——シーラッハば、青空、南風

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

加藤:若草萌えて風薫る季節。GWも間近に迫ったこの頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 4月の話題といえば、やはりロッテの佐々木朗希投手ですよね。「完投・完封」も難しいこの時代に「完全試合」の価値をたった2週間でメチャクチャ下げちゃった。先人たちに謝れw 真面目な話、こういう若い才能が出てくるたびに、人間って確実に進化しているのだなと思いますよね。

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』をテキストに翻訳ミステリーを学び直す「必読!ミステリー塾」の第97回は、フェルディナント・フォン・シーラッハ著、酒寄進一訳『犯罪』。2月の取り上げた『ラジオ・キラー』と同じドイツ発の世界的ベストセラー、2009年の作品です。こんなお話し。

 DV妻を殺した人望ある老医師、誰よりも愛した弟をその手で殺した姉、変化のない生活に心を病んでゆく博物館警備員、周りの人々の幸福を願いながら銀行強盗犯となった男……。
 どこで何を間違ったのか、それともすべては必然だったのか。人の世の不条理に翻弄され人々が刑事弁護人の「私」の目を通して語られる連作短編集。
※2015年刊行の文庫は2012年刊行のハードカバーから大幅に改稿されており、また収録内容も一部異なります。これから読まれる際は文庫版をお薦めします

『犯罪』は出たばかりの頃、その評判を聞いて読みました。そのちょっと抽象的かつシュールな感じの表紙イラストのテイストとは違った、端正で整然とした文章と内容に強い印象を受けたのを覚えています。

 著者のフェルディナント・フォン・シーラッハは1964年生まれのドイツ人。ボン大学を卒業後、1994年からベルリンで刑事事件弁護士として活躍。数々の大物の弁護を担当し、やがてドイツでも名の知られた実力派弁護士となったそうです。
 そんなシーラッハが2009年に発表した初の著作が本作『犯罪』です。ドイツで45万部のベストセラーとなり、その後、世界30カ国で出版され、日本では2012年の「本屋大賞」の翻訳小説部門1位に輝きました。2010年に2作目の短編集『罪悪』を、翌2011年には長編第1作『コリーニ事件』を発表し、いずれも高い評価を得て日本でもヒット。新作が出されるたびに話題となる人気作家となりました。

 とにかく「読ませる」という言葉がピッタリくる、著者を思わせる刑事弁護人の「私」が携わった11編の物語。あっと驚く謎解きがあるわけではないし、ドラマチックな展開が待っているわけではないのに、とんでもなく面白い。これは一体何なのか。「私」は刑事弁護人なのに法廷シーンがほとんどないのにも驚かされる。

 この『犯罪』に登場する被告人の大半は、衝動的な性格ではないし、悪意とは無縁な人々だったりします。自分が同じ立場ならそうならないとは言い切れないのではないか。そう思わせてしまうところが、シーラッハ熟練の手管というべきか。デビュー作なのに。

 犯罪を犯し裁かれる人々にも、当たり前だけどそれぞれの人生があり物語がある。なんだか近頃こういう話がメチャ沁みるんですよね。オコチャマ脳の畠山さんにはわかんないかも知れないけど。

 

畠山:やかましいわ。まぁ確かに、オトナになりきれてないことを自覚する場面はままあるんですが。でも、最近はそれよりも「アレ、アレ、ほらなんだっけアレよ、アレ」なことが多すぎて、オトナになれないまま別のものになっていきそうな自分が怖い。

 さてシーラッハの『犯罪』。私は2作目の『罪悪』が出た時に一緒に読みました。加藤さんが紹介しているとおり、発売以来大変な評判でしたよね。東京創元社ご担当Sさんの興奮ぶり(☞こちら)を読んで、どんだけすごい小説なんだろう? と期待値が爆上がりしたんだっけ。
 とはいえ、なにごとも期待しすぎると肩透すかしをくらう可能性大。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせて本を開きました。はい、やられました。肩透かしどころか、第1話の「フェーナー氏」でくらったパンチの重さに軽い眩暈すらおぼえたほどです。ある夫婦が愛と抑圧と忍耐の果てに迎えた結末。第三者が彼らを理解し、法で裁こうとすることの難しさを突きつけられます。スドーンと心が沈む痛ましい事件……なのに、ラストはまさかのハートウォーム! なにこれ? なんかすごいもの読まされた気がする!

