——きっと誰もが一度は訪れる「忘れられた本の墓場」から始まる物語

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

加藤:東京オリンピックの代表選考も大詰めという感じの今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。今日から7月、2020東京オリンピック開幕までいよいよ3週間余り。きっと将来、「2020東京五輪が行われたのは西暦何年?」みたいな定番のクイズネタになるんでしょうね。

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」の第87回、今回のお題は『風の影』です。白土三平さんの忍者漫画じゃありませんよ。スペイン・バルセロナを舞台にした世界的ベストセラーで、著者はカルロス・ルイス・サフォン。こんなお話です。

 1945年のある霧深い早朝、10歳のダニエルは古書店主の父親に連れられて「忘れられた本の墓場」を訪れた。初めてそこに来た人間は、必ず1冊の本を選び、その本がこの世から無くならないように守り続けねばならないという。ダニエルが選んだ本はフリアン・カラックス著『風の影』。この本にすっかり魅了されたダニエルは、やがて著者のフリアン・カラックスについて調べるうちに、その数奇な運命に自らも引き込まれてゆく——

 著者のカルロス・ルイス・サフォンは1964年にバルセロナで生まれた小説家。1993年にスペインの児童文学賞を受賞して小説家デビューしました。少年向け小説を何冊か書いたのち、結婚を機にロサンジェルスに移住。ハリウッドでフリーランスの脚本家として働きながら書いたのが、本作『風の影』だそうです。2001年にスペイン語版が出され評判になると、やがて世界37ヵ国で500万部を売り上げる大ヒットに。その後、サフォンは15年の歳月を費やし「忘れられた本の墓場」4部作を完結したものの、昨年2020年に大腸がんで亡くなりました。享年55歳。

 世界中の本好きを虜にした本作『風の影』は「忘れられた本の墓場」4部作の第1作で、日本では第2作『天使のゲーム』、第3作『天国の囚人』まで翻訳刊行されています。スペイン内戦と第二次世界大戦を挟んだ前後2つの時代を描く本作は、困難な時代とそこに生きた人々を描きながらも、全編がどこか幻想的で、広大なスケールをもつ謎めいた物語。そしてその文体や登場人物たちの語る言葉は総じて大時代的で、古典を読んでいるよう。大仰な風格にちょっと可笑しみが混じり、懐かしさと心地良さを感じさせてくれました。

 この本のタイトルでもある架空の小説『風の影』の著者フリアン・カラックスは、どうしてバルセロナを追われ、何故バルセロナに戻って死んだのか。フリアンの本を探して焼いて回っている顔のない男は誰なのか。バルセロナの闇そのもののようなフメロ部長刑事との因縁とは。主人公のダニエルはそれらを探るうちに、フリアンも知らなかったある事実にたどりつく——。

 主人公のダニエルと固い友情で結ばれるホームレスのフェルミンをはじめ、登場人物が個性的でキャラが立っているのも本作の魅力。畠山さんはどのキャラが好みだったかな?

 

畠山:「安心安全」の言葉を「不安危険」と自動変換してしまうようになった今日この頃。まさか「オリンピック」という単語がこんなにネガティブに聞こえるようになるなんて思ってもみませんでした。生きてるといろんなことがありますね。

 本書の舞台になっているバルセロナ。この時期に奇しくもという感じですが、真っ先に思い出すのは1992年のオリンピックです。大怪我を乗りえた柔道の古賀さん、14歳の金メダリスト岩崎恭子さん、バスケのドリームチーム……。興奮と寝不足の2週間だったなぁ。開会式でホセ・カレーラスが歌った「Barcelona」もとても素晴らしく、本を読んでいる間ずっと脳内で鳴り響いておりましたよ。余談ですが、予定ではフレディ・マーキュリーが歌うことになっていたんですよね。惜しくも前年に亡くなったのでした。というわけで、みなさまこちらをどうぞ。泣いて。

 

 さて、『風の影』です。一切の予備知識なく手に取りまして、あっという間にのめりこみました。長い歴史の重みを感じさせる街並み、人々の生活の香りと書物の温もり、運命的な本との出会い、性急な恋。そして謎、謎、謎。
 主人公ダニエルはフリアン・カラックスという謎の作家を追ううちに、なぜか自分の置かれた状況が若き日のフリアンに似てきていることに気づきます。故郷バルセロナを捨て、不遇の中で亡くなったであろうフリアンを思うと、ダニエルの人生にも悲劇が待ち受けているのではと不安になります。過去に何があったのか、目に見えぬ繋がりを明らかにし、それを断ち切ることができるのか。シンクロしあう二人の若者の行く末を見届けないうちには本を閉じられません。

 彼らに共通するのは「引き裂かれそうな愛の行方」。身を焦がさんばかりの愛の奔流とその顛末は、もうたまんないほどドラマチックで、図らずもオバチャンの胸はドキュンドキュンしちゃいました。枯渇したと思っていた乙女心が復活しましたわよ。ありがとう、カルロス・ルイス・サフォン。
 こうなったら乙女全開で語っちゃうけど、恋の入り口に立ったばかりのダニエルとベアトリスが夜の道を隠れるようにして歩くシーンがありまして、この時彼女が小脇に抱えている本が『ダーバビル家のテス』。なんというニクい演出! グッときません? きますよね!?(なんじゃそりゃ?という方は、ナスターシャ・キンスキー主演の映画「テス」をぜひ♪)

 バルセロナの温かく優しく、そしてどこか狂おしい空気感にどっぷりはまった私は、上巻を読み終わる頃には矢も楯もたまらず、続く『天使のゲーム』と『天国の囚人』を求めて書店にすっ飛んでいったのでありました。<忘れられた本の墓場>ワールドに身を委ねた時間は至福のひと言。

 そんな私のお気に入りキャラは、ダニエルのお父さんセンペーレ氏ですね。愛妻亡きあと男手ひとつで息子を育て、書物を愛し、物腰は柔らかく、誰に対しても分け隔てなく接する、とっても素敵な人。こんな店主のいる本屋さんなら絶対常連客になりますよ。間違いない。

 加藤さんはスペインが舞台のミステリーでお薦めある?

 

加藤:確かに、バルセロナと言われて真っ先の思い浮かべるのは、岩崎恭子さんの顔だったりするなあ(メッシではなく)。あれがもう30年近く前なのか。あのオリンピックのお陰で当時の日本人は一気にスペインに興味を持ったよね。誰もがアントニオ・ガウディを知り、一度はこの目でサグラダ・ファミリアを見てみたいって思ったはず。思えば、オリンピックって本来そういうものであるべきだよね。
 そして、スペインのミステリーと言われて僕が真っ先に思い浮べるのは、逢坂剛さんの『カディスの赤い星』だったりするなあ。この本を読んだ頃はスペインがどこにあるのかも知らなかったけど。

 本や作家、書店を扱ったビブリオ・ミステリーでもある『風の影』には、本好きなら誰にも突き刺さるシーンや、グッとくるフレーズに溢れているわけですが、なかでも私たちを惹きつけるのが「忘れられた本の墓場」という特異な存在であり不思議な場所。この物語の中心にありながら、なんとも現実感が無いというか他から浮いているんですよね。これだけを切り取るとファンタジーみたいで、そういう話なのかと思って読み進めると、ぜんぜんそうでないので面喰うことになる。
 では、この「忘れられた本の墓場」とは何なのか。その解釈は読む人に委ねられることになるのですが、きっと誰もが「この一冊」という本とどこかで出会い死ぬまで一緒に生きていくということのメタファーなのかもと思うと、ちょっと幸せな気持ちになったりします。

 そんな本好きをメッタ刺しにする『風の影』は、翻訳ミステリーとしての魅力が贅沢に詰まった話でもありました。異国情緒あふれる世界観はまさに圧倒的。その時代のその場所にしかなかった空気に触れられたような気分になれた幸せな読書時間を堪能しました。
 また、決してメインテーマではないけれど、スペイン内戦の顛末が市井の人々の目線から語られるのも興味深かったです。ある日突然よく分からない何かが始まり、そのうちに収まるだろうと思っていたら、気付けば取り返しがつかないくらい日常が壊されている。それはあたかも自然災害を成すすべなく見ているような、冷めた絶望だったのではないかと思わされました。

 そんなこんなで全方位的に面白い本ではあったんだけど、最後に僕は『風の影』の登場人物全員にこれだけは言いたいですね。
 君ら「避妊」って知ってるか?

 

畠山:それを言っちゃぁ、おしまいよ。あとさき考えずひたすら愛の欲に身を任せる快感をたっぷり味わったっていいじゃない。時代なのか土地柄なのか、愛し合うことこそ人生! みたいな強さを秘めた大らかさを感じたなぁ。それに暴力と悲劇の合間に語られるラブロマンスだからこそ「映える」のよ。

 そう、この作品では暴力の犠牲になる人や苦しい人生の日々を強いられる人が多く描かれています。特に女性が痛めつけられるとか、いわゆる“毒親”に苦しめられる子供のエピソードは辛い。我らがアイドルのフェルミンもホームレスになる前に苛烈な拷問を受けた経験があり、トラウマに苦しんでいます。かと思えば、DV夫と思われていた人が意外な面を見せたりもして、多彩な人間描写に唸るばかり。特にフリアン・カラックスの秘密を知る女性ヌリアの告白は、同じ女性として興味深かったです。惚れた弱みで巻き込まれた人生といえばそれまでですが、辛く苦しいことも自ら選んで引き受けた大人の女性の覚悟に、敬意にも似た気持ちを抱きました。
 逆境にあってもなんとか今日を、明日を生き抜こうとする人々のドラマを存分に読み尽くして下さい。ちなみに読後はとても良いです。大河ドラマの最終回みたいに「やりきった」感が溢れるラスト。

 そしてどうかこのお話の記憶が薄れないうちに、一世代前の物語『天使のゲーム』に進んでいただきたい。主人公が「読む人」から「書く人」に変わります。幻想性、ダークな雰囲気がグッと強くなり(しかもラブコメ要素もあるという芸達者ぶり)、『風の影』と大きな関連を持つ人物がフィーチャーされます。人はかなり死にます。ごろごろ死にます。
 三作目の『天国の囚人』は『風の影』事件の少し後に時間が戻り、フェルミンがホームレスになるまでの経緯が語られます。これがもう驚きの連続。前二作の顔が全然違ったものに見えてきて、ちょっと待った、私は今何を読まされてるんだ!? と騙されたい症候群のミステリファンが泣いて喜ぶような混乱の中に放り出されること間違いなしです。
 ところが! どうやら壮大な仕掛けがなされているらしきこの「忘れられた本の墓場」シリーズ。最後のピースになる四作目が邦訳されていない! さ れ て い な い !
 
一体どういうことですか? このままで引き下がれようはずもありません。一日も早い邦訳をお願いいたします!

 あ、すみません。ちょっと力が入り過ぎました。
 さきほど加藤さんが誰しもが出会うであろう「この一冊」に触れていました。実は、この小説の“肝”を表すようなこんな文章が冒頭に出てくるのです。

本を読む者にとって、生まれてはじめて本当に心にとどいた本ほど、深い痕跡を残すものはない。(中略)その先の人生で何冊本を読もうが、どれだけ広い世界を発見しようが、どれほど多くを学び、また、どれほど多くを忘れようが関係なく―― ぼくたちは、かならずそこに帰っていくのだ。

 みなさまの「かならず帰っていく」本はなんでしょう?

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

『風の影』に始まるカルロス・ルイス・サフォンの四部作によって、日本の読者はスペイン語圏ミステリーへの関心を持つようになりました。それまでもスペイン語圏の作品は細々ながら翻訳されていましたが、大きな話題になることはありませんでした。『楽園を求めた男』他のマヌエル・バスケス・モンテルバンが最も知名度は高く、それ以外に複数の作品が訳された作家はいないという状況でした。スペインではエンターテインメントの地位が相対的に低く、他のヨーロッパ諸国と比べても作家が育っていなかったという経緯があります。『風の影』が発表された2001年は潮目が変わりつつあった時期で、これ以降は『死んだ人形たちの季節』のトニ・ヒルや『時の地図』のフェリクス・J・パルマなど、複数のベストセラー作家が輩出することになります。スペイン・ミステリーの強みは本国だけではなく、同語を用いる地域が南米などに広く分布していることで、相互の交流もあります。『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』を合作したホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ=カサーレスや近年では『螺旋』のサンディアゴ・パハーレスなど、近接領域でミステリーに理解のある作品を書く作家も多く、おもしろい小説が好きな読者にとっては目の離せない地域です。書き手の潤沢さが質の高さにつながっているということも言えるでしょう。

『風の影』が好評を博したのは、忘れられた本の墓場というビブリオ・ミステリー向きの題材を提供したことと、少年が大人に成長していく過程を描いた教養小説の性格があったことが大きいと思います。もう一つ忘れてはいけないのはファシズム政権時代が舞台であることで、現代のスペイン人にとって忘れることのできない、自らの国の暗部を描いた小説でもあるのです。この作品の幹の太さはここに起因しています。主人公の人物造形は政治による恐怖という状況と不可分に結びついています。だからこそ彼の感情が作り物として感じられず、読者の心を揺さぶるのではないでしょうか。歴史に正面から向き合うこうした態度はスペインで書かれたミステリーにおける強い潮流の一つになっています。

さて、次回はケン・ブルーエン『ロンドン・ブールヴァード』ですね。こちらも楽しみにしております。

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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