第10回『レベッカ』——ゴシックロマンの金字塔とは?

全国15カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

加藤:杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』をテキストに、翻訳ミステリーをイチから勉強する「必読! ミステリー塾」。今回ついに第10回を迎えました。これまで、長〜い目と広〜い心でいろいろ見逃していただいた皆様には感謝の言葉もありません。

 しかも、今回の掲載は(何事もなければ)12月25日なんだとか。いやもう、何から何までめでたい。メリー・クリスマスでございます。とはいえ、この日に何か楽しい思い出があるわけでもないので、これ以上話は広がりません。きっと畠山さんも似たようなモンでしょう。(僕にはわかる)

 さて、今回のお題はクリスマスにちょっとだけ相応しいような気もしなくはない、ダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』。1938(昭和13)年の作品です。映画ファンの方々にはヒッチコックが1940年にアカデミー作品賞を獲った映画の原作としても有名なようです。

こんな話。

主人公である「わたし」はヴァン・ホッパー夫人の付添人としてモンテカルロに滞在中、イギリス人マキシム・デ・ウィンターに見初められ、僅か数日後には結婚することに。マキシムはかの有名なマンダレーの領主であり、前妻レベッカを一年前にヨット事故で亡くしたばかりだった。ミセス・デ・ウィンターとしてマンダレーに入った「わたし」は以来、前の女主人であったレベッカの亡霊に苦しめられる。美しく、頭が切れ、社交的で、何においても如才なく輝いていたレベッカの在りし日を誰もが懐かしがり、比較されるのだ。そしてレベッカの話題を必要以上に避けるマキシム。マキシムはまだレベッカを愛しているのだと思い知らされた「わたし」は、やがて居場所を失い追いつめられてゆく……。

 まずは、いつものように周辺情報の整理からいきましょう。

 著者デュ・モーリアは1907年にロンドンに生まれたイギリス人。残された写真を見ると相当な美人であったようです。祖父は人気画家で、父親は作家で俳優でもあったという芸術一家で育ち、早くから創作をしていたそうですね。とはいえ派手を好まず、社交嫌いで静かな生活を好んだといいますから、意外です。『レベッカ』の主人公「わたし」は彼女自身の投影だったのかも知れませんね。

 先にも触れたように『レベッカ』はヒッチコックによって映画化され、成功を収めたわけですが、同じくヒッチコックによる動物パニック・スリラーの元祖『鳥』もデュ・モーリアの短編が原作でした。

 とにかく『レベッカ』をネットで検索すると「ゴシックロマンの金字塔」とか「文学史に輝く出だしの一文」「20世紀でもっとも重要なミステリーのひとつ」「フレンズのB面がガールズ・ブラボーとかマジネ申」といった大仰な誉め言葉が並びます。熱狂的なファンが大勢いることがよく分かりました。

 むむむ、これってもしかして一つ間違うと炎上必至の取扱い要注意物件だったりするのかな?

 実際、前回の「必読! ミステリー塾」(レックス・スタウト『料理長が多すぎる』)のあと、読書会などでお会いした複数の女性から「次は『レベッカ』ですね、楽しみにしています」と声を掛けていただいたのです。でも、ずーっと気になっていたのは、彼女たちが一様にとても複雑な表情をしていたこと。その時は分からなかったけど今なら分かる。あれは不安を通り越して、「わたしの大事な『レベッカ』がどうか穢されませんように」と祈るような心境だったのに違いない。わしゃ疫病神か。

 でも、その気持ちは分からないでもありません。僕も名古屋読書会の課題本が『ロング・グッドバイ』『長いお別れ』に決まったときは、同じように祈りましたから。

 そんなわけで、様々な重圧のなかで読み始めた『レベッカ』ですが、上巻がとにかく辛かった。面白くなかったという意味じゃなくて辛かった。

 大金持ちに求婚され、玉の輿に乗った「わたし」の希望に溢れた新婚生活はすぐに終わり、辛い現実が突きつけられる苦労譚。広大な敷地と美しい庭園で知られる名所マンダレーの女主人として、毎日いろんな人と会い、多くの使用人たちを指揮する。もともと地味な性格の「わたし」はその全てが苦痛であるうえに、家政婦頭のダンヴァーズ夫人みたいに露骨な意地悪を仕掛けてくる人がいたりする。とにかく誰もが亡きレベッカを慕い、その後釜の「わたし」をこころよく思わないのですね。これは辛い。

 ああ、なんて可愛そうな「わたし」。そんなこんなで上巻は終わる。そして下巻を手にして僕は考えた。うーん、何かがおかしい。何かがヘンだ。この物語全体を覆う不穏な空気は何なのか? 何も起きていないのに、何が僕をこんなに落ち着かない気持ちにさせるのか? てか、待てよ? 本当にここまで何も事件が起きていないぞ? 誰も死んでないし、何も盗まれてないし、ポルターガイストも出てこない。これのどこかミステリーなの?

