翻訳小説を読む楽しみのひとつは、ふだんの生活のなかではそう触れることのない異文化に出会えることだといっていいでしょう。現在日本で翻訳されている作品をみるとさまざまな国や地域が舞台に選ばれているわけですが、もちろんそのバラエティは空間的な広がりだけにとどまらず、土地ごとの歴史に根ざした、さまざまな時代を舞台とした作品が存在します。思えば近年の中国語ミステリ最大のヒット作である陳浩基『13・67』も、大きな魅力のひとつは作品の背後に横たわる、半世紀近くにおよぶ香港の変遷でした。
 しかしさまざまな舞台があるとはいえ、このたびハヤカワ・ポケット・ミステリから刊行される中国ミステリ、陸秋槎りく・しゅうさ(ルー・チウチャー)の『元年春之祭がんねんはるのまつり』のように、年代に「紀元前」が付くとなるとなかなか例がないはずです。
 今年4月の第九回翻訳ミステリー大賞授賞式&コンベンションでおこなわれた「イチ押し本バトル」で同率一位に選んでいただいた(ハーラン・コーベン『偽りの銃弾』読みました。痺れました)のも、この大胆さがいくらか手伝ったのでしょうか。
 


『元年春之祭』が舞台に選んだのは前漢の時代、天漢元年(紀元前100年)。当時の漢帝国は第七代皇帝、武帝のもとで繁栄をむかえ、最大版図を達成した時期にあたります。しかし武帝の治世が長期化するなかで、厳しい統制の結果として社会不安が高まりつつある時代でもありました。
 物語はの地で暮らすかん一族を、長安の富豪の娘である於陵葵おりょう・きが訪れるところから始まります。かつて楚は強国のひとつとして存在感を示していましたが、この物語のころには漢の支配下におかれています。観家はかつて楚国に仕え祭祀をつかさどっていた名家ながら、仕える先を失ったいまでは山奥で暮らしており、俗世から離れたこの地で古礼を学ぶことができると期待して葵は観家をおとずれたのでした。
 物語の中心となる登場人物は、於陵葵にくわえて、召使として葵に仕える小休しょうきゅう、観家当主の娘である観露申かん・ろしんといった少女たちで、ときにかしましく、ときに陰をまとったやりとりを繰り広げる彼女たちが、観家で起こる連続殺人事件に巻きこまれていきます。
 
 作者である陸秋槎は大学院で中国古典を研究していた経歴もあり、その知識なしで本作が成り立つことはなかったでしょう。細部の稠密な描写からもこの時代への造詣の深さはうかがえますが、それ以上に、同時代人でもトップレベルの教養を持つ葵がさまざまな文献を縦横に引用しながら展開する議論は、ときに国家のありかたにまで及び、そのスリリングさは本作の大きな読みどころになっています。
 ……と書いていて、小難しい作品だという印象を与えているのではないかと不安になってきました。実際、わたしも原書を読みはじめる前にはそうやって少しおじけづいていたのを思い出します。
 しかし本作、読む側にくわしい知識は求められません。たしかに多くのかたにとって馴染みのない舞台ですし、古典の引用は随所に登場します。しかし、主人公である露申は学問が得手ではないということもあって、説明すべきことはすべて作中で説明されるようになっています。尻込みするようなことはなにもありませんので、個性的な中国ミステリを通じ、新たな「異文化」との出会いをお楽しみいただけることを願っています。

稲村文吾(いなむらぶんご)
 中国語翻訳者。訳書に「現代華文推理系列」全三期(Kindle Direct Publishing)、胡傑『ぼくは漫画大王』、文善『逆向誘拐』(ともに文藝春秋)。
twitterアカウント: @inmrbng
■担当編集者よりひとこと■

 早川書房から刊行されているポケット判サイズの海外ミステリ叢書がありますね。小口が黄色いやつです。いわゆる〈ポケミス〉です。
 この叢書、通称の〈ポケミス〉で弊社内でも社外でもおおむね通じるのですが、現在の正式な表記はいちおう〈ハヤカワ・ミステリ〉なのです。私は入社するまではカタカナで〈ハヤカワ・ポケット・ミステリ〉が正式名称だと思いこんでいたこともあり、今でも正式名称で表記するたびに「〈ハヤカワ・ミステリ文庫〉のほうだと読者にレーベルを勘違いされるのではないか」と心配になって“ポケット”を入れたくなります。なおこの叢書の正式表記はいろいろ変遷を辿っていて、時代によって〈世界探偵小説全集〉だったり〈世界ミステリシリーズ〉だったりします。ちなみに欧文での正式な表記もあり、現在は〈HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOK〉。こっちは“ポケット”が入ってるんですよね……。
 そんな呼び方にもなんだか歴史を感じる〈ハヤカワ・ミステリ〉、通称〈ポケミス〉が今年の9月でめでたく65周年を迎え、記念作品として刊行するのが本書『元年春之祭』です。1953年9月のミッキー・スピレイン『大いなる殺人』で刊行がスタートしてから65年、中国人ミステリ作家の長篇がこの叢書で出るのは、なんと史上初とのこと。本書の舞台は前漢時代、名門の一族が住まう山中。不可能犯罪、旧当主家惨殺の謎、ペダンティックな議論の応酬、さらには2度にわたる「読者への挑戦」! その果てに明かされる衝撃の真相とは!? 1段組で300頁台とコンパクトな分量ながらも、ミステリファンの求める魅力的な要素をこれでもかと盛り込んだ、まるで満漢全席のような傑作ミステリです(満漢全席は漢の時代の料理ではないですが……)。この秋、とりわけオススメの作品ですよ!
〈ハヤカワ・ミステリ〉では本作を皮切りに、韓国ミステリ『種の起源(仮)』(チョン・ユジョン/カン・バンファ訳 2019年初頭予定)などアジア発のミステリの傑作を紹介していく予定です。乞うご期待!
 ちなみに現在は日本にお住いの陸先生が初めて手に取った〈ハヤカワ・ミステリ〉はロス・マクドナルド『運命』とのことですよ。

(早川書房N) 








 


現代華文推理系列 第三集●(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)

現代華文推理系列 第二集●(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)

現代華文推理系列 第一集●(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)

 






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