みなさんこんばんは。第16回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。
この夏の映画館では気軽なケイパームービー『オーシャンズ8』、70年代の実話を基にした『ザ・バトル・オブ・セクシーズ』、対等な男女バディヒーローの活躍する『アントマン&ワスプ』等々、「女性キャラクターの描かれ方」に注目が集まるさまざまな作品が公開されているように思います。世界のカルチャーニュースをチェックされている方ならば、ここ数年、これまでにないレベルで「女性キャラクターをメインにおいた作品」あるいはそれ自体が主要な要素には絡まないものにおいても「作品内での女性描写」への注目が集まっている流れを感じられている方は多いのではないでしょうか。
私個人としても、特に女性の作り手が大きくかかわっている作品においてのさまざまな女性表象には注目しています。愉快な存在、悲しい存在、有能な存在、冴えない存在、残酷な存在、チャーミングな存在、愛情深い存在、タフな存在、痛ましい存在……当たり前ですが、人間が複層的なものである以上すべてに当てはまることもありえますし、どれかに当てはまるものとも限りません。女性表象に注目が集まるようになったことで、その多彩さが増していくということは押し付けられた「こういうものだ」「かくあるべき」の抑圧からの解放への一歩として大変重要なこと、というのは現在進行形のエンターテインメントを考察するうえで欠かせない視点でしょう。
同時に忘れてはならないのが〈こうしたことに注目が集まってしまうくらいには〉社会的な「かくあるべき」抑圧が現実問題として多くの女性に重くのしかかっていることでしょう。私がこうした意識を特に強く感じるのは「母であることがつらい」「家がしんどい」「逃げたい、でも同時に逃げたくないとも思っている」状況がサスペンスやホラーの形式をとって率直に描かれる作品に出会ったとき。というわけで、前置きが長くなりました。今回はジェニファー・ケント監督の『ババドック~暗闇の魔物~』をご紹介いたしましょう。母として暮らす閉じた環境で生活が巨大な闇に飲み込まれていく恐怖、絶望に抗うことの難しさ、「あちら側にいってしまいたい」感情と「ここにとどまりたい」感情の攻防を徹底的に描いた作品です。
■『ババドック~暗闇の魔物~』(THE BABADOOK)[2014.豪]
あらすじ:アメリア(エシー・デイヴィス)は夫を事故で亡くしてから一人息子のサミュエル(ノア・ワイズマン)と二人暮らし。不安定で暴力的なところがあるサミュエルは学校でもしばしばトラブルを起こし、家でも落ち着きなくアメリアにまとわりつく。仕事でも家でも孤独で、生活は厳しく、一人になる時間もない。アメリアのストレスは限界に達しようとしていた。そんなある夜、サミュエルが「ママ、これ読んで」と見たことのない絵本を持ってくる。それは「ババドック」という奇妙なキャラクターが描かれた不気味な絵本。その絵本を読んで以来、親子の周囲で次々と異様なことが起き始める……
ババ……バ……ドックドックドック……! 3回ノックと不思議な声。気味の悪い絵本の中に描かれた「それ」はある日やってくる。「それ」が存在しない、と思えば思うほどに大きくなる。「それ」はお前を追い詰める。「それ」はもう生きていたくないと思わせるほどにおそろしく、やがてお前を食い尽くす……息子のことは愛しているし可愛がりたい、大事に育てたい、それでも、それなのに……この子さえいなければという感情を抱いてしまった母の自身への罪悪感と恐怖を怪物ババドックのイメージを通じて描き、心理サスペンスと悪魔憑きの恐怖を見事に合体させた2010年代のホラーを代表する名作のひとつです。
見るともなしに眺めていた深夜のテレビに映るサイレント映画に映った怪人、地下室に遺された夫のレインコート、警察に行ったときにもアメリアの目の前に現れる「それ」。いつも「男」の姿を借りて現れる「それ」が象徴している、「母」以外として自分が存在することへの罪悪感と恐怖。「良い母でありたい/自分の幸せを捨てて子どもを愛さないといけない」という自己規範にがんじがらめになった母が「ぼくがママを守りたい」というこどもの小さな背丈の必死さに余計に追い詰められていく、その負のスパイラルがとにかく凄まじい。母親側から見ても息子側から見ても泣きたくなる状況のつらさ、怖さと真剣に向き合い、そのことが密室劇としての強度を高める効果にもなっているのに唸ってしまいます。そして親も子から逃げられず、子も親から逃げられない、こうした物語が基本的に「父と娘」ではなく「母と息子」のパターンで多く描かれているということについても、物語が反映する現実の重さに息が苦しくなってきます……。
