その4 手紙

 さてこのエッセイも今回が最終回になりました。これまでは小説家や詩人歌人が仕事として紡ぎだしてきた言葉を見てきたわけですが、最後の今回は彼らがプライヴェートで誰かに語りかけた言葉をご紹介しようと思います。そう、「手紙」です。

 わたしはいまはなき作家や芸術家の手紙を読むのが好きという、たいへん趣味の悪い人間ですが、そういった手紙がまた面白く、ときにご本人の「表」の作品より味わい深いことも事実です。それに、ご本人の人となりが、いわば「裏」の私信によってより深く理解できたり、新しい面を発見したりすることもあるわけで。

 たとえば、ユーモラスで何とも人を食った文章を書いた内田百閒は、友人にこんな手紙で借金を申し込んでいます。

今日週刊朝日ノ小説ヲ脱稿シタリ 稿料ヲ著(=着)服セントスレバ主幹大阪ニ行テ二十七日帰リ来ル由 ソレデ 借金申出ヅル儀ハ

と、ここで金額の内訳を理由ごとに説明し、

註 右ノ如ク本人厘毛ヲ著服スル根性ニアラザル也

だから貸して下さい たのみ申候

 百閒のとぼけた性格は、作品にも私信にもほぼ変わらなく発露しているようです。では彼の師であった夏目漱石はどうだったか。留学中のロンドンから妻の鏡子にこんな手紙を書いています。

国を出てから半年許(ばか)りになる(略)御前の手紙は二本来た許りだ其後の消息は分らない多分無事だろうと思って居る御前でも子供でも死んだら電報位は来るだろうと思って居る夫(それ)だから便りのないのは左程心配にはならない然し甚だ淋い(略)からだが本復したらちっと手紙をよこすがいゝ

 ぶっきらぼうな文面ですが、鏡子は結婚後まもなく流産し、精神的に不安定な時期がありました。ぞんざいな言葉の陰に、妻子を案じる漱石の心配顔が見えるようです。

 しかし漱石先生、妻には手紙を寄こせと言いながら、門下の寺田寅彦には「先生はちっともおたよりをくださらない」とぼやかれていたり、やはり門下の芥川龍之介からは手紙攻勢に遭っていたりするのだから、世の中はなかなかうまくいかないものです。

 さて、ちょっと変わった指南をした作家の手紙も残っています。坂口安吾が1948年に尾崎士郎に書いた手紙です。

こんな時には酒を飲まれるのも一つの生活と存じ、それも一つの時期かと存じ、身体にさわることさえなければ大いに土方や労働者と飲むのもいゝことだと思っています。たゞ、身を落したとか、俺はこれだけの人間かなどゝいうヤケな呑み方は賛成できません。そういう荒れた生活の中にも真理(真実)があるのだ、という確信が、常に我々流浪者としての芸術家を育て養ってくれるのではありますまいか。(略)これは僕の長々の淪落生活の信条で、この生活ではどうやら僕の方が先輩のようですから、申上げる次第です。

尾崎さんがここから真に立上り作品の世界へ自分の命の再現ができたとき、私は尾崎さんが本当の小説を書く時だと信じています。たとえば、芥川は自殺しましたが(略)尾崎さんは芥川と同じところへきています。こゝで生きのびねばなりません。

 これを読んだときは、正直、あの坂口安吾がと思いました。“無頼”という言葉そのもののように生き、他人にはかかわらない作家のように思っていたのですが、まこと、人間はいろいろな面を持っているものです。

 逆に、やっぱり、どうして、と何とも言えない気持ちになる手紙もあります。

何卒 私に与えて下さい(略)困難の一年で ございました

死なずに 生きとおして来たことだけでも ほめて下さい

最近やや貧窮、書きにくき手紙のみを多く したためて居ります よろめいて居ります 私に希望を与えて下さい 老母愚妻を いちど限り喜ばせて下さい 私に名誉を与えて下さい(略)早く、早く、私を見殺しにしないで下さい

 これは太宰治が1936年に川端康成にあてて書いた、第三回芥川賞懇願の手紙です。当時、川端は同賞の選考委員をつとめており、遊蕩のためもあって経済的に困窮していた太宰が送ったものですが、わたしはこれを読んだとき、なんでまたよりによって川端康成に、と思いました。川端といえばあの眼光鋭い目やへの字の口からして気難しいことはあきらかですし、遊蕩とはとんと無縁な真面目な人柄。しかも太宰は以前、第一回芥川賞に自分が落選したことについて川端と論争をしているのですから、こんな手紙を送ったところで、とうてい受賞させてくれるとは思えません。結果はやはり受賞ならず(ただし内容ではなく規定により選考外)。しかし、そういう見込みのないところへ向けてわざわざ何かをする、まるで失敗を期待しているかのようにやってしまう、というのが太宰の太宰たるところなのかもしれません。

