第1回 なんだかおかしな黒:エドゥアルド・メンドサ

 突然の話。エドゥアルド・メンドサがぼくの勤める大学に来ることになった。大わらわだ。

 エドゥアルド・メンドサというのはスペインの作家。1943年生まれというから、ちょうどスペイン語圏ラテンアメリカの作家たちの〈ブーム〉(ガブリエル・ガルシア=マルケスとかマリオ・バルガス=リョサとかが世界で読まれるようになった現象だ)の次の世代に当たる。この世代、40年代から50年代前半くらいに生まれた世代のスペインの作家たちには、優れた書き手が多い。そんな世代の筆頭くらいに位置づけてもいいんじゃなかろうか、このメンドサという人は。「筆頭」というのは、年齢やキャリアの点からも、認知度、人気という点からも、ということ。

 デビュ作からして順調だった。というのは、好評を博したばかりでなく、名プロデューサー、アンドレス・ビセンテ・ゴメスによって映画化されたからだ。監督はアントニオ・ドローベ。イタリアのオメロ・アントヌッティ(『エル・スール』とか『カオス、シチリア物語』の彼)らも参加している。映画の、そして原作小説のタイトルは、『サボルタ事件の真相』La verdad sobre el caso Savolta(小説:1975/映画:1980)。残念ながら、小説の邦訳もなく、映画も未公開。

 第一次世界大戦時、武器製造・販売で成長した企業〈サボルタ〉工業の工場労働者が連続して襲撃されるという事件があった。サンディカリスムの盛んな時代のこと、経営者側の労働運動弾圧だとの憶測が飛び交い、経営者側は、いや、これは組合の暴動だと応じる。経営者サボルタ家の娘の婚約者アンドレ・ルプランが、労働運動弾圧を書き立てるジャーナリストを抱き込もうと暗躍。やがては経営者までが殺され、事態は紛糾する……

 と、こんな風にストーリーを説明すると察せられるように、これは事件の謎解きをするミステリではない。映画はこうした事件のあらましをたどるだけのつくりになっているけれども、小説はそもそも、期せずしてルプランの手先となり、彼と愛憎相半ばする関係を取り結ぶ社長秘書室のハビエル・ミランダが、数十年後、判事を前にことの次第を語るという結構になっている。謎は語り手によって明かされるのだ。

 この作品はむしろ暗黒小説と呼ぶべきだろうか。スペイン語圏では「ミステリ」misterio / novela de misterio という言い方はあまりなされないように思う。「探偵小説」novela de detective / novela detectivescaとか「警察小説」novela policíacaならばよく目にする。が、やはり最も使われるのは、それらを包括するかのような「暗黒小説」、「ノワール」novela negraではあるまいか。日本で使われている「暗黒」、「ノワール」の概念とも少しずれるかもしれない。スペイン語圏では犯罪、とりわけ殺人事件が起こるような小説を総じて「暗黒小説」と称するようだ。探偵小説などより広い概念と言えるだろう。

 ぼくは、だから、暗黒小説の話をしようと思う。そう考えていた矢先に、メンドサを招くことになったという次第。宣伝半分に現代スペイン有数のこの人気作家の話を。

 さて、こうしてスペイン暗黒小説界に華々しくデビュしたエドゥアルド・メンドサの特長は、映画化作品を見てストーリーを追っただけではわからない。少なくとも映画では伝えきれないものがふたつある。文体とそれが醸し出す巧まざるユーモア、そして都市描写だ。

 『サボルタ事件の真相』の舞台はバルセローナだ。この街で生まれたメンドサの作品の多くは、以後もこのスペイン第二の都市を舞台にしている。唯一邦訳のある『奇蹟の都市』La ciudad de los prodigios(1986/邦訳:鼓直、篠沢眞理、松下直弘訳、国書刊行会、1996)は、まさに「奇蹟の都市」バルセローナの成長とひとりの少年の成長を重ね合わせた都市小説だ。

 「ひとりの少年の成長」と書くと、何やら教養小説、青春小説の類だと思われそうだが、田舎からバルセローナに出てきて下宿代が出せず、アナキストのグループに頼まれて労働者にビラを撒くことによって宿を確保した主人公オノフレが、くすねた育毛剤をサクラの助けを借りて香具師よろしく売りさばくところからのし上がっていき、やがては暗黒街に足を踏み入れ、富豪になるという話。またしても黒いのだ。暗黒教養小説、とでも呼びたくなる。性の目覚めも経験する前の少年が、出世して、第一線の座を退くまでが、バルセローナで開かれたふたつの万国博覧会(1888年と1929年)の時間枠の中で語られる。

 背景となるのは、『サボルタ事件の真相』よりもいくぶん広い時間枠であるとはいえ、成長期にあるバルセローナであることに変わりはない。サンディカリスムが盛んな時代で、それを支えるアナキズムの広がりが前提にある(バルセローナはアナキストの街だった)。ムデルニスマもしくはモデルニスモ(つまり、モダニズムだ)と呼ばれる芸術運動盛んなりし時代にも重なる。この時代のバルセローナが、メンドサの得意とするホームグラウンドと言ってもいいだろう。

 いや、得意のホームグラウンドのひとつ、と言った方がいいだろうか。もちろん彼は、現代のバルセローナも描いている。最新作の『銀行強盗と人生はややこしい』El enredo de la bolsa y la vida(2012)は、不景気にあえぐ現代のバルセローナが舞台だ。そしてまたこの小説が、なんだかとぼけた味を出していて、いかにもメンドサの面目躍如といった感じだ。

 1979年の小説『魔の地下納骨堂の謎』El misterio de la cripta embrujadaから、「名もなき探偵」シリーズというのを書いており、『銀行強盗と人生はややこしい』はその第4作ということになる。「名もなき探偵」などと書くと、何やら格好よく響くかもしれないが、要するに、探偵は語り手であり、登場人物の誰も彼に対して名前で呼びかけないから名前がわからないというだけのことだ。

 客のひとりもいない美容院店主のこの探偵、精神病院の入院歴があるというから、かなりの変わり種だ。そして、「精神病」云々とはまた違う意味で、この探偵と仲間たちは相当おかしい。ふと現れた精神病院時代の友人〈男前ロムロ〉の誘いを断った直後、ロムロは失踪、その継娘ケシートに依頼された探偵が、彼女をアシスタント代わりにロムロを探すうちに、国際テロ組織の企てたドイツ首相アンゲラ・メルケル暗殺計画を阻止しなければならなくなる、というのがストーリーのあらましで、これだけ読めば立派な犯罪小説に響くかもしれないが、……なんというのだろう、細部が実に人を食ったような要素から成り立つ、そんな世界の住人なのだ、この探偵と仲間たちは。当のメルケルさえも!

 友人ロムロの誘いというのは、何やら犯罪を犯すというものらしい。というのは、銀行に金を盗みに行ったときに、相棒がそこで宣伝していた美しい食器セットを持っていこうと言い出し、ぐずぐずしている間に捕まり、このままでは収監されてしまうからだという。ロムロによれば、「今じゃあ、銀行から金を盗むなんざガキの遊びみたいなもんよ」とのこと。経済なんてのはクレジットカードやら書類上の決済ばかりで、銀行に実際の金なんぞほとんどない、だから警備もおろそかだ、そんな銀行からはいくらでも金が盗める、というのがロムロの主張だ。

 とてもおかしくはないか? 

 法螺話、とでも考えた方がよさそうなこんな論理で盗みに入り、間抜けな理由で失敗した人物が、収監を免れるためにさらに犯罪らしきことを犯そうとしているというのだ。その「犯罪らしきこと」の中身がつまびらかにされないから、それが物語を推進する力になるのだけど、それにしてもその計画を打ち明けたときのやりとりが面白い。

「一発やってやろうかと思うんだ。世の中をあっと言わせるようなことだ。リスクはないし、きつくもない、思いがけない出来事で失敗したりもしない。お膳立ては揃ってるんだ。ただ仲間がいない。どう思う?」

「俺に何かやろうと誘いかけてるのかい?」

「当然じゃないか」やつは嬉しそうに叫んだ。

「お門違いだね、ロムロ。おれはそんなことにはてんで役立たずだ。単なる美容師だぜ。もっと言えば、客ひとりいない」

「なにを言ってるんだ」と彼は食い下がる。「俺に嘘をつこうってのか? 長いつき合いじゃないか。お前さんはバルセローナで一番の抜け目ない人間だ。昔からマエストロだったろう。抜かりなくて、鋭くて、必殺だった。精神病院じゃ《猛毒屁こき》って呼ばれてたろう。忘れたのか?」

 この実に誇らしい異名がやつの口から出たので、一瞬、私は過去の栄光にどっぷりとひたった。が、経験から学んだところによれば、脅し文句よりも褒め言葉の方が怖い。よって私は現在に戻り、言ったのだった。

「ありがとう、ロムロ。だがあくまでもお断りだ。悪く思うなよ。もちろん、今の話は何も聞かなかったことにする。ここで一緒にいて、何かつまみながら飲んでたことも内緒だ。まあ訊ねられればの話だが。俺は個人的には、こうして出会ったことをいつまでも忘れないさ。うまくいくことを祈る」

 《猛毒屁こき》なんてあだ名がすごい。そんな下卑たあだ名を、しかし、懐かしくかつ誇らしく思う探偵の心情が、不可解だ。たまらなく愉快だ。

 しかもこの語り手の文体が、この引用では顕著でないけれども、擬古文というか、19世紀くらいまで使われていた語法に満ちている。現在では使われない直前過去という時制が使われたりしているのだ。

 堂々たる文体と下卑たやり取り。ふたつの共存がメンドサのもうひとつの特長だと言えそうだ。そこから独特なユーモアが生まれている。文体というのは伝わりにくいので、今これを高雅なる文学性と俗っぽさの併存、と言い換えてみよう。そうすると、突然探偵の美容室を訪れ、下着姿になって(というのがまた、おかしな話)語り始めたロムロの妻の、以下のセリフの一部などは、端的にメンドサの特長を表現していることがわかる。

その話をしにきたのよ。あなたの表情を見たら、一瞬、予定のルートを外れちゃったけど、でも、もともとそれが目的で来たの。ロムロはあなたのことを親友だと思ってた。ちょっと前にあなたたち一緒に飲んだでしょ。知ってるのよ。その時きっと何か話したはずよ。間違いないわね。事細かにでなくても、せめて間接的にほのめかすくらいはしたはず。ロムロは比喩で話すのが好きなのよ。ゴンゴラみたいなものね。見た目もルイス・デ・ゴンゴラ先生によく似ているのよ。トニー・カーティスにも似てるけど。このふたりのマッチョな男たちを足して2で割ったような、すてきな顔。

 ルイス・デ・ゴンゴラというのはスペイン・バロック期を代表する詩人だ。その詩人と20世紀のアメリカ合衆国の映画俳優が併存するこのたとえが、なんともユーモラスだ。

 ちなみに、『銀行強盗と人生はややこしい』発売後、スペインのテレビ番組でのインタヴューに応え、メンドサは「レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』のような小説を書きたいとずっと思っていた。それが、これだ」と言っている。登場人物に負けず劣らずおかしな人なのかもしれない。

 そのエドゥアルド・メンドサが、来日するというのだ。来日することは前から知っていたが、急転直下、ぼくの勤める大学(東京外国語大学だ)でも話す場を作ってはくれまいか、とセルバンテス文化センターが誘いかけてきたのだ。

 セルバンテス文化センターというのは、スペインの国家機関で、文化省の下部組織。世界各国に同名のセンターを置いて、スペインおよびスペイン語圏ラテンアメリカの文化の普及に努めている場だ。メンドサの講演会の後にはレセプションがあるのだと、広く出版関係や翻訳関係の人にもお知らせが来た。翻訳のためのプロモーションも兼ねるという意識だろうか? こうした催しをよく開いている機関だ。

 今年はとりわけ、「日本におけるスペイン年」でもある。伊達家の支倉常長率いる遣欧使節団がスペインに渡って400年目の年に当たるので、それを記念して、10月以降、いろいろな催しを行う予定になっている。東京外語大は何しろ、新しく着任する学長というのが、スペイン史の立石博高さんなものだから、前学長・亀山郁夫さんの残したロシア色……というか、ドストエフスキー色から一新、スペイン色を打ち出していこうとの意向なのかもしれない。「日本におけるスペイン年」にも積極的に参加していこうとしている。だから、そのプレ企画としてどうだ、と問われたのだ。

 「エドゥアルド・メンドサを迎えて:言語、都市、文学」は4月3日(水)11:00-12:30、東京外国語大学422教室(総合文化研究所会議室)にて開かれます。スペイン語による通訳なしのセッションだけれども、講演というよりは、質疑応答を主としたものにする予定。スペイン語を解する方や、スペイン語話者の友達がいる方、参加は自由です。

 翌4日のセルバンテス文化センターでの講演は同時通訳つき。こちらもどうぞ。

柳原 孝敦(やなぎはら たかあつ)1963年鹿児島県奄美市出身。スペイン語文学翻訳家。おもな訳書:カルペンティエール『春の祭典』、ボラーニョ『野生の探偵たち』(共訳)、バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、アイラ『わたしの物語』

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