7年前に夫を亡くしたときからずっと「可哀想なシングルマザー」として扱われながら差しのべられる手はほとんどなく、唯一差し伸べられた手は夫を思い出して拒絶してきた、頑なで必死で「外に助けを求められない」アメリアの苦しみが深く刻まれたその顔が、「それ」の出現によってさらにどんどん歪んでいく恐ろしさ。日常がただそこにあるだけでも疲弊していくものだと彼女自身も気づいていて、それでも彼女はその疲弊をどうすることもできない。そのことへの絶望から、彼女は異世界への扉を開いてしまう。 この「夢うつつ」の感覚の描き方もとても巧みで、暗闇の超常現象と現実の境の曖昧さが見る者すべてを不安にしていきます。
そんな「世界から孤立した母子」の精神の戦いが物理的な戦いとして視覚化され、絶望と恐怖が吹き荒れる暴風雨と化していくクライマックス、彼らは〈ババドック〉に勝てるのか、彼らが最後に〈ババドック〉をどうするのかは、是非ご覧になってお確かめください。存在することを否定するほどに膨れ上がる心の闇に対してどう決着をつけるか、その最も難しいことへの実に真摯な回答があった、ということをお伝えしておきましょう。
■よろしければ、こちらも/『ビッグ・リトル・ライズ』
「女性と家庭」をめぐるしんどさが描かれるミステリ作品としてHBOのリミテッドシリーズ『ビッグ・リトル・ライズ』(約50分×全7話/原作はリアン・モリアーティの『ささやかで大きな嘘』)もとても好きな作品です(そういえばこのコーナーでドラマ作品を紹介するのは初めてですね)。
パーティでの「誰かが死んだ」から始まり、「誰が(誰によって)死んだのか」を中心に置いたミステリとして、キャストがものすごく豪華なこと自体で「これは誰の物語なのか?」を惑わせるという仕掛けも巧妙で、近年の映像ミステリにおける俳優アンサンブルの最高峰のひとつなのではないでしょうか。エピソードが進むにつれ、同じ学校に通う子を持つさまざまな状況にある母親たちのそれぞれに抱えた虚栄心、不安、秘密、罪悪感、恐怖などが明らかになっていくのですが、その一人ひとりに関する「情報の出し方」が実に巧みな作品です。差し挟まれる彼女たちについての周囲の証言の容赦なさ、「真実に至るまでのまだるっこしさ」がすべて必然に思える構成にはちょっとヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』を思い出す部分も。ある人物の「被害者であることを認めたくない、自分が認めたくないだけだとわかっていてもなお認めたくない」「〈そのようにみられてしまう〉のが怖い」という苦しみが丁寧に描かれているのも印象的です。
『ダラス・バイヤーズクラブ』や『私に会うまでの1600キロ』などで知られるジャン=マルク・ヴァレ監督の特徴である「日常の中の何かがトリガーになって何かを思い出す」フラッシュバックと幻視を積み重ねる編集、キャラクターの荒ぶる感情にシンクロするカーステレオやi-phoneから流れるDiegetic Sound(物語中で流れる音楽がそのまま映像作品としてのサウンドトラックになっている形式)としての音楽使いも見事なので、そのあたりにも注目してご覧ください。
近年のフィクションで描き出される「女性をめぐる社会の呪い」には見ていてしんどいものも多々ありますが、その描写が鋭く厳しいものであるほどに「それが描かれるようになってきたこと」に希望を抱けるようにも思います。とはいえインターネットの上にはげんなりする言説もまだまだ溢れているし、あまり楽観的になりすぎるのもよくないかな……などとも思うのですが。それでは今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。
今野芙実(こんの ふみ) |
---|
webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。 |