――君はウシャコヴォの『中庭の猟犬』を知ってるかい?

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

畠山:春ですねぇ。白い暴力とすら思えた北海道の異常な積雪も、日に日に解けていってます。桜はまだ早いけれど、そろそろふきのとうが顔を出しそうです。雪解けは、我ら北国の人間にとって長い冬をじっと耐えて我慢してきたご褒美。無条件に幸せを感じます。
一方で、戦争によって春の悦びというささやかな幸せすら奪われた人々がたくさんいらして心が痛みます。一日も早い停戦を願うばかり。

 杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に読みながら翻訳ミステリーを学び直す「必読!ミステリー塾」。第96回となる今月のお題は、デイヴィッド・ベニオフの『卵をめぐる祖父の戦争』です。天の配剤かと思うような巡り合わせ、まさに今読むべき一冊です。2008年の作品で、こんなお話し。

 1942年冬のレニングラード。ドイツ軍による包囲で街は破壊され、住民は猛烈な飢餓に苦しんでいた。17歳のレフはドイツ兵の死体から物を盗んだ罪で逮捕され、拘置所で脱走兵のコーリャと知り合う。一夜明けて彼らは、大佐の娘の結婚式に使う卵1ダースを調達することを条件に釈放された。しかし、パンのかけらすら手に入らないこのレニングラードのどこに卵があるというのか? 多感で寡黙なユダヤ人少年レフと、金髪碧眼のイケメンで饒舌&女好きなコーリャの、イマイチ噛み合わない不思議なコンビが卵を求めてロシアの雪と氷の大地を歩きつづける。戦争による悲惨な現実をいくつもいくつも目の当たりにしながら……。

 作者のデイヴィッド・ベニオフはニューヨーク出身。デビュー作の『25時』は、自ら脚本を手掛け、スパイク・リー監督、エドワード・ノートン主演で映画化されました。小説はその後『99999(ナインズ)』『卵をめぐる祖父の戦争』の2作を発表。脚本家としても「トロイ」「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」「ゲーム・オブ・スローンズ」など人気作品を手掛けています。ネットの情報によると、スティーヴン・ハンターの『ダーティーホワイトボーイズ』、劉慈欣の『三体』も彼が脚本家として参加するようです。めちゃくちゃ楽しみではありますが、小説を書く時間がなさそうでちょっと残念。

 この本を読んだのはもう10年前。当時はひたすら楽しんで読んだのですが、このご時世で再読すると刺さる刺さる。冒頭のヘルベルトの詩の一節からして刺さる。
 そして市(まち)が陥ちても/ただひとりでも逃げ出せたなら/そのひとりは逃亡の道々/自らのうちに市(まち)を携え/自らが市(まち)そのものになるだろう
 今こうしている間も武力で攻撃を受け、小さな子供の手を引いて逃げる人たちの気持ちを想像せずにはいられません。

 戦争と飢餓によって引き起こされた残酷な出来事の数々を読むのは辛い……。でもレフとコーリャのユーモラスな掛け合いが絶妙な対比をなしていて、不思議とハートウォーミングな世界です。

 サブタイトルにしたウシャコヴォの『中庭の猟犬』は、作中でコーリャが熱く語る作品です。なんでもこの小説が卒論のテーマだそうで、断片的に語られる内容に妙に惹かれます。でもコーリャのお喋りはどこまでホントか見当がつかず、そんな時、レフがボソッと突っ込みを入れるのが楽しいところ。実はレフの父親は有名な詩人で、反体制の立場であったために命を落としました。蛙の子は蛙、レフも文学志向が強いのです。この二人のやり取りが面白くないはずがない。ちなみに『中庭の猟犬』は、終盤でストーリーの全容が明らかになります。絶対この作品が読みたくなりますよ。喉から手が出るほど。泣きたくなるほど。

 戦禍を生き抜く文学志向の男子コンビって、その設定だけでハートを直撃だよね。加藤さんも再読でしょう? また泣いた?

 

加藤:全国各地で桜が見頃を迎えているこの頃。皆さん、お変わりありませんでしょうか。

 さて、『卵をめぐる祖父の戦争』で思い出すのが、この本を最初に手に取ったときの高揚感! それまで抽象画の表紙だったポケミスが、現在のスタイルに変わった第一弾。12個の卵が並ぶポップな表紙に、新時代の到来を感じました。
 そして読んだらコレが凄かった! 独ソ戦のレニングラード包囲戦をテーマに、誤解を恐れずに言うなら、こんなに「面白い物語」が書けるかという圧巻の内容。
 レニングラード包囲戦とは第二次大戦中にナチス・ドイツ軍がソ連(ソヴィエト連邦)第2の大都市レニングラードを約900日にわたって包囲し続け、市民100万人以上が餓死したともいわれる凄惨な局地戦です。ナチスは市民の投降を許さず、生き残っている人々は餓死した人間の肉を食べるほかないという極限状況だったそう。『卵をめぐる祖父の戦争』でも、主人公たちが肉切包丁を持った大男に追いかけられたり、図書館の本をバラして作ったキャンディー(製本糊がタンパク源)を舐めて飢えを凌ぐなんて描写もありました。

