第2回: アルゼンチン・ノワール?
困ったことがある。
ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』(白水社、2010)という小説を松本健二との共訳で出した。探偵小説だと思われたようだ。実際には詩人小説(?)なのだが。カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』(白水社、2011)という翻訳を出した。「翻訳ミステリー大賞」でも好評だったとか。そんな縁で、たぶん、今、これを書いている。ありがたい。
が、困ったことがある。
『ブエノスアイレス食堂』の「訳者あとがき」に、「アルゼンチン・ノワール」なんて書き、オビにも喧伝されたものだから、少なくとも一部に、あたかも「アルゼンチン・ノワール」というジャンルあるいはサブジャンルがあるかのごとく受け取られてしまった。アルゼンチン人がアルゼンチンを舞台に書いたノワール、暗黒小説だからアルゼンチン・ノワールと書いただけなのだけど。
いやいや、学者とてキャッチーな用語のひとつやふたつ産み出すほどの芸当がなければやっていけるはずもなく、そもそも人文社会科学の学者のやっていることなど、なんでもない社会現象や文化現象に名前をつけているだけではないか。ぼくたちが金を払って本を買う行為を「経済」と呼んでいるだけじゃないか。だからまあ、少しばかり色気を出して『ブエノスアイレス食堂』を「アルゼンチン・ノワール」と呼んだ行為を、何の恥じることがあるものか……と開き直るには、ぼくはいささか正直者すぎる。小心者すぎる。
困った困った。
前回も書いたように、スペイン語圏では「暗黒小説」novela negraという用語が広く使われていることは間違いない。『ブエノスアイレス食堂』の「あとがき」にも書いたが、バルマセーダはヒホン・ノワール週間Semana Negra de Gijónというフェスティヴァルで新人の小説に与えられるシルベリオ・カニャーダ賞を受賞した。「ノワール週間」と書いたけれども、もともと暗黒小説だけを対象としていたこのフェスティヴァルは近年ではSFやノンフィクションなどにも拡大した文学祭になっているので、「ヒホン暗黒小説週間」と紹介するわけにもいかず、「ノワール週間」と紹介したわけだ。本当はあまり「ノワール」なんて言い方したくないのだけど。かといってスペイン語で「ネグラ」と言っても、アパートと間違えられそうだ。加えて、「ノワール」の説明、言葉の綾というやつで、まずい言い回しもあったし……まあ、そうした反省はともかく、それだけ「黒」の概念は顕著だ。
ところで、このヒホン・ノワール週間、提唱者はメキシコの作家パコ・イグナシオ・タイボⅡ世だ。メキシコの作家がスペインでこうした催しのイニシアティヴを取ったという事実には、さして大きな意味はない。タイボⅡ世というからにはⅠ世がいて、このパコ・イグナシオ・タイボⅠ世、すなわちⅡ世の父親がスペインからメキシコに移住してきた作家だったから、他の人より少しだけスペインとの繋がりは強いかもしれない、という程度のこと。Ⅱ世の方は『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』(後藤政子訳、海風書房、2001)などの著者でもあり、アクティヴィストとしても知られているのだが、もちろん、彼自身、暗黒小説を書いている。うち2冊は翻訳が存在する。『三つの迷宮』(佐藤耕士訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1994)と『影のドミノ・ゲーム』(田中一江訳、創元推理文庫、1995)だ。もう1作、新たな翻訳企画が進行中だとの話を聞いたことがあるが、具体的には不明。
ヒホンのフェスティヴァルでは既に挙げた新人賞シルベリオ・カニャーダ賞だけでなく、最良の暗黒小説に贈られるダシール・ハメット賞というのがある。2012年この賞に輝いたのはスペイン人クリスティーナ・ファリャラスの『迷子の少女たち』(Cristina Fallarás, Las niñas perdidas)だった。そして賞こそ逃したものの、最終候補4人のうち2人はアルゼンチン人作家だったのだ。レオナルド・オヨラとカルロス・サレム(ちなみに、もうひとりはボリビアの中堅作家ロドリゴ・フレサン。フレサンは6月にお忍びで来日予定)。
アルゼンチン勢、すごいじゃないか。なんだ、やっぱり「アルゼンチン・ノワール」って存在すると言ってもいいんじゃないのか?
