—— アップルティーニを試してみよう
全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。
「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁)
「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳)
今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!
畠山:みなさまGWはどのようにお過ごしでしたか?
私は世間の波に少し遅れての「ゴールデンカムイ」参戦。連休中に全巻一気読みいたしました。物語の発端となるのが有名な網走監獄です。実はアタクシ出生地が網走でして、「刑務所生まれ」とからかわれることにぷんすかしていましたが、今や漫画のおかげで自慢げに語れるという不思議現象。このまま聖地として定着してくれたらいいな。他にも土地勘のある場所がたくさん出てくるので、ノスタルジックな気持ちに浸りつつ、脱獄囚の皮を剥ぐ選手権物語(縮めすぎ!)を楽しみました。
さて、本連載は今月で98回目。ゴールまであと僅かです。最後までどうぞよろしくお付き合い下さいませ。
では早速まいりましょう。杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に読みながら翻訳ミステリーを学び直す「必読!ミステリー塾」。今月のお題はトマス・H・クックの『ローラ・フェイとの最後の会話』です。読みながら故郷や家族、連絡が絶えて久しい友人のことを考えてしまうかもしれませんよ。2010年の作品で、こんなお話し。
自著の宣伝を兼ねた講演のためにセントルイスにやってきた歴史学者のマーティン・ルーカス(ルーク)・ペイジ。講演も本の売上もパッとせず、虚しく時間ばかりが過ぎていくかと思われた時、一人の女性が彼の前に現れた。
「わたしがだれかわからないのかしら、ルーク?」
その人はローラ・フェイ・ギルロイ。ルークの父の死の原因となった女性。まさかの出会いに困惑しながらも、ホテルのラウンジで一緒に酒を飲むうちに、捨てた故郷と両親の死にまつわる記憶が蘇ってくる。ローラ・フェイとの会話はどこへ向かっていくのか。
トマス・H・クックは1947年アラバマ州生まれ。アメリカ史の学位を持っているそうで、本書の主人公ルークは少しだけ作者の姿が投影されているのかもしれません。
大学院生だった1980年に『鹿の死んだ夜』で作家デビュー。以来、コンスタントに作品を発表し続け、現時点で著書は30作以上になります。そのほとんどが邦訳されているのはありがたいかぎり。
その中でもやはり『死の記憶』『夏草の記憶』『緋色の記憶』『夜の記憶』の《記憶四部作》が代表といえましょう。『緋色の記憶』ではエドガー賞の長編賞を受賞しています。まさに“記憶の使い手”。
わが友Wikipediaクンによると、『緋色の記憶』は2003年にNHKでテレビドラマ化してるんですね。俳優陣がなかなかよいです。鈴木京香、室井滋、國村隼、夏八木勲、そして夏八木さんの少年時代が市原隼人! しかも脚本が野沢尚さんなんですね。見逃したことを激しく後悔しています。
さてさて『ローラ・フェイとの最後の会話』。
抑鬱的な主人公の一人称語りとなると、「キタッ! 叙述トリック! 信用できない語り手!」とミステリーファンとしてはウヒウヒと嬉しくなります。こちとらアガサ・クリスティーのアレを知ってんだゼ、そう簡単には騙されませんゼ、と気を引き締め、同時にどうかラストで盛大に驚かせてくれと期待を膨らませるのです。
ところがこの物語は予想外の終着点に連れて行ってくれました。実に叙情的なお話で、まさかこういう驚きに包まれるとは! としばし感嘆。満足感いっぱいの読後でした。
ルークはアラバマの小さな町で育ち、無学で商売の才もなく家族に貧しい暮らしをさせる父に反発心を持っていました。彼を励まし、いつか町を出て大きく羽ばたくよう背中を押したのは病弱で読書の好きな母。ある日、父が銃で撃たれて殺される事件が起こり、その死に間接的に関わっていたのが、当時父の店を手伝っていたローラ・フェイだったのです。
ルークとローラ・フェイの浅からぬ因縁話もさることながら、私はルークの両親について感じるものが多かったですね。フィクションで描かれる親って、立派だったり、優しかったりする姿にばかり惹かれてましたが、最近ではむしろ行き届かない部分にこそ人間的魅力を感じるようになりました。歳ですね。
加藤さんは息子と親、どちらの視点で読んだんだろう? ところでお子さんからク〇親父とか言われてないの? 大丈夫?
加藤:畠山さんは嫌だったみたいだけど、網走出身って言葉の響きが格好いい。無条件で健さんの顔が思い浮かぶし。ちなみに『網走番外地』(1965)公開時のキャッチコピーは「どうせ死ぬなら娑婆で死ぬ」だそうです(震)
それにしても畠山さん、「“記憶”の使い手、トマス・H・クック」とは、上手いこと言うなあ。「〇ソ親父」は余計だけど。久しぶりにエア・ブラックサンダーをあげよう。はいどうぞ。10個集まったら白いギターでもプレゼントするつもりだったけど、気付けばあと残り2回。ああ残念。
僕もトマス・H・クックはブームになった頃に記憶シリーズを続けて読みました。でも、読んだ記憶はあるのに内容は何ひとつ覚えていません。『ローラ・フェイとの最後の会話』もきっとそう。こんなに面白く読んだのに、2年後にはすっかり忘れている気がします。良くも悪くも派手な仕掛けやサプライズに頼らない、しっかり読ませる系のミステリー。
舞台のほとんどはホテルのバーラウンジという密室劇ミステリー。大どんでん返し! ではなく、伏せられたカードが一枚また一枚とめくられてゆく神経衰弱的な展開をドキドキしながら楽しみました。
主人公ルークが旅先で再会したのは同郷の女性ローラ・フェイ。でも、それはルークにとって胸躍る再会ではありませんでした。なぜなら、彼女はルークの家庭をメチャクチャにした張本人だったから。亡くなった父親の不倫相手で、ルークが故郷を捨てる原因となった事件の元となった人物でもありました。ルークとしてはいきなりライトセーバーでぶった斬ってやりたいくらいの相手なのに、大人ぶって「やあ久しぶり」みたいに気取っちゃう。ああ、わかるよルーク。僕もどちらかというとそのタイプ。そんなこんなで複雑な思いを抱えながら、二人が故郷の思い出話を始めるところから物語は思わぬ方向に動き始めます。
それまでほとんど接点のなかった二人の話を付き合わせてゆくと、次々と大きな齟齬が見えてくる。一つの物事が見る角度や先入観によって全く別のものに見えていたり、さらに時間が経つと記憶の細部が書き換えられたりというのは、たしかによくあることだけど……。
ところで畠山さんは、この『ローラ・フェイとの最後の会話』というタイトルをどう思った? 原題は『The Last Talk with Lola Faye』なので、そのままなんだけど、何を意味して何を意図しているのだろう。
畠山:そう。ホテルのバーでの長い会話は実は“最後”ではないんですよね。何をもって“最後”と捉えるか。私は、過去を終わらせる意味での“最後”の会話なのかなぁとボンヤリ思っています。どうでしょう? みなさまのご意見を聞いてみたいですね。
意味深なタイトル同様、ローラ・フェイという女性も非常に謎めいています。因縁のあるルークにしれっと会いにきて、自然に会話を進めてしまうあの度胸。お酒のお代わりを勧められた時に彼女が興味を示したのがアップルティーニというウォッカベースのカクテルです。お代わりするほど私たち長話するのかしら? なんて見え透いたことをのうのうと言ってのけた時、支配権は彼女が握ったのだと伝わりました。専門のカウンセリング技術をもつどころか、高い教育も受けられなかったはずの彼女が、さり気なくかつ大胆にルークの記憶を呼び覚まさせていくトーク力はハンパないです。
彼女のトークに深みを与えているは、本や映画、ドキュメンタリー番組などから得た豊富な知識。そして切れ味を与えているのが、再婚相手で元警官であるオリーから聞かされた捜査のイロハです。それらをベースに、時におだて、時にチクチクとツッコミながらルークの殻を一枚ずつ剥がしていく。田舎の蓮っ葉な女と思ってたのに、一体ナニモノ?
そして主人公のルークは、ネクラでパッとしない一介の学者。妻ジュリアと別れたのは、彼が心を閉ざしがちな性分だったからでしょう。ダメ男ってほどではないけど、なんとなく生気に欠ける人物です。
ところが、記憶の向こうにいる十代の彼は野心旺盛な優等生です。愚鈍で粗野な父を毛嫌いし、自分はこんな田舎におさまる器ではないと息巻いている姿はなかなかのもの。激情に駆られて自分を制御できなくなるような一面もあり、今の萎れっぷりが嘘のようです。
ルークも、ローラ・フェイも、見た感じと全然違う何かが潜んでる……? そんなこんなで、お話を追いながらも誰の何を信じてよいのやら、散々迷わされました。作者にいいように弄ばれた感じですね。
あの時ちゃんと話していたら、もっと落ち着いて考えていれば……。誰しもそんな経験がありますよね。このお話を読んでいるとそういった事柄がいくつも思い起こされます。ああ、もし私の前にローラ・フェイもどきが現れたらどうしよう。あんなこととかこんなこと、うっ……そんなこともありましたね! と恥ずかしい記憶が決壊したダムのごとく溢れ出ること間違いなしです。いかん、そうなる前に彼女にはお気に入りのアップルティーニをお供えして、穏便にお帰りいただこう。(<妖怪か)
散々語った挙句に白状すると、私、この本は再読です。でも男の人がぐだぐだしてたっけなーという雑な記憶しか残っていなかった自分が情けない。加藤さんもクック作品の記憶をすっかり失っているようでして、まぁなんと言いますか、ルークの記憶の不確かさより己のことを心配した方がよさそうです、私たち。
加藤:自分で言うのもナンですが、記憶力の不確かさにはちょっとした自信があります。
これを書いている今、僕は左肩の腱板断裂の手術で入院中なのですが、入院から3週間が経ったつい先日、左手薬指から結婚指輪が無くなっているのに気付いて大慌て。行動範囲は限られるのに、いくら探しても見つからない。困った挙句、看護師さんに相談したら「手術のときに外したハズですよ」って。いやいや、そんなわけないじゃん、3週間も気付かないなんてことある? でも、念のため奥さんにLINEしたら「確かに手術のときに預かって家にある」とのこと……。
それにしても、こんなに長く酒を断ったのは大人になってから初めてです。ロマネコンティもドンペリピンクもどんな味なのかもう思い出せない。大丈夫かオレの記憶力って、よく考えたらどちらも飲んだことがありませんでした。
そんなこんなで、人の記憶は実にいい加減。所詮、人は見たいものしか見ないし、見たいようにしか見ないもの。それを丁寧に煎じ詰めていけば、すれ違いコントやミステリーが生まれるわけですね。
と言うのは簡単だけど、トマス・H・クックの凄いところは、その行き着く先が全く見えないところ。何かがおかしいと思わされながら、その違和感の正体がわからない。
あるところから急に全体像がぼやけてきて、何もかも、主人公ルークのことすら信じられなくなってくる。事件なのか事故なのか、誰が被害者で加害者なのか。もしかして誰かが嘘をついている? そもそも、一人ひとりモノの見方が違うのに、この世に唯一の真相なんてものが存在するの?