 ところで川端康成は、この一件では少々不人情と思われるかもしれませんが、実は情に厚い人だったようです。旅先から政子という十一歳の養女にこんな手紙を送っています。

明日は二十二日、政子が鎌倉へきてから、ちょうど一月目ですね。その明日、お父さんは京都へ着きます。(略)かのさんと二人でさびしいでしょうが、ほんの二三日ですから、かのさんにあまり手をかけないようにして、待っていて下さい。(略)ちょっと町を散歩すると円い月が出ていました。政子が鎌倉(=川端宅)へ来るとき、雨が晴れて、海の上に出ていたのと同じような月です。ちょうど一月前ですから。

 実はこれは、葉書三枚に長々とつづられた文の一部なのです。養女に迎えたばかりの幼い女の子に対する、川端のいたわりとやさしさが感じられる文章だと思います。

 そして川端の情は、身内にばかりそそがれたわけではありません。彼はハンセン病で施設にいた作家・北条民雄から手紙と作品を受け取り、その作品を世に出し、やがて彼が没するまで何度もやりとりを重ねています。

お書きになったものは拝見いたします(略)なにかお書きになることが、あなたの慰めとなり、また生きる甲斐ともなれば、まことに嬉しいことです。

御手紙のようなお気持ちは尤もと思いますが、現実を生かす道も創作のうちにありましょう。

体に差支えない限り、続けてお書きなさい。それがあなたの慰めとなるばかりでなく、私共から見ても書く価値あるだけ、よいものです。発表するに価します。

只今読了、立派なものです(略)実に態度も立派で、凄い小説です。この心を成長させて行けば、第一流の文学になります。

 当時ハンセン病は伝染病と言われ、患者は国家により強制的にほぼ一生涯収容・隔離されて、その家族は村八分や差別を受ける時代でした(北条の本名もいまだ不明)。しかし川端は北条だけでなく、彼の施設の患者たちの書いたものにも目を通し、これと思うものがあればほかの作家に紹介もしています。北条が突然訪ねてきたときも快く会い、彼の小説に題をつけ、あとがきを寄せ、彼が亡くなったときにはその日のうちに葬儀におもむいています。病者に対するこうした川端の態度は、彼が幼少の頃に、父・母・祖母・姉と、次々に身内をなくし、最後には十五歳で祖父の看護をして看取った経験からきているのかもしれません。

 ついでながら、太宰が懇願の手紙を川端に送った第三回芥川賞の選考では、北条が圧倒的な票を集めましたが、受賞はしませんでした。北条の家族に及ぶ影響を考慮した川端の意向があったと言われています。そういう配慮の人だったと思われます。

 では最後に、とっておきの手紙をひとつ。志賀直哉が妻の康子に旅先から送った手紙です。

皆無事の事と思う、旅も漸く一ト月になった。正直にいうと少し疲れも出たが、出来るだけ用心して休養するようにしている。此所は巴里での評判では非常に暑いところと聞いて苦にして来たが昼間窓の鎧戸を下ろし寝台に寝ころんでいると汗も出ず思いの外だ 日中は三十五六度になるが朝晩は涼しく……

といった調子でえんえんと、この作家らしい細かい描写の文章が続き、最後にこう締められています。

私の手紙は雑誌から何かいって来ても発表せぬよう。

 やはり、手紙は他人には読まれぬよう、用心召されるべきもののようです。皆様もどうぞお気をつけて。

 以上、これまでの四回、つたない文章を読んでいただきありがとうございました。それではまたいつか。

青木 悦子(あおき えつこ)東京出身&在住。本とクラシックとブライスを偏愛し、別腹でマンガ中毒。翻訳ミステリー東東京読書会の世話人。主な訳書:マイクル・コリータ『冷たい川が呼ぶ』『夜を希(ねが)う』、J・D・ロブ〈イヴ&ローク・シリーズ〉、ジェシー・ハンター『よい子はみんな天国へ』など。ツイッターアカウントは@hoodusagi

●AmazonJPで青木悦子さんの訳書をさがす●

■月替わり翻訳者エッセイ バックナンバー