みなさんこんばんは。第8回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。
 
 さて、新しい年。皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は年末年始のバタバタした日々に少々疲れが出たらしくちょっと体調を崩してしまい、眠っても眠っても身体がまだ眠りを欲している……という状態がしばらく続いておりました。暗い部屋に閉じこもって眠っていると時間の感覚がどんどんおかしくなるものですね。「あれ?昨日と全く同じ1日なのでは……今は何日?時間が進んでないような気もするし、ものすごく進んでいるような気もする……あれ、またさっきと同じことをしている気がする……」というふわふわした状態の中でこの原稿のことを考えていました。
 
 ということで、今回は「時間」をめぐるミステリアス・シネマを。メルリン・デルヴィセヴィッチ監督のタイムループSFミステリ『残酷で異常』をご紹介しましょう。


■『残酷で異常』(CRUEL & UNUSUAL)[2014.カナダ]

 あらすじ:何が起きたのかはよく覚えていない、けれど私は妻を殺してしまったらしい、そして今、彼女を生き返らせようと必死になっている……と思った瞬間、エドガーはいつもと同じように妻と車の中で会話していた。家庭生活もいつも通り。夢?未来の幻視?まさかな……しかしその日、家の部屋の扉をあけた途端、おかしなことが起きる。エドガーは見たことのない場所に閉じ込められていたのだ。そこは奇妙な施設で「自分が犯した殺人」について語り合うグループセッションが行われている。なんだこの馬鹿げた場所は……エドガーは施設の外への脱出を試みる。しかしそのたびに、あの日の「同じ瞬間」に戻ってしまい、何度も何度もあの「妻を殺した」状況が繰り返され、また気づけば再び奇妙な施設に戻ってしまう。ちくしょう、いったい何が起きているんだ、ここはどういう場所なんだ……?

 

 
 またまた劇場未公開作品(Amazonビデオ/iTunesビデオ/YouTubeムービーで鑑賞可能)です。何ともまあ素っ気ないタイトルなのですが、侮ることなかれ。扉/巻戻/視点の変更というタイムループSFの基本形を使いつつ、ドラマの主眼をwhat(何が起きたか)からwhy(どうして起きたか)とhow(どのように起きたか)へ、さらには……と変化させていく手つきが実に見事なSFミステリでした。
 
〈ループもの〉の定番といえば「もしもあのときに戻れるならこうなってほしい」「でもそうすると何かを失ってしまう」というせつなさ、「嫌なことが何度も繰り返される」「起きていることを誰にも伝えられない」怖さ、といった要素が定番かと思いますが、今作はそこに加えられた新味のツイスト、そのひと匙の加減が実に巧妙なのです。
 
 何をいってもネタバレになるうえ、ネタバレしたうえででも文章だけでは説明するのが難しい「映像だからこそ可能な表現」が特徴的な映画なのですが(第1回のコラムでも紹介した『ザ・ワン・アイ・ラブ』にも通じる部分があります)なんとかその魅力を言葉にしてみるとしましょう。
 
 序盤の日常描写での奇妙な編集の段階で、この映画は「隙間」の存在を観客に気づかせます。それは単純に殺人に至る原因と経緯が抜けている、ということだけではありません。「おそらくこのシーンとこのシーンの間に何か重要なことがあるはずなのにそこがすっ飛ばされている」という違和感がいくつも重ねられて、この映画を牽引していきます。説明のないエドガーのシャツの染みはどこでできたもの? 息子に何があったのか? アジア系の風貌で少し話し方がぎこちないエドガーの妻メイロンが不安げに見えるのはなぜ? 訪ねてきた男はどういう存在?
 