 続く第2話「タナタ氏の茶盌」で完全にノックアウトです。ドイツのチンピラもハンパないけど、ジャパニーズマフィアは死ぬほど怖ぇぇとすくみあがる、血の気がひくようなバイオレンス。なのに静謐。語り口も事件の顛末も、日本庭園を思わせる静けさがあるのです。ちなみに『犯罪』は実際の出来事を巧妙に組み替えて、元の事件がわからないようにしてあるのだそうで、本当にこんな日本人のマフィアがいたかどうかは定かでありません。どうか脚色でありますように。
 凄味という言葉がぴったりのお話ですが、最後に明らかにされるチンピラたちの会話は笑いそうになるほどゆるふわ脱力系。でもとても謎めいているのです。その示唆するものは何か、そもそもなぜこの会話があるのか、地下鉄はどこから入ったのか、考えだしたら眠れない(<検索ワードは「地下鉄漫才」でどうぞ)。
 ちなみにもう一遍、「緑」のラストも意味を考えてしばし立ち止まったのですが、こちらの記事に巡り合って目から鱗でした(※本作を読んでからご覧になることをお勧めします)。

【まさかの来日】 天才作家シーラッハ、やはり尋常じゃなかった!

 
 その後は一気読みでした。事実を淡々と述べる形の硬質な文体は、時に怜悧な刃物となって皮膚の上をすべり、時に鋭い錐となって体内に潜り込んでくる。登場人物の心のひだを懇切丁寧に書き綴ることはしていないのに、読み手にビシビシ伝わってくるのです。同時に、犯罪者を見つめる「私」の眼に優しさがあることも汲み取れる。あくまでエンタメの枠組みでありながら、知と情の力でほんの少し違う次元に連れていかれたような感じがしました。

 そういえば、『犯罪』の収録作すべてにリンゴが登場するんですよね。以前読んだ時は見つけきれなかったのだけど、今回は頑張って全部見つけました。このリンゴは何を意味しているのか? 松山巌さんの解説は大変興味深かったですね。加藤さんは全部見つけられた?

 

加藤:普通に考えると、リンゴの意味するところは「原罪」ですよね。郷ひろみと樹木希林も「アダムと~イブが~」って歌っていたし。でも、旧約聖書には「禁断の果実」が「リンゴ」であるとは書かれていないのだとか。
 ところで、郷ひろみ&樹木希林『林檎殺人事件』の歌詞を改めて読んでみると、名探偵は目星をつけた犯人をおびき出すことに成功しつつも、最後は不意を襲われ失神して終わるのですね。意外にも伝統的ハードボイルド探偵小説展開だったことを、今回知りました(「林檎殺人事件 歌詞」で検索)。思えば1970年代くらいまでの犯罪者は、探偵の後頭部にある秘孔を絶妙の力加減で突いて2、3時間意識を失わせることが当たり前のように出来たものでした。近頃ではそういう技能を持つ犯罪者をほとんど見かけなくなりましたね。嘆かわしい限りです。

 さて、シーラッハは長編2作目『禁忌』に収録されたエッセイ「日本の読者のみなさんへ」で、「悪とはなにか」という問いの答えとして、なんと江戸末期の禅僧であり俳人でもあった良寛さんの時世を引いてみせました。

 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ

 誰にでも良いところと悪いところ、明るい面と暗い面があり、それを含めてただ存在しいずれ消えてゆくものだ、という感じでしょうか。善や悪、モラルを定義するのは簡単だけど、その本質を知ることは不可能である。それがシーラッハの(今の時点で)たどりついた答えだったようです。