 そんな壮絶な状況と背景をしっかり描きながら、明るさと希望を失わないどこまでも力強い筆致が本作の魅力です。そして、ちょっと内向的で思春期ど真ん中の主人公レフと、場違いな軽口やシモネタを連発する世知に長けたコーリャという凸凹バディの組み合わせ。まったく噛み合わない二人の間に徐々に築かれてゆく友情の尊さよ。
 都市そのものが飢餓状態のなか、お偉いさんの娘の結婚式のケーキ作りに必要な卵を調達するというミッションそのものが、理不尽を通り越してバカバカしい。人の命を懸けるだけの価値が本当にあるのかという疑問は、戦争そのものへの問いかけでもあります。

 畠山さんの「また泣いた?」にマジレスすると、本作『卵をめぐる祖父の戦争』って、一度読むと、あとは「何度でも楽しめる」という稀有なおトク本だと思うのです。ちょっと嫌なことがあったときやスカッとしたいとき、この本のプロローグを読むと、何とも言えない幸せな気持ちになる。精神状態によってはホントに泣いてしまうかも。平和の尊さ、何でもない日々の幸せ。
今のこんな時期であれば尚更。既読の方はぜひお試しください。

 本作はミステリーとか冒険小説とかの枠を超えた、普遍的な価値を持つ「名作」として長く読まれ続けてゆくことでしょう。どの時代でも変わらない平和と幸福への限りない希求と、戦争の本質的なバカバカしさを、こんなにも綺麗にエンタメに昇華した素晴らしさ。こんなテーマで「笑って泣ける」話っていうだけでも凄いのに。

 でも、こういう誰もが認める「名作」って、読書会には向かないよね。札幌では無謀にも課題本にしたんじゃなかったっけ?

 

畠山:無謀とはまた人聞きの悪い。これだけ上質な作品を課題に取り上げた選書眼のよさを褒めてもらいたい……んだけど、そうなの、あまりに作品が良すぎて「面白かった」という感想以外になく、なんとなーく盛り上がりに欠けたのは否めない。課題書にはツッコミどころのあるほうが適しているのだと学びました。とはいえ、いまだに世話人の予想通りの展開になった読書会はないのだけど。

 加藤さんも言うように、卵を探す理由は常軌を逸してますよね。最初はファンタジー並みにあり得ない設定ではないかと感じましたが、戦時下の数々のエピソードを読み、あの狂った世界ならどんなことが起こっても不思議じゃないと思えるようになりました。飢えるあまり狂気に陥る人々、生きるためにナチスの慰み者にならざるをえない少女、一瞬の判断が生死の分かれ目になる捕虜、それに犬! 犬になんてことするんだ! オマエら、人間じゃねぇ! 生まれ変わったら電柱になって、毎日わんこのおしっこを浴びるがいい!……ああ、すみません。動物虐待はつい血圧が上がってしまいます。

 この残酷な世の中で、レフもまた常に命の心配をしなくてはならない身の上です。なにせユダヤ人で、かつ反体制派文化人の息子ですから、前門のナチス後門のボリシェビキといったところ。武器が扱えるわけでなく、特に勇敢でもないシャイな17歳は、卵探しの道中も誰かに助けてもらうことばかりです。そんな彼がクライマックスに立ち上がる。自分のためでも卵のためでもなく、友と恋心を抱いた女の子のために、なけなしの勇気を振り絞ってチェスの大一番に臨むことになるのです。パニくりそうな自分を必死に抑えてチェス盤に向かうレフ。かっこいいとは言い難いその姿がかっこいいなんて、反則だよ。

 確かにこの本は、ラストまで読んだらプロローグに戻らずにはいられません。何気なく読んでいた文章のひとつひとつに説得力が生まれ、ぼやけ気味だったキャラクターがくっきりと浮き上がる。フロリダの温かな風と潮の匂いを感じながら、かの戦争を生き残った人々のその後の人生に思いを馳せる……これぞまさに読書の醍醐味です。未読の方、すぐ書店に走って!(電子書籍もあるよ♪)

 この機会に読み逃していたベニオフの他の作品も読みました。
まず『25時』。言いたいことはいっぱいありますが、なんたって犬愛MAXで心震えます。それに田口先生のエッセイ『日々翻訳ざんげ』を読んだら、『25時』を(特にラストシーンを)読まないわけにはいかないのです。うひひ。
短編集の『99999(ナインズ)』に収録されている「悪魔がオレホヴォにやってくる」はチェチェン紛争を背景にしていますが、『卵~』の原型かと思うような作りで、若き兵士の懊悩が印象的でした。

