あらためて振り返ってみると、もう前世紀、どころか、“前ミレニアム”のことになってしまうのですかね。あのころは海外のすぐれた作家の翻訳が、純文学、エンタテインメント問わずどんどん出版され、点数も部数も今とは比べ物にならないほどでした。そう、若い読者の方たちはあまりご記憶でないかもしれませんが、翻訳小説ブームというものがかつて、本当にあったのですよ…そうしたなかに、モダンホラーと銘打たれたジャンルがありまして、それをスティーヴン・キングとともに両輪のひとつとして牽引していたのが、まちがいなくディーン・クーンツだったと思います。
 まあ、当時のクーンツの勢いは、とにかく凄いものがありました。邦訳の順で振り返りますと、人気が高まってきたのは1988年に『ファントム』が出たころからでしょうか、翌89年には火がついたように、『戦慄のシャドウファイア』『ウィスパーズ』『ライトニング』などがいろんな出版社から刊行されはじめ、91年に出た『ストレンジャーズ』でいよいよ人気が決定的になりました。作風はと言いますと…とにかくただただ面白い。まさにサスペンス小説のお手本そのもので、ストーリー展開が映画的、視覚的で、むだがなく小気味がいい。それでいて、登場人物の心情が投影された風景描写なども非常にうまい。どの話もけっこうな大部なのですが、長さをみじんも感じさせない。私も幸運なことに『ウォッチャーズ』(邦訳93年)を始め、3冊ほど訳させていただいたんですが、いまでもちょっとお話をした方がよく、「ああ、あの…!」という反応をしてくださるんですね。この作家の影響力をあらためて思い知らされます。
 
 それで、今回の作品――「ジェーン・ホーク・シリーズ」というシリーズの1作目なのですが。ヒロインのジェーンは、美貌のFBI捜査官。謎の自殺を遂げた夫の死の真相をつきとめようと、FBIを休職して私的な捜査を始めるが、そのうち自らが正体不明の巨大組織に追われるようになる。そして敵の仕掛ける罠や身の危険もスーパーヒロインらしくかいくぐりながら、じわじわと真の巨悪に迫っていく。
 とまあ、今どき誰がこんなものを、いにしえのハリウッド映画顔負けのベタな設定じゃないかと言いたくなりそうな。で、実際たしかにそうなんですが、これがとにかく読ませるんです。やはりクーンツのこと、あの圧倒的な手練手管は、やはり錆びついてはいませんでした。先のまったく読めないストーリー展開、かゆいところに手の届く懇切丁寧な描写、読む側のセンチメントのツボを心得たセリフ回し、たたみかけるようなアクション場面――訳してるうちに、20年以上も昔のことがいろいろ蘇ってきて、懐かしいを通り越して、なんだか時空が歪んだ気さえしてしまいました。初めての読者の方にはもちろん、オールドファンの皆さん(すみません…)にも、きっとあのころと変わらぬクーンツを楽しんでいただけるのではないかと。
 
 ただ、もうひとつだけ、個人的な感慨を書かせてもらいますと、変わらない変わらないと連呼しておきながら、ちょっと時の流れを感じさせるところもあるというか。実はタイトルの「これほど昏い場所」というのは、主人公ジェーンの陥った境遇だけでなく、今現在の世界を指してもいるのです。もちろんこれは、クーンツがこの本の舞台として作り出したディストピアのことではあるのですが、決してそれだけでもないような。
 実際、そんなふうに読んでみると、クーンツが書かずにはいられなかったアメリカという国の変わりようへの批判というか、グチめいたものもちらほら目につくんですね。だいたい昔のクーンツは、保守派の作家の代表のように言われてたもんです。そんな彼の目にも、今のアメリカ、そして世界はかなり「昏い場所」に映っているのではないか。彼もそうした時の流れをひしひしと感じているのではないかと。まあ、こうして時間だけは同じ長さを重ねてきた人間としては、今またクーンツを訳すことのできた幸運をかみしめるとともに、勝手に共感できる大作家の本音も垣間見れたようで、少しばかりうれしくなったりもしたのでした。

松本剛志(まつもと つよし)
 1959年生まれ。訳書に、クーンツ『ミスター・マーダー』、フリーマントル『クラウド・テロリスト』、ミエヴィル『オクトーバー』など。ノンフィクションも訳してます。フィクションと交互にやれたら頭のバランスがとれそうな気もするんですが、なかなか思うようにはいきません。

 

■担当編集者よりひとこと■

 翻訳ミステリーの新刊を探して、毎月のように講談社や扶桑社、早川、新潮、文春各社の棚前をうろついていた90年代前半。ざわわ、ざわわと聞こえてきそうな夕暮れの草原に1人の男性とゴールデン・レトリバーが描かれた、どこか胸騒ぎを誘うカバー。そのインパクトにノックアウトされ即買いした『ウォッチャーズ』(上・下/文春文庫 93年)が、クーンツ作品との出会いだ。読んだ後しばらく心がそわそわして落ち着かなかったのを今でも鮮明に覚えている。プロットやストーリーの巧みさは勿論、キャラクター造形や町や自然の鼓動が聞こえてきそうな臨場感あふれる描写が何より刺激的で、のちに翻訳編集者として歩きだした自分に少なからぬ影響を与えてきた。
 そのクーンツの新作が久々に出る、しかもFBI捜査官が主人公のド直球スリラー!? そう聞いて矢も盾もたまらずオークションに参戦、幸運にも日本版を刊行できることになった。しかも翻訳者は『ウォッチャーズ』の松本さん。それって公私混同してない? と聞かれたら(社内の版権会議をゴリ押しした手前)否定するしかないけれど、結果めちゃくちゃ面白い作品なんだからいいじゃない!!

 アメリカでは今年9月に早くもシリーズ4作目が刊行。この第1作目が2017年のリリースなので、クーンツ御大がものすごいスピードでノッて書いていることがうかがえる。さらにパラマウント社がTVドラマ化権を取得しており今後の展開にも注目だ。クーンツの持ち味であるモダン・ホラー/SFのスパイスをちらりと効かせた正統派エンタメ・スリラーはさしずめ“女版ジャック・バウアー”で、松本さんの指摘のとおり「ハリウッド映画顔負けのベタな設定」なのだけど、その“ベタの新たな魅力”に開眼すること請け合い。マイケル・ベイやジェリー・ブラッカイマー、ボン・ジョヴィやエアロスミス、王道は時にダサいもの扱いされることがあるものの、相手を魅了することをとことん追究し計算し尽くした職人技のエンタメはやっぱりアメリカの専売特許。日々あふれる情報でオーバーヒートしそうな脳を気持ちよくほぐしてくれる究極のマッサージ。そんな読書体験をぜひクーンツの匠の技で楽しんでいただけたら幸いです。

ハーパーBOOKS編集部・O)

 

◆あわせて読みたい当サイト掲載記事
2010.12.21掲載:初心者のためのディーン・クーンツ入門(執筆者・瀬名秀明)

 




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