いやあ、最初から最後まで暗中模索、五里霧中、疑心暗鬼、網走無宿。誰かが人を殺して、逃げたり隠したり、それを暴いたりするばかりがミステリーじゃないって改めて思わされた、とても興味深い読書でございました。2年後にはすっかり忘れていると思うけどw
そんなわけで、トマス・H・クック『ローラ・フェイとの最後の会話』、堪能いたしました。この原稿が掲載される頃、僕は一ヵ月の入院生活を終え娑婆に戻っている予定。関係各位には大変ご迷惑をお掛けしました。平身低頭。
えーと、最後に告知いいですか?
■勧進元・杉江松恋からひとこと
トマス・H・クックの長篇で初めて翻訳されたのは、1988年に発表された第四作『誰も知らない女』でした。そこから1990年の第七作『夜訪ねてきた女』までが本国での発表を追いかける形で訳されていきます。この四作のうち三作が、フランク・クレモンズ警部補を主人公とするシリーズでした。当時はまだ1980年代の一人称私立探偵小説ブームの余韻が残っており、固定主人公のヒーロー・ノヴェルとして売られたのです。タイトルが『~した女』で統一されているのも、シリーズ化の意図を感じます。ただ、これはクックとしてはまだ習作の部類に入る長篇であり、日本でも飛びぬけた人気を獲得するには至りませんでした。
クックの翻訳がはねたのは、1996年の『緋色の記憶』として翻訳された1998年以降です。このあと1993年の『死の記憶』、1995年の『夏草の記憶』、1998年の『夜の記憶』が2000年までに立て続けに翻訳され、いわゆる〈記憶〉四部作が構成されることになります。おもしろいのは、この中で原題に「記憶」の文字があるのは『死の記憶』(Motal Memory)だけだということです。最初から『死の記憶』を出す予定でThe Chatham School Affairに『緋色の記憶』という題名をつけたのか、単なる偶然なのか、どっちなんでしょうね。これは当時の担当者に確認したい気がします。四作まとめて版権を取っていたのかな。
それはさておき、〈記憶〉四部作が好評を博したことでクックはまったく違うタイプの作家として受容されていくことになりました。封印されていた深層の記憶が蘇っていくことで現在の人間関係が変容する、つまり過去の呼び声が現在の虚構を覆して真相を暴き立てるという物語様式の作家として認識されたということです。この〈記憶〉四部作以前に、サイコスリラーのブームがあったことは覚えておくべきでしょう。記憶に問題を抱える主人公を〈信頼できない語り手〉として置いたタイプの物語も1990年代には多く書かれていました。日本ミステリーでも〈囁き〉シリーズの綾辻行人を筆頭に力のある書き手が出現しています。そうしたタイプのスリラーの作者ということです。これがクック第一の功績。
第二は、こちらのほうがミステリー的には重要だと思いますが、限られた人間関係の中で展開されるフーダニットのおもしろさを知らしめたという側面があります。クックの長篇では、冒頭で読者に示された人間関係は表層的なもので、深層にあるものが後半で発覚する事実によって浮上するという形式をとります。その中で何が起こるか。各人が抱えていた秘密が暴かれることになり、それぞれの見え方が変わります。関係者の中には故意の嘘吐きもいますが、気持ちの弱さゆえに真実を明らかにできず心を痛めていたという者もいます。ありようはさまざま。しかし全員が見かけ通りの人間ではないことがわかるのです。このことによって、誰が犯人であってもおかしくない状況が出来あがります。関係者がいかに少なくてもクックはこれをやります。why、つまり記憶の発露によって暴かれる過去の意外さだけに注目が集まりがちですが、who、そうした状況下で展開される犯人捜しの興味こそがミステリーとして見た場合のクック最大の魅力なのではないでしょうか。クックの物語作法には学ぶべき点が非常に多いと思います。
さて、次回はジョン・グリシャム『自白』ですね。残りあと2回。楽しみにしております。完結の暁には、何かやられるんですか?