(ヒホンの文学祭とそこでのハメット賞、カニャーダ賞については、先日、このサイトの「非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると」で松川良宏さんが詳しく紹介してくださっているので、そちらを参照されたい。)
そうそう。そして何と言っても、アルゼンチンならば、ギジェルモ・マルティネスGuillermo Martínez (1962-)がいるではないか。『オックスフォード連続殺人』Crímenes imperceptibles(和泉圭亮訳、扶桑社ミステリー、2006)のあのマルティネスが。「暗黒」と概念を拡大するまでもない、本格ミステリーの旗手が。
奨学金を得てオックスフォード大学に留学にやってきた数学生の「私」が、下宿することになった家の主イーグルトン夫人の死体を見つけたところから始まる連続殺人を扱った小説だ。殺されたイーグルトン夫人というのが、かつて大学で教鞭を執っていた数学者の未亡人で、現役教授のアーサー・セルダムに殺人予告もしくは犯行声明のようなものが届き、これを論理数列の記号と見なした教授と「私」の2人が、次なる犯行の可能性について議論をめぐらせる。そんな彼らの眼前で、しかし、2件目、3件目の犯行が実行に移され、そのたびに数列は増え、その意味が次第に明確になってくる。クライマックスの第4の犯行と、それをカムフラージュする出来事が、1994年6月23日のアンドリュー・ワイルズによるフェルマーの最終定理証明の宣言に重ねられるとあれば、数学を題材とした知的エンターテインメントとして申し分ない読み応えだ。
ポワロ—=ナルスジャックは「ある国民にとっては、謎はそのままでよいのであり、その秘密は手を触れぬままにしておかねばならないもののようだ。別の国民にとっては、ことにラテン民族にとっては、神秘などというものは魅力がないのだ」(廣野由美子『ミステリーの人間学──英国古典探偵小説を読む』、岩波新書、2009、31ページから孫引き。青字は柳原による)などとのたまったらしいが、なに、「ラテン民族」アルゼンチン人にだって、立派なミステリーが書けるではないか。そのことの何よりの証左がマルティネスのこの小説だ。
ん? しかし、ひょっとしたら、これは「私」以外がオックスフォードのイギリス人だからこそ成り立つ小説だとでもいうのか? マルティネスには『ルシアナ・Bの緩慢なる死』(和泉圭亮訳、扶桑社ミステリー、2009)という、これはどうやらアルゼンチンを舞台としたらしいミステリーもあるのだが、残念ながらぼくは未読。でも、ともかく、アルゼンチンでだって、もちろん、ミステリーは成立する。
そもそも、『オックスフォード連続殺人』の「解説」で、千街晶之はこれをホルヘ・ルイス・ボルヘスへのオマージュもしくはパロディとしているではないか。野谷文昭もどこかで、マルティネスにはボルヘスの影響が強く読み取れるとしている。このミステリーがボルヘスのどの作品を想起させるかを明かしたら、いわゆる「ネタバレ」になってしまうので言わないが、なるほど、アルゼンチンにはミステリーの大先輩がいたのだった。ボルヘスはイギリス系ではあるけれども。
ボルヘスの著作は多くが翻訳されているが、『伝奇集』、『エル・アレフ』といった短編集には、確かに、ミステリーと呼ぶべきものが収録されているし、謎解きではないけれども、殺人事件や刃傷沙汰の起きる暗黒小説となればその数はもっと多い。さらには友人アドルフォ・ビオイ=カサーレスとの共著で『ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件』(木村榮一訳、岩波書店、2000)などの探偵小説を出しているのだった。刑務所内にいる元理髪店店主が、依頼人の話を聞いてそれだけで推理・解決するという、物的証拠中心の警察捜査に真っ向から対立してあざ笑うかのような発想の妙だ。文学大国アルゼンチンには、ミステリーや暗黒小説の大きな脈が、やはり存在すると言ってしまおう。