 この「説明が抜け落ちている」違和感は途中まではそのまま主人公エドガーの身に覚えのなさ、よくわからない曖昧な記憶への不安や焦りを示すものとして機能します。ところが何度も殺人当日に引き戻されていき、細部が少しずつ明らかになって真相に近づくうちに、今度はエドガー自身の「いつも妻のためを思っている」という意識が生活の中でどういうかたちであらわれていたのか、そこにある「認知の歪み」が容赦なく描き出される展開になっていくのです。
 
 そう、これは「あのとき何が起きたのか」「ここはどういう場所なのか」という謎解き自体が目的ではなく、「その状況は何を示しているのか」ということこそがミステリとしての肝になっている映画なのです(ループのルール、施設のルールのすべてを説明されていないためいくつか最後まで謎が残る点があるのも「その法則自体を描くのが目的ではない」からでしょう)。やがて主人公以外のグループセッションのメンバー、長年ずっと施設に居続けている者たちの「扉の向こう」が映し出されるシーンを転換点として、物語は「今の自分には何ができるのか」を探る、ぐっとエモーショナルな方向へと舵を切っていくのです。
 
 後半の展開は是非、実際に御覧になってお確かめください。ラストシーンには奇妙なタイトル(邦題は原題の直訳です)に込められたニュアンスが「そういうことだったのね」とはっきりわかるはず。その鮮やかさに、拍手を送りたくなる作品です。
 


■よろしければ、こちらも/『わたしの本当の子どもたち』


 タイムループものではないのですが、最近読んだ「時間をめぐるSF」ではジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち』がお気に入り。記憶が曖昧になりゆく老女パトリシアが「どちらも確実に存在したと感じられる」ふたつの人生――〈トリッシュ〉として生きた日々/〈パット〉として歩んだ人生(「名前」が彼女を定義づけていく)――を思い出していく「ありえたかもしれないし、ありえないかもしれない、私の人生の物語」です。同一人物の二種類の一代記として展開される物語の端々には「もしもあのとき、ああしていたら」「こちらがある世界線で愛しているものは、あちら側の世界線には絶対に同じようには存在できない」ということの寂しさが刻まれています。さらに「気づけば何もかも過ぎ去っていること/老いるとは私の記憶の中にしか存在しない人が増えていくこと/私が生きた時も本当に存在したかどうかさえ最後にはわからなくなっていくこと」という時の止められなさの無常も描かれているのですから、せつないったらありません……
 
 しかし、そこはジョー・ウォルトン。『バッキンガムの光芒 ファージングⅢ』の序文で

わたしは、希望を失ったことのない楽天家である。 だからこそ、この三部作を書いた。

 と書いた人だけあって「それでも、どんな人にも、どんな時空でも無駄な人生なんてどこにもない、少なくともあなたにはそう思っていてほしい」と静かにはっきりと宣言してくれるような筆致が頼もしい。パトリシアが本当はどちらの世界にいたのか(あるいはどちらでもなかったのか)、本当の子どもたちとは誰なのか、2つの人生のどちらが良かったのか。それは誰にもわかりません。ただわかるのは、人生の網目と歴史の網目はいつだって複雑で、幸せになれる可能性と同じように不幸になる可能性も抱え続け、個人も家族も社会も受動的でもあれば能動的でもあり「ありえたかもしれなさ」は「ありえなかったかもしれなさ」にもなる、どんな人生でも完全であることは難しいし、多くの場合は後悔しかないというわけでもないこと……柔らかな日差しのなかにすべてがホワイトアウトしていくような余韻がとても美しい作品でした。
 
 時間とはとても不思議なものです。ほとんど同じことをやっていても昨日とは全く異なる一日に思える日もあれば、うんざりするほど同じ時間が続いているように感じるときもあります。巻き戻してやり直したいと思うことも、もう絶対経験したくない戻りたくない時間というのも存在します。誰もが無縁でいられない「時間」というものの偉大なるミステリ性。これからもたくさんの映画や小説で「時間」をめぐる不思議な物語が描かれることでしょう。そういった作品をよりたくさん楽しむためにもう少し時間をうまく使えるようになりたいものだな(締切当日に必死でこの原稿を書いています)……なんてことを考えながら、それでは、今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。
 

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。

 

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