 本作『犯罪』は様々な犯罪にいたるケースを創作という形で描くことで、人は誰でも間違いを犯すものだ、場合によってはそれが必然ですらあったのかもしれないと、我々自身の存在が持つ本質的な不安定さみたいなものを思い出させます。木綿豆腐のつもりで絹ごし豆腐を買ってしまって鍋パーティーをぶち壊した、くらいの間違いで人生を棒に振る人は多いのかも知れません。

 思えば、僕らが普段読むミステリーは情念が渦巻き、血生臭く、複雑怪奇に入り組み、エモーショナルな仕掛けがいっぱいです。でも『犯罪』に収録された11編はその対岸にあるような話ばかり。ケレンがないという形容すらケレンに思えるような澄んだ静けさに引き込まれずにはいられません。考えてみれば、身につまされそうな辛い話、嫌な話ばかりのように思えるんだけど、不思議なことに読んでいて少しも不快じゃない。いろんな意味でこのテイストは初めての体験だったかも知れません。
 込み入った濃いミステリーにちょっと疲れている方には、とくに沁みるかも知れないですね。

 それにしても、この『犯罪』を読みながらどうしても考えちゃいました。普通に生きようとしていて上手くいかず、心ならずも犯罪者として裁かれる人たちがいる一方、「これは戦争です」と宣言すれば、人を殺すことが許されている世界の矛盾。
 そんなわけで、コブシ咲く北国の春を迎えている畠山さんに静かにバトンを渡します。ああ、我ながらみごとなタイトル回収。(<みごと?)

 

畠山:はいはい、待ちに待った春がきております。コブシ、チューリップ、ツツジに桜に梅。なにせ春が短いので、みんな急いで一気に咲きます。まさに百花繚乱。でも道外出身の方に「季節感がない」と言われたことがありましてね。あれ?「季節が都会ではわからないだろう」って歌詞は間違いかも? てか、97回目にしてまだ昭和ネタ満載しか芸がないのか、私たちは。

 時代遅れといえば、私のドイツに対するイメージは恥ずかしくなるほど古臭いものでした。金髪碧眼で大柄、ひたすら真面目に農業や製造業に勤しむ、ちょっと頑固な人たち。ああ、マライ・メントラインさんが頭を抱える姿が目に浮かぶ。
『犯罪』で各話の背景になっているのは、中東や東欧からの移民、ネオナチ、貧富の差、DVにネグレクトなどのさまざまな社会問題です。そういえば、同じ時期に読んだゾラン・ドヴェンカー『謝罪代行社』では、高学歴でも就職できない若者が主人公でした。そうか、ドイツも病める部分を抱えているんだな、と改めて認識しましたよ。

 抑圧された人生において、いつの間にか犯罪の世界に足を踏み入れてしまう人々。特に虐待を受けた姉弟の顛末を描いた「チェロ」なんて、悲しくて理不尽でたまりません。読み進めるごとに、冒頭で紹介されている「物事は込み入ってることが多い。罪もそういうもののひとつだ」という裁判官であった作者のおじ様の言葉が重みを増していきます。精神を病んだ人を主人公にした「緑」や「棘」を読むと、なおさら沁みました。加藤さんと二人で沁みる沁みると演歌の花道みたいになってますが、ラストの「エチオピアの男」なんか沁みすぎちゃって泣けてくるほどでした。恵まれない生い立ちがあって、罪があって、やり直しのチャンスと償いがあって、主人公の人としての真価を最後に問う。このお話で締めくくってくれたことに感謝しましたよ。粋だなぁ、シーラッハさん。

 そんなこんなで、初めて読んだ時の3倍くらい堪能した『犯罪』。ひょっとしてアタシ、ちょっとオトナになったのかしら。むむむ、これは『罪悪』『コリーニ事件』なども再読したくなってきました。手を付けていなかった『禁忌』『テロ』も、積読の山から引っ張り出さねば。
 あまりにも多くの命が奪われ、絶望と悲嘆の表情が世界中に毎日配信されている今、錯綜する情報から少し離れて、一人一人の人生を見つめてその状況を理解しようとする本書を、じっくり読んでみるのはいかがでしょうか。

