4月26日に蔡駿(さいしゅん)の『幽霊ホテルからの手紙』(舩山むつみ訳)が文藝春秋から出版されました。蔡駿と言えば、20年余り前から中国のサスペンス業界で活躍している有名作家で、しかも毎年のように長編やら短編集やらをコンスタントに出していて、他の中国の有名ミステリー作家も見習ってほしい優等生といった印象があります。また紫金陳や周浩暉とは異なり、作品の主人公が警察官ではなく一般人が多く、一見すると幽霊や超常現象の仕業が原因としか思えない怪事件ばかり書くのが特徴です。
 ただ、蔡駿が日本で知られるようになった当初、彼が「中国のスティーブン・キング」と呼ばれているという話には耳を疑いました。しかし実際に調べてみたところ、確かに彼がスティーブン・キング好きで、しかも複数のメディアに「中国のスティーブン・キング」として紹介されている記事も見つけたので、「ああ、この肩書きは正しかったんだ」と目からウロコな思いをするとともに、「そもそもスティーブン・キングって中国でそこまで読まれてなくない?」と別の疑問が浮かんだところで、そう言えば自分は蔡駿を語れるほど読んだことがないと気付きました。
 なんというか、蔡駿って「推理」(ミステリー)ではなく「懸疑」(サスペンス)やホラー寄りの作家なんですよね。だから食わず嫌いをしていてそこまで読んでいなかったのですが、日本語版が出るという機会を使って、蔡駿の作品を読んでみることにしました。

 そこで今回は、最近『幽霊ホテルからの手紙』として日本語版が出たばかりの『幽霊客棧(2004年)、そして5月19日に日本語版『忘却の河』の出版が予定されているけどこれまで何度も発売延期しているので本当に出るのか正直よく分からない『生死河』(2013年)、さらに今年中国で出版されたばかりの『一千万人的密室』(2023年)の3作品を紹介します。

 

■『幽霊ホテルからの手紙』(『幽霊客棧』)

 警察官・葉䔥のもとに幼馴染の作家・周旋が憔悴した様子で訪れる。ミステリアスな女性・田園から小さな木箱を託された周旋は、彼女が死ぬ前に留守録に残した「木箱を幽霊ホテルに届けて」という遺言のようなメッセージを聞き、警察官である葉䔥に田園や幽霊ホテルの調査を依頼しに来たのだ。
 その後、幽霊ホテルにたどり着いた周旋から、葉䔥は毎日長文の手紙を受け取る。ホテル内の様子や他の宿泊客のことを含む、その日に起きた出来事を綴ったその手紙には、いつしか非現実的な内容や恐ろしげな描写が多く見られるようになり、葉䔥は周旋の正気を疑い始める。果たして周旋の身に起きていることは事実なのか。

 周旋の手紙の内容が大半を占める本作は、幽霊ホテルで起きた出来事を周旋の視点で書いた手紙を葉䔥が読み、それを読者が俯瞰するという入れ子構造になっています。出発前にあれだけ具合悪そうにしていたのにホテルで一日一万字以上の手紙を書ける精力はいったいどこから来ているんだと、これだけで周旋の精神状態が心配になります。周旋の体験は全編通してかなりホラー小説寄りの不気味なもので、死体が蘇ったとしか思えない出来事さえ出てくるので、葉䔥も読者も「マジか?」と疑いながら周旋の物語の結末を待ちわび、手紙一つに翻弄されていることに気付きます。
 周旋の身に起きた異常な出来事は手紙越しにしか知ることができないので、読者は不確かな情報に引きずられながら彼が連日届ける恐怖だけが確かにへばりついてくるという読書体験を味わえます。他にも、幽霊ホテルが近隣住民から忌避されているはずなのに、何故かそこそこ宿泊者がいること、「幽霊ホテル」があだ名じゃなくて正式名称ということなど、とらえどころのないちぐはぐさがこの作品の結末の予想をよけいに困難にさせています。
 読み進めていくと、宿泊客ばかりか周旋自身にもホテルにまつわる秘密があることがわかり、まさに謎が謎を呼ぶ展開なのに、読者の分身である葉䔥は遠くで手紙を読むことしかできないという状況にヤキモキさせられます。
 幽霊ホテルは本当に「幽霊ホテル」なのか? 是非とも日本語版を読んで確かめてください。

 

■『忘却の河』

 高校教師・申明は教え子の柳曼殺害の嫌疑をかけられる。身に覚えのない彼は誰かにハメられたと考え、独自に調査に乗り出すも、ときすでに遅しで、犯罪者扱いされて学校をクビになり、婚約者・谷秋莎にも捨てられる。自暴自棄になった彼は仲が悪かった同僚教師が犯人だと思い込んで殺害するも、それは人違いで、それどころか彼自身も何者かに殺されてしまう。
 それから9年後、申明の友人の路中岳と結婚し、父親が経営する教育会社の幹部として満ち足りた生活を送る谷秋莎は、9歳児とは思えない知識を持つ少年・司望を気に入り、養子に迎える。だが司望はなぜか9年前の申明の身に起きた一連の事件を調べ、当時の関係者に事情を聞いていく。そして周囲の人間はこの神童めいた少年のせいで、錯綜した人間関係が織り成すトラブルに巻き込まれていく。

 「忘却の河」というギリシア神話を思わせるタイトルでほとんどの人がピンと来たでしょうが、この作品は生まれ変わりをテーマにしています。申明の生まれ変わりとしか思えない少年の司望(読みが「死亡」と同じ)が、あるときは申明のように振る舞い、あるときは子どもであることを利用して徐々に当時の真相に近づいていくも、谷秋莎を含む関係者の思惑も絡み合ってさらなる悲劇にまで発展するかなり上質なサスペンスといった内容になっています。
 『幽霊ホテルからの手紙』の葉䔥も仲間になり——彼は蔡駿作品の陰の主人公みたいなものなので、様々な作品に登場している——9年前の柳曼と自分を殺した犯人を探す協力を取りつけます。人間、死ぬ気になればなんでもできると言いますが、実際に一度死んでいる申明(司望)はもはやなりふり構わず、復讐のためなら親だろうがかつての婚約者や教え子だろうがなんでも利用します。生まれ変わってまでやることがそれでいいのか?と思わないでもありませんが、本作はただでさえ申明と司望という二つの顔を持つ主人公が、さらに教師、恋人、友人、生徒、子どもなど中国の伝統芸能「変面」のように様々な仮面を被ったり取ったりして、復讐のためにいろんな人間を口説き落としていく様を眺めるのも一つの楽しみ方です。

 本作には一つ裏話がありまして、雑誌『懸疑世界』で連載されていたとき、申明(司望)だけの一人称視点で展開する構成になっていたようです。しかし後半になって別のアイディアを思いついた作者の蔡駿が、三人称視点の物語として書き始め、単行本化の際に大幅な修正をしたそうです。
 雑誌連載時の読者に言わせれば、一人称視点での方が断然面白かったとのことですが、様々な人間の感情がむき出しになった三人称視点の単行本も十分スリリングでした。
 また、単行本化の際に大幅修正をしたのは、「輪廻転生」が当局の検閲に引っかかるからという説も見かけました。ただし、読者から見て司望が申明であることは明らかですし、司望自身も「自分(申明)の魂は司望の中にずっと潜んでいる」と言っているので、この本が生まれ変わりをテーマにしているのは間違いないですし、隠してもいないと思います。ただ、そういう要素をことさら喧伝すると、検閲に引っかかりそうではありますが。

 

■『一千万人的密室』

 コロナ下の中国の大都市。調査員の雷雨は妙に色っぽい中年女性「洪姐」から、31歳になる息子の銭奎を探してほしいという依頼を受ける。銭奎の足跡をたどると、とある部屋で男の死体を発見し、殺人の容疑者となった銭奎はすでに国外に逃亡していた。
 話はこれで終わらず、洪姐から今度は銭奎の婚約者の李雪貝を調べるよう頼まれる。李雪貝は16年前に殺人事件に巻き込まれていて、殺された男も当時の事件の関係者だと言うのだ。雷雨は李雪貝と接触し、彼女の過去を調べていくうちに彼女と昔会ったことがあるという事実に気付く。

 あらすじからは分かりませんが、ハードボイルド小説の主人公さながらの暮らしをする雷雨の一人称で綴られる本作には独特の読みごたえがあり、雷雨の人を喰ったような言動こそ本書最大の見所かもしれません。「ハードボイルド小説=暴力的」という図式はとっくに昔のものかもしれませんが、雷雨自身は公安大学出身というインテリだし、何より「手よりも先に口が出る」っていう人たらしの面があり、暴力ではなく対話で物事を解決するので、酒飲みで人生ハードモードっていう設定がないとむしろ軟派で軽薄な男にしか見えません。この作品をハードボイルドたらしめているのは、元殺人犯で出所後もヤクザまがいの生き方をしている雷雨の父親と、雷雨以上につらい過去を持つ李雪貝ではないでしょうか。
 作者はレイモンド・チャンドラー風の作品を心がけたようですが、もしかして紀蔚然の『台北プライベートアイ』(舩山むつみ訳/文藝春秋も意識しているのかなと読後に思いました。ハードボイルドものは中国ミステリーでは珍しいですし、蔡駿にとってもほぼ初の試みだと思います。ただ、読者を煙に巻くような彼の作風がハードボイルド小説と相性が良いことが証明されたので、デビュー20年以上で新しい扉を開いたのは純粋に彼の才能を感じました。だけどやっぱりタイトル詐欺が過ぎるなと思いました。「1000万人の密室」と書いているのだから、てっきり1000万人が住む大都市がコロナの流行でロックダウンされたせいで巨大な「密室」が造られたのかと思いきや、単に犯人の見当がつかないから住人の数だけ容疑者が存在するという意味だとは、はっきり言って羊頭狗肉でした。

 蔡駿の作品の和訳が二作で終わるとは思わないので、これからも過去作を定期的に読んでいきたいと思います。

阿井幸作(あい こうさく)

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)


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