 杉江さん、もしかしてセレクト間違えちゃった?

 そして僕は途方に暮れながら下巻を開いたのである。

畠山 :メリークリスマス!

 皆様イブの夜は如何お過ごしでしたか? 恋人はサンタクロースでしたか? 兄は夜更け過ぎにユキエに変わりましたか? 少女は還ってきましたか?

 さて、連載10回目の『レベッカ』。札幌読書会にもレベッカの熱烈なファンが何人かいらっしゃるのですよ。加藤さんに言われて気がついたけど、ひょっとして彼女達もどれだけソコジャナイ展開に持っていかれるんだろうと不安に怯えているのかもしれない。『レベッカ』の語り手「わたし」のように。

 そう、この小説は有名な冒頭の一文からずーっと不安に満ちています。

「昨夜、わたしはまたマンダレイへ行った夢を見た。」

 ——なんだろう? たったこれだけの文章なのに。粋な言い回しとか美しい単語が使われているわけでもないのに。あっという間に草木生い茂る古い豪奢な館の門の前に連れて行かれたような気持になりました。どこから湧いているのかわからない不安感とともに。

 唐突に始まるシンデレラ・ストーリー、そしてあれよあれよという間にかなり無理のある女主人デビュー……とてもじゃないけどハッピーな未来を想像するのは無理。なにもかも不安。

「わたし」を苦しめるのは亡き人(=レベッカ)そのものではなくて、亡き人に対する人々の記憶だというのは実に辛い話です。「わたし」の内面の葛藤が細やかに丁寧に描かれているのでこちらもだんだん身につまされてくる。

 マキシムとレベッカの間に子供がいなくてよかったとオバチャンは思ったものです。これで母の記憶にすがりつく神経質な子供なぞいようものなら、多分どっちかがどっちかを殺す展開になっただろうなぁ……と要らぬ惨劇予想をしてしまいました。

 そんな彼女と読者の心の支えになるのは義姉のベアトリスと館の事務を取り仕切るフランクの存在です。彼らにもっと甘えてもいいんじゃないのか、積極的に相談したっていいんじゃないのかと思うのだけど、「わたし」はなかなかそうしない。第三者に相談することで夫が不快に思うのではないかという気遣いをしたから。

 いじましいじゃないですか。彼女は財産目当てで結婚したわけではないし(当時の女性の生き方を考えるとこれはすごいことではないだろうか)、気弱だけどお馬鹿さんじゃない。根っから庶民でなにより素直。ビビりながらも精一杯の努力をする、そんな健気な様子をみるとね、オバチャン、お節介の一つも焼きたくなるってもんですよ。あんた、それキッツイからやめときなさいと強引に腕を引っ張って館から連れ出したくなる。

 そこで、だ。マキシムだよ。オマエだよ。

 しっかりせんか、この腰抜けめ……。四十も過ぎた男が現実逃避みたいに若い女の子を妻にし、その妻が苦労しているのに自分は過去に囚われてジクジクするのに忙しくてさっぱり気づかない、いや気づこうとしていない。挙句の果てが第二十一章の最後のセリフですよ。これ読んだらばもう「どの口が言いやがる! ブレンディ…じゃなくてマキシム!」と怒髪天。腹が立つ! 蹴飛ばしたくなる! 大通公園のテレビ塔にLED電球つけて貼り付けてやりたくなる!(今、ホワイトイルミネーションで綺麗です♪)

 ……と、ここでふと思ったのだけれど、私は大久保康雄氏による旧訳で読んだのですが(冒頭の一文のご紹介で通の方はお気づきになったかもしれません)、新訳では少しニュアンスが変わっていたりするのかしら? 比べてみるのもいいかもしれません。

 あ〜すっかり興奮してしまったけど、同性から見てマキシムのことはどう思うんだろう? 加藤さん、どうよ!?