 さてさて、先日の翻訳ミステリー読者賞、たくさんの方に投票していただいて感謝感激です。全結果と、寄せていただいたコメントは、☞こちらで公開しています。読書リストとしてご活用下さい。オンライン発表イベントもアーカイブされているので、ご覧になって下さいね。

 そして来月はいよいよ「翻訳ミステリー大賞」が決定します。大賞に輝くのはどの作品か。投票なさる翻訳者さんのコメントも楽しみです。刮目して待て!

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 ドイツ語圏のミステリー、犯罪小説には長い歴史があります。先駆的存在は、スイス国籍ですが20世紀初頭にシュトゥーダー刑事ものを書いて好評を博したフリードリヒ・グラウザーでしょう。その後に、やはりスイス国籍で劇作家として有名なフリードリヒ・デュレンマットが現れ『嫌疑』『約束』などの長編が翻訳されています。ただしドイツ・ミステリーがジャンルとして認識される機会はなく、スパイ小説作家として人気が出たJ・M・ジンメルや1トルコ系作家のアキフ・ピリンチの作品などが話題になりますが、いずれも単発でした。ドイツ語圏の作品が注目されるようになったのは、間違いなく1990年代末から酒寄進一氏が精力的に翻訳紹介を始めてからで、功績は多大なものがあります。『犯罪』は作者であるフェルディナント・フォン・シーラッハと共に酒寄氏の名を世に知らしめることになった作品で、ここからドイツ・ミステリーはジャンルとして成立していくことになります。こうした事情は各国でも同じだったようで、『犯罪』は諸言語に翻訳されています。拙宅にも中華民国版の『罪行』がありますが、一冊の本が同じ言語圏で刊行される作品そのものへの世界的な関心を集めるのはごく珍しいことで、北欧圏におけるスティーグ・ラーソン〈ミレニアム〉と並ぶ里程標的な評価を本作は受けるべきです。

 作品についてはすでにお二人が詳細に述べておられますので屋上屋を重ねることは止めますが、歴史的位置付けについてはもう少し書いておかなければなりません。すでに知られているようにフォン・シーラッハはナチ党高官の孫として生まれました。作家はその出自がドイツ国内では大きな意味を持つことを強く熟知しており、自分が国の歴史と向き合うべきであることを常に意識しているように私には思われます。第三作『コリーニ事件』は彼がそうした自身の立場を理解しているからこそ書かれた作品といえるでしょう。非常におおざっぱな言い方をするとドイツの作家は国家が背負っている戦争犯罪の歴史とどう向き合うかで創作者としての立場を決めてきました。『犯罪』に先んじること14年前の1995年に刊行された『朗読者』の作者、ベルンハルト・シュリンクは、ちょうど潮の変わり目に現れた作家ではないかと思います。彼はエンターテインメントの題材として戦争犯罪をとりあげましたが、このあたりから上の世代とは違う向き合い方が出てきたように見える。戦後第一世代にとっては近すぎる主題であった戦争犯罪を、距離をとって書くことができるようになったのがこのあたりではないかと思うのです。フォン・シーラッハの成功は、シュリンクが地固めした上にあったということもできましょう。

 フォン・シーラッハによって世界的な認知を得たドイツ・ミステリーは、現在ネレ・ノイハウスなど、新たな世代の書き手が出現して活躍しています。文字通り連邦であったドイツは地域ごとの個性が強く、作品も一様には語れない、というのは酒寄氏の受け売りです。その多様なありようについては、これからもどんどん翻訳作品を読んで知っていきたいと思います。

さて、この連載もいよいよあと三回でおしまいですね。残りの回も楽しみにしております。次はトマス・H・クック『ローラ・フェイとの最後の会話』ですか。これはどのように読んでいただけるのでしょうか。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

「必読!ミステリー塾」バックナンバーはこちら