 

加藤:畠山さんが怒り心頭の「犬」の件、戦車の下に餌があると覚えさせた犬を飢餓状態にしたうえで、爆弾を背負わせて放すという対ドイツ戦車兵器。前の直木賞の候補にもなった『同志少女よ、敵を撃て』にも描かれておりました。
 人の命がフェザー級の戦時にあって、犬の命などは無いも同然。まさに貧すれば鈍する、本当に戦争なんかやるもんではないと思わされます。

 そういえば昨年2021年は、独ソ戦を戦った赤軍の女性兵士を描いた『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬著)と『亡国のハントレス』(ケイト・クイン著)が同時に出た不思議な年でした。
 ソ連は女性を兵員として組織した唯一の国だそうで、『同志少女よ~』では女性だけの狙撃部隊、『亡国のハントレス』では女性だけの夜間爆撃部隊が描かれます。祖国のため、そして仲間のために戦う少女たちを通して、戦争が人の尊厳や大切なものをいかに簡単に奪うかを突きつけられます。
未読の方は今こそ是非どうぞ。『亡国のハントレス』は第13回翻訳ミステリー大賞の候補にもなっています。

 そして『卵をめぐる祖父の戦争』にも、セラフィマやニーナに負けないカッコいい少女が登場するんですよね。正規の赤軍兵士よりもさらに過酷な環境で戦うパルチザンの名射撃手ヴィカ。レフが彼女に寄せる恋心は、未来への希望そのものでもありました。

 また、今回再読して改めて凄いと思ったのは、主人公である17歳のレフの一人称「わし」です。祖父の回想という体裁の「わし」が語る物語なのに、17歳の少年の瑞々しい感性や息遣いまでが伝わってくる。原文ではただの“I”だと思うと、きっと日本語訳でしか味わえない、とてもセンシティブな現実と非現実の混在。あぁもう、上手く伝わっていないのが分かってもどかしい。もう名人芸というか変態的というか、とにかく「世界よこれが田口俊樹だ」と叫びたくなるほどなのです。
 未読の方には今こそ読むべき一冊であると改めてお勧めしたい次第です。
田口さんは4月にチャンドラーの新訳『長い別れ』、5月にはウィンズロウの新シリーズ1作目『業火の市(まち)』と、超ビッグな2タイトルが刊行予定。もう、あまりに楽しみで仕事中も寝られません。

 さて、最後に告知とお願いを手短に。「10回翻訳ミステリー読者賞」の投票は本日3/31(木)24時までとなっています。2021年に出た翻訳ミステリーで一番面白かった本を教えてください。
 詳細と投票フォームはこちら。よろしくお願いいたします!

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 ハリウッドとミステリー界の関わりについては長い歴史があります。ミステリー作家として知名度を得たのちに映画脚本執筆のために招かれた作家としては『深夜の告白』他のレイモンド・チャンドラーが有名な例でしょうか。その逆、脚本や監督などの仕事をしてから小説を書き始めた作家も多数存在します。私が贔屓にしているベン・ヘクトなどもそうですね。映像文化との行き来が盛んに行われたジャンルの代表としてデイヴィッド・ベニオフが『マストリード』に参加しています。

『卵をめぐる祖父の戦争』を選んだ理由がもう一つ。これが民衆の戦争を描いた冒険小説でもあるからです。冒険小説は英雄の物語として認識されてきましたが、超人的な個人の働きが何事かを成し遂げるという虚構に現実感が薄れてきた結果、組織を描いた陰謀小説、エスピオナージュに注目が集まるようになりました。しかしそれらは専門家であり軍人、官僚の物語であったことに代わりはありません。スターリングラード包囲戦を背景とする『卵をめぐる祖父たちの戦争』は飢餓に苦しみ、国同士の理不尽な闘いによって自由を奪われる民衆の視線から描かれた戦争小説です。ここでの最も重要な使命は「死なないこと」でしょう。「死なないこと」「殺させないこと」を描いた作品が最も現代的な冒険小説であることをこの作品は示唆しています。21世紀になって表れた作品群に目を向けてみてください。本当にかっこいいこと、本当に大事なことを描いた冒険小説の数々を。そうした物語が書かれることが可能だと『卵をめぐる祖父の戦争』は教えてくれました。現代ミステリー史にその名を刻んだ100冊に選ばれるのにふさわしい作品だと思います。

さて、次回はフェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』ですね。これも楽しみにしております。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

「必読!ミステリー塾」バックナンバーはこちら