。かたや若い頃にはフランスでマリー・ローランサンと親しく日々を送った堀口の、どこかやわらかで、一種女性的な雰囲気のある言葉はこび。わたしはどちらも好きですが、同じ原文でも訳す人間によって、こんなにも作品は変わってくる、ということを最初に教えてくれた体験でした。

 さてお次はシェイクスピアと参りましょう。彼の作品は何せ戯曲ですから、舞台にのせなければならない、つまりその時代々々の役者や観客に受け入れられるものでなければなりません。ほかの文学者の作品に比べて、新訳の出される頻度が高いのもそれゆえにこそ。ここでは『マクベス』の第一幕、マクベス夫人の台詞の部分をあげてみます。

 わたしが最初に読んだ訳は福田恒存でした。

さあ、血みどろのたくらみごとに手を貸す悪霊たち、私を女でなくしておくれ、頭の天辺から爪先まで、恐ろしい残忍な心でいっぱいにしておくれ! この血をこごらせ、優しい情けの通い路をふさいでおくれ、押寄せる悔いの重荷に、この酷たらしい心がぐらつき、弱々しく潰え去ったりしないように!

 これは1969年の訳ですが、現代でもほぼ違和感のない訳ですよね。では今度はシェイクスピアの全戯曲を日本で最初に訳した坪内逍遥のものを。

さァさ、怖ろしいたくらみごとの介添へをする精霊共よ、早く来てわしを女でなくしてくれ、頭から足の爪先まで、酷い、残忍な心で、いっぱいにしてくれ! わしの血をこごらせてくれ、やさしい慈悲の心のかよいみちを断ッちまってくれ、憫れむ心なんかが働いて、酷い企をぐらつかせたり、実行の邪魔をしたりしない為に!

 どうですか? これは1909年、明治42年の出版です。わずか60年のへだたりで、これほどまでに日本語が違っている、そこに本当に驚きました。これはあきらかに、歌舞伎や浄瑠璃の影響が色濃いセリフです。しかしこの訳の歯切れのいいこと、台詞の抑揚まで浮かんでくるようじゃありませんか? ちなみに彼による『ハムレット』での、オフィーリアの狂乱の歌はこうです。

ほんに思へば、思へばほんに、

なんぼ殿御の習ひぢゃとても

そンれはあんまりどうよくな。

わしを転ばすッィ前までは

きっと夫婦(めをと)というたぢゃないか、

と怨む女子(をなご)につれない男。

おれも誓文その気でゐたが、

一夜寝て見て気が変はった。

 このリズム、すっと頭に入ってくる言葉、いかがでしょう? けだし名訳、と思いませんか。

 それでは最後にドロシー・L・セイヤーズのピーター卿もの『ナイン・テイラーズ』から、冒頭で車を事故ったピーター卿が村のパブに助けを求める部分を。まずは1998年の浅羽莢子訳をお読みください。

声をかける。「誰かいませんか?」

 中年女が奥の部屋から出てきた。

「まだ開けとらんよ」と唐突に切り出す。

「それは失敬。車がまずいことになってね。道を教えてもらえないかと──?」

「あらやだ、すいません。この辺の人かと思うて。お車が壊れたのすか? ほれは難儀でしょう。どうぞ入っておくれませ。今ちょっとごたごたしてるのすが──」

 同じ部分、1958年の平井呈一訳ではこうなっています。

「どなたかいませんかね?」と大きな声で呼ぶと、奥から中年の女が出てきた。

「まだ店は明けてねえだよ」と女は突慳貪にいった。

「あの、すみませんがね、車が故障して困ってる者なんだけど、ちょっと中へ入れてくれませんか?」

「アレまあ、それはそれは。わたしゃまた村の衆かと思ったよ。自動車がこわれなすったですかい? それはまあお困りなこんだね。さあさあ、おはいんなせえまし。あいにく、こんなむせえ所でのし──」

 どうですか? 二つの訳のあいだは40年離れていますが、時代というより訳者の個性の違いが出ている気がします。ちなみに平井訳の最後の「……のし」を使う方言地域のひとつは和歌山県紀ノ川周辺です(ほかはわからない)が、平井氏にとって東アングリアのイメージは関西であったのでしょうか。もひとつついでに言うと、平井訳のピーター卿は「こりゃあめっぽう寒いぞ!」とか「せいぜい気をつけて、夏場にするこった」など、妙に伝法な口調のお貴族様になっています(笑)。どちらのピーター卿がお好みかは、読むあなたしだい。さあ、どちらにしましょうね?

 それではまた次回。

青木 悦子(あおき えつこ)東京出身&在住。本とクラシックとブライスを偏愛し、別腹でマンガ中毒。翻訳ミステリー東東京読書会の世話人。主な訳書:マイクル・コリータ『冷たい川が呼ぶ』『夜を希(ねが)う』、J・D・ロブ〈イヴ&ローク・シリーズ〉、ジェシー・ハンター『よい子はみんな天国へ』など。ツイッターアカウントは@hoodusagi

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