加藤:ありゃりゃ、マンダレイとかベアトリスとか、表記が微妙に違うと思ったら、畠山さんは大久保康雄訳で読んでたのか。ちなみに茅野美ど里さんの訳による出だしの一文は「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た」です。

 それはそうと、そこまでマキシムに腹を立てるとは思ってもいなかったなあ。言われてみれば少し鈍感なところもあるかもしれないけど、悪気があるわけじゃないし。許してやれよーって思っちゃう。だったら僕は、ダンヴァーズ夫人からのイジメで悩んでる「わたし」に「何故マキシムに相談しないのか」と逆に言いたい。「あの女マジでムカつくんだけどぉ」って言えばいいのに。察しろ、気付けと言われても、それは無理。無理なものは無理なんだから仕方ない。

 そもそも、多くの男性にとって、女性の「気付けよ」は恐怖以外のナニモノでもないのです。嫁から「何か変わったって思わないわけ?」とか、いつもより低い声で言われると心底震え上がるわけですよ。「ききき気付いてたに決まってんだろ」って声を裏返しながら、髪切ったか? 染めたか? 新しい服か? と脳味噌フル回転なわけですよ。

 近頃では中2の娘までが僕と長男に同じようなことを言うようになってきた。ああ恐ろしい。

 それとこれとは違うだろと言われるかも知れないけど、とにかく男は、女性の「気付けよ」には一切共感できんのです。ねえ、大木さん。

 ちなみに気になったので調べたところ、これまでにネスカフェが公式に認めた「違いがわかる男」は日本で僅か40人余りでした。だからどうした。

 さて、話は戻って、僕が上巻を読み終えて思った大きな疑問「何も起きてないのに、どうしてこんなに不穏な気持ちにさせられるのか」「そもそもこれはミステリーなのか」について。

 結論からいえば、下巻に入ると物語は一気に動くのです。金子千尋(オリックス)のチェンジアップを彷彿とさせる変幻自在な緩急に読者はキリキリ舞うしかないのであります。僕たちを落ち着かない気持ちにさせたあのザワザワ感は、最後の一滴を待つ表面張力マックスの緊張感だったのかもしれないですね。

 そんなわけで、下巻に入ってからは、「何も起きないんだけど?」なんて疑問があったことをすっかり忘れる怒涛の展開。これをミステリーと呼ばずして何をミステリーというのか。まあ、無理矢理ミステリーにカテゴライズする必要もなくて、一般小説として読んでも面白いんだろうけど、あるところから、いきなり世界の見え方が変わり、さらに、終盤は手に汗握るサスペンスでもあるという。これは驚きました。杉江さん、疑ってごめんなさい。

 考えたら、そもそも出だしが「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た」という、美しくも謎に満ちた一文ですもんね。

 そして、さらにタイトルの『レベッカ』。最初から最後まで一貫して死んでて一度も生き返らないどころか化けてでてもこないのにこの存在感。主人公である「わたし」なんか名前すらないというのに。いやはや凄い話でした。

 そうそう、僕はこれを読みながら、2014年の話題作『その女アレックス』をちょっと連想しました。全然違うタイプの話ではあるけど、ナニがどう関係しているのかは、それぞれを読んで判断していただければと思います。

 そんなこんなで“ゴシックロマンの金字塔”『レベッカ』を激しく堪能いたしました。

 これが大好きな女性が大勢いるのは頷けますが、男の僕が読んでも面白かったですよ。とはいえ、僕のような違いがわからない男が「わたし」に感情移入するのは無理だったんですけどね。

 で、結局「ゴシックロマン」って何?

畠山 :えーーっ!? ぶーぶー!(絶賛ブーイング中)

 館の女主人というのはある種の仕事みたいなもんだから、マキシムには上司目線で彼女をフォローしてあげて欲しかった。まぁ、いろいろ事情があったことは後半で明らかになるわけだけれども。先妻の死から立ち直りたいなら、もっと「わたし」を大事にしなくちゃ。

 それにマキシムの弱腰、というか優柔不断がそもそもの事の発端になってるようにも思えるし、優柔不断なわりには「わたし」を自分のモノにしてしまうのは異様に早かったので、どことなく「買い物感覚の結婚」に感じるし。うう……どうも好きになれん奴じゃ。

 ところが、怒涛のラストを読み終えて、もう一度初めから読み返すと、事件の終わりから今に至る間(物語は回想形式なので、冒頭が現在)に登場人物の内面が微妙に変化しているように感じられるんです。そして何かがまだ続いているんじゃないかという不穏な雰囲気。これは初読の時には当然思わないことなのです。ここはもうネタバレ全開しないと話せないので、読了者達と一席設けたいところですね。

 そうそう私も「ゴシック・ロマン」ってよくわかりません。“中世っぽい”“オカルトチック”みたいな抽象的な印象を持っているのみです。定義はあるんでしょうか……?

 それと加藤さんが紹介したように「わたし」は最初、ヴァン・ホッパー夫人の“付添人”として登場するのですが、付添人って何ですか?? 秘書でもメイドでもない感じ。ホテルのレストランでは明らかに蔑まれてるようだし。メインの仕事はひたすら夫人のワガママの受け皿になることみたいだけど……。う〜〜ん、自分の無知が悩ましい。

 話は変わりますが、デュ・モーリアは新刊『いま見てはいけない』が出ましたね。

 書評七福神で千街晶之さんが11月のベストに挙げていらっしゃいました。「デュ・モーリアの短篇に外れなし」とのこと。

 そしてストラングル成田氏のお見事解説はコチラ

 私も目下、一遍ずつじっくり楽しんでおります。細やかな内面の描写と常に感じる不穏な空気、そして思わず唸る意外な結末。まるで霧の中から飛び出した鋭利な刃物のような衝撃です。いや、これはホントに積んでいてはイケマセンよ。

 今年の2月から始まったこの連載。課外授業も含めて毎度バカバカしい読み物に11回もお付き合い下さった皆様、縁の下で助けて下さった事務局の皆様、そしてかなり頭痛がしたかと思いますが毎回ご指導下さった杉江松恋先生に感謝します。

 さて、これでマストリード100の内、1割クリアです。一緒に学んで下さっている皆様は今までの課題10冊を読了できたでしょうか?

 本来なら今日は抜群のタイミングで『ポアロのクリスマス』の感想をお話しすることができたのですが、1ヶ月ズレてしまいましたね。ちょっと残念。途中でゴーストマンの惨劇さえ起こらなければ……

●必読!ミステリー塾課外授業編・『ゴーストマン』読書会レポート前篇

●必読!ミステリー塾課外授業編・『ゴーストマン』読書会レポート後編

でもお正月にクリスティーを読む楽しみができました。皆様もぜひお付き合い下さい。

 ちなみに1/31は大阪クリスティー読書会で『五匹の子豚』を、2/21の札幌読書会では『ポケットにライ麦を』を課題本にしています。これを機にクリスティーにどっぷり浸かってみましょう。来月はクリスティー強化月間ということで!(笑)

 というわけで、皆様、

加藤畠山:よいお年を!! おせちもいいけどポアロもね!

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 デュ=モーリアの名作を楽しんでいただけてようでひと安心です。ゴシック・ロマンスについての理解は、私が言葉を費やすよりもフレデリック・S・フランクが抽出した同ジャンルの主要素を、風間賢二が要約した定義を『ホラー小説大全』(角川ホラー文庫)から引用したほうがいいでしょう。すなわち、

1.閉じられた空間・監禁状態の恐怖。

2.迫害される乙女・性的な危機。

3.超自然的現象の現実への侵犯。

4.合理的な判断と既成の道徳観の宙吊り。

5.アイデンティティの探索と危機。

 です(詳細な分析は風間書をご参照ください)。

 ただし、これらは18世紀的なゴシック・ロマンスでは一般的な要素でしたが、そのままでは到底現代に存在しえなかった。デュ=モーリアはこれらの因子を取捨選択し、ある物はそのまま採用、他のものは捨象、もしくは裏切ることで現代版のゴシック・ロマンスを作り出したのだと私は考えています。それゆえに〈ミステリー〉としても精読に耐えうる作品となった。ネタばらしになるために踏み込んで書くことは避けますが、本書を既読の方にはきっと頷いていただけるものと思います。また、それゆえに『レベッカ』は何度でも再読することができる名作なのです。

 ちなみにデュ=モーリアは短篇作家としても素晴らしい書き手です。本文中に紹介された『いま見てはいけない』の他、早川書房異色作家短篇集に収録された『破局』などの作品を読むことができます。興味のある方はぜひそちらもお試し下さい。

 さて、次は『ポアロのクリスマス』ですね。1月遅れになってしまいますが、楽しみにしております。そして良いお年を。

加藤 篁(かとう たかむら)

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愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。 twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

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札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フラ

ンシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?) twitterアカウントは @shizuka_lat43N

どういう関係?

15年ほど前に読書系インターネット掲示板で知り合って以来の腐れ縁。名古屋読書会に参加するようになった加藤が畠山に札幌読書会の立ち上げをもちかけた。畠山はフランシスの競馬シリーズ、加藤はハメットやチャンドラーと、嗜好が似ているようで実はイマイチ噛み合わないことは二人とも薄々気付いている。