ボルヘスとビオイはみずから探偵小説を書いてるだけでなく、若い頃、ふたりで探偵小説アンソロジーを編集し、アルゼンチンの出版社から出したことがあった。その際に、ボルヘスが師と仰ぐメキシコの作家アルフォンソ・レイェスに、ラインナップについてのアドバイスを請う手紙を書いている。ぼくはかつて、レイェスの個人古文書館でその直筆の手紙を読んだことがある。
アルフォンソ・レイェスというと、日本での知名度は今ひとつなのだが、メキシコではわが国文学の父、みたいに崇められている作家だ。あの国の人文科学の知の配置の礎を築いた人だ。その彼も、つまり、ミステリーに造詣が深かったということなのだろう。これはもうアルゼンチンだのメキシコだのといった「ラテン民族」の国でミステリーは存在するか、というレベルの話ではない。みんなミステリーが好きなのだ。きっと。
うん。きっと今では胸を張って言っていい。アルゼンチン・ノワールというのは、存在する。誰もそんな言い方をしないだけだ。それはアルゼンチンには文学が存在すると言っている程度の意味合いなのだから。
ところで、マルティネスの『オックスフォード連続殺人』は映画化されている。日本では劇場未公開だったけれども、DVDは発売されている(ファインフィルムズ)。監督はアレックス・デ・ラ・イグレシア。『どつかれてアンダルシア』なんて邦題の映画があるものだから、B級とのイメージがつきまとう監督だが、『マカロニ・ウェスタン 800発の銃弾』など、興味深い映画を撮っているスペイン人監督だ。俳優陣はイライジャ・ウッドにジョン・ハートが探偵=数学者コンビを演じ、レオノール・ワトリング(悪のりしてハートマークを書きたい衝動をぐっとこらえつつ)らが脇を固めている。
原作小説の主人公兼語り手「私」は映画ではマーティンという名になっている。そしてアルゼンチンからの留学生ではなく、アメリカ合衆国はアリゾナ州の出身だとされている。映画が原作小説を改編するの避けられないことだし、他にもいくつか変更点はあるのだが、それにしても、少し残念なところ。マルティネスの小説の主人公だからマーティンにしたのだろうか? それならせめてウィリアムにして欲しかったと思うのだ。
というのも、この「私」、原作邦訳の人物表にも名前が記されておらず、先週に続いてまたしても「名もなき探偵」かと思われるのだが、実際には主人公の名は示されているからだ。いや、ほのめかされている、と言うべきだろう。イーグルトン夫人の孫娘(映画では娘)ベスが、彼の名を呼んだときの様子が記されている。
するとエルエル(ll)の発音でつまずきながらもいじらしい努力をしてベスが私の名前を呼んだ。(60ページ)
と。
「エルエル」と書いてあるが、スペイン語風に言うと「エリェ」(/「エジェ」/「エイェ」)となるダブル・エル(ll)が使われている名とは何か?
もちろん、決まっているじゃないか。英語での対応する名がウィリアム(ビル)であるその名は、ほかならぬ、ギジェルモGuillermoだ。
『オックスフォード連続殺人』は、数学専攻だったギジェルモ・マルティネスのオートフィクション(私小説)でもあったという次第。
◇柳原 孝敦(やなぎはら たかあつ)1963年鹿児島県奄美市出身。スペイン語文学翻訳家。おもな訳書:カルペンティエール『春の祭典』、ボラーニョ『野生の探偵たち』(共訳)、バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、アイラ『わたしの物語』 ブログ CRIOLLISIMO ツイッター アカウント @cafecriollo。 |