前作『愚か者死すべし』(2004年)からかれこれ14年くらいのスパンを経て、原尞の探偵・沢崎シリーズ第5長篇『それまでの明日』(2018年)が刊行され、話題を呼んでいるそうな。なにしろ30年間で発表した長篇小説が5冊(短篇集『天使たちの探偵』〔1990年〕を加えて6冊)という寡作ぶり。ファンとしては待ちに待った最新刊ということになる。
 小生の編集者時代、忘れられない思い出のひとつに、沢崎初登場のデビュー作『そして夜は甦る』(1988年)の原稿にまつわる件がある。某出版社の新入社員時代に、足元に積まれた投稿原稿の山の中にそれはあった。添えられた手紙には、素人がはじめて書く習作なので適切な分量もわからないため、尊敬する作家レイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よFarewell My Lovely)』(1940年)ポケミス版をお手本に、それと同じ字詰・行組・段組・ページ数で書いてみました、感想をお知らせいただけたら幸いです、と丁寧な文章。むろんポケミス愛の強さに心打たれ、さっそく読み始めた。とたんに、その非凡な文才に驚かされ引き込まれ、原稿半ばまで読み進めてからようやく我に返り、先輩社員に報告したことを記憶している。その先輩社員から当時の編集長へとその原稿は渡り、結果、この傑作は世に出ることになるのだけれど。
 
(ちなみに、この先輩社員というのが現在では翻訳家の雨沢泰氏、『それまでの明日』のラストで献辞を贈られている故・菅野圀彦編集長というのが、当時の『ミステリマガジン』編集長であります)
 
 原尞氏というと、ポケミスを全点揃えているというマニアぶりが有名だけれど、元フリージャズ・ピアニストという肩書を持っていることも知られている。兄上が鳥栖の地元でジャズ喫茶を経営していて、いまでもそこで時折演奏するとか。過去に3枚のソロ名義アルバムを発表していて、そのうちの『ASK ME NOW』(1988年)は、ジャズ・ピアノの巨人セロニアス・モンクの作品集。ライヴ演奏中に「オレのバックで変な音を出している奴は誰だ?」とマイルス・デイヴィスに言われたとか言われなかったとかという逸話が残るほど個性的な音楽性を持つ、セロニアス・モンク。原氏独自のモンク作品の解釈は、探偵・沢崎の孤高の存在ともどこか重なり、ときにシニカル、ときにリリカルに聴く者の心を捉えて離さない。さらに、モンクのライヴアルバム(1958年)のタイトルと同名のエッセイ集『ミステリオーソMisterioso)』(1995年)を発表していることからもわかるように、モンクへの想いは並々ならぬものだと察することができる。
 
 そんなモンクの名にちなんだ〈モンクス・ハウス〉なる邸宅が登場するミステリーがある。日本にはなかなかないけれど、欧米では邸宅そのものに名前がついていることが多い。住人の作家が彼の音楽を愛してやまなかったこと、また作家ヴァージニア・ウルフとレオナルドの夫妻が住んだ家と同じ名をつけたいと望んだことからそう名づけた、という設定だ。
 それが、ピーター・スワンソンの『そしてミランダを殺すThe Kind Worth Killing)』(2015年)。デビュー作『時計仕掛けの恋人The Girl with a Clock for a Heart)』(2014年)に続き、ファム・ファタルを描いた次世代ノワール第2作。これがまた、一筋縄でいかない曲者ミステリーなのであります。

 
 ヒースロー空港で飛行機の搭乗時刻待ちの間、バーで時間をつぶしていたIT関係の実業家テッドは、見知らぬ赤毛美女に話しかけられ、アルコールの力も借りて会話もはずんでいくうちに、冗談めいて思わず妻を殺したいと打ち明けてしまう。ところが相手の美女リリーは、テッドに対する妻ミランダの手酷い裏切りを聴いて、殺害計画に協力したいと言い出した――。

 
 と、評論家・三橋暁氏による見事な巻末解説でも指摘されているように、冒頭はまさにパトリシア・ハイスミスのデビュー作にしてアルフレッド・ヒッチコック監督により映画化、交換殺人テーマの代表作とされる『見知らぬ乗客Strangers on a Train)』(1950年)。実際には本作は交換殺人ものではなく、この後、まったくもって予想できない方向へと転がっていき、まさに手に汗握り巻措く能わずの、騙し騙され合いの物語が展開していく。
 見知らぬ者同士の偶然の会話から生まれた殺害計画は実行にうつされることとなり、裏切りの張本人ミランダとその愛人である新居の工事業者ブラッド、この2人にそろって罪を償わせようという決行の日が近づいてくる。テッドとリリーの間にもほのかな親愛の情が生まれていくのだけれど、思いもよらないことに、主要登場人物のひとりが物語半ばにして凶弾に倒れてしまう。
 テッド、リリー、ミランダと、加えて事件を追うボストン市警の刑事ヘンリーの、4人それぞれの視点から語られていく各章は、ときに同じシーンを別の角度から描き、ときにティーンエイジャー時代や学生時代へと遡って、現在を形成するに至ったそれぞれの過去を浮き彫りにする。そこで露わとなるのは、ソシオパス(社会病質者)的側面のある主要登場人物の人格の歴史だ。これまた三橋氏が指摘しているように、前作『時計仕掛けの恋人』のヒロインと、ハイスミスの創造したシリーズ・キャラクター、トム・リプリー(『太陽がいっぱいThe Talented Mr. Ripley)』〔1955年〕で初登場)などとの共通項。『そしてミランダを殺す』にもまた、同様の反社会性パーソナリティ障害を抱えている人物が登場する。人の苦しみや死への反応が極めて薄いのである。それだけに物語の転がっていく方向が尋常でなくなるというわけなのだろう。
 リリーの両親が買い取った前述の〈モンクス・ハウス〉にまつわるモンクの話題だけでなく、物語を彩る具体的な音楽のセレクトもまた、ポピュラーなものを選びながらも、微妙に奥深い。
 テッドと出会った頃のミランダが大好きだった曲が、「マンサード・ルーフ(Mansard Roof)」(2007年)。テッドが彼女のために作ってあげた編集テープの中の1曲だ。ニューヨーク出身の4人組インディーポップ・バンド、ヴァンパイア・ウィークエンドのデビュー作にして代表作だが、そのプロモーション・ヴィデオを見ればわかるように、意味を解釈するには少々厄介な歌詞に能天気とも思える明るい曲調と画像。
 テッドとミランダの夫妻がよく宿泊した、建築中の新居近くのホテルのレストラン。常連客やバーテンダーからミランダの情報を得ようと訪れたリリーの耳に聴こえてくるのは、店内で演奏するギタリストのイーグルス・ナンバーと、「ムーンライト・マイル(Moonlight Mile)」(1971年)。ローリング・ストーンズの代表的アルバム『スティッキー・フィンガーズSticky Fingers)』収録の、これまた歌詞が難解でエキゾチックなバラードだ。
 これらミランダ側のいかにも複雑ながらロック畑の音楽に対して、リリー側が内省的なジャズへと傾いているのが象徴的でもある。件の〈モンクス・ハウス〉で多感な少女時代を送ったリリーは、その後の人格形成に大きく影響する事件を体験しているのだが、物語の後半、とある目的のためにその屋敷へと向かうことになる。“きわめて特異な状況”で車を運転し、ひた走る間ずっと、コマーシャルのないジャズのラジオ番組を聴いている。その道行きでは、立て続けにスタンダード・ジャズのタイトルが並べられている。
 同名の映画『大地は怒る』(1947年)のためにブロニスロウ・ケイパーが作曲した「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート(On Green Dolphin Street)」、スタンダード中のスタンダード・ナンバー「枯葉(Autumn Leaves)」、ロジャーズ&ハートのコンビ作「小さなホテル(There’s a Small Hotel)」などなど。チェット・ベイカーの「オールモスト・ブルー(Almost Blue)」は、もともとエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズの同名アルバム(1981年)に収録されたバラードで、チェットの伝記映画『レッツ・ゲット・ロストLet’s Get Lost)』(1988年)のサントラ・アルバムに収録されたカヴァー曲。1960年のダイナ・ワシントンの歌唱で知られるのが「ディス・ビター・アースThis Bitter Earth)」。チャールズ・バーネット監督映画『Killer of Sheep(日本未公開)』(1978年)に劇中歌として使われている。
これらのジャズ・スタンダード・ナンバーは、あたかも、モンクの名を冠した建物での少女時代の出来事が現在に強く結びついていることを訴えるかのようだ。あたかも、ジャズの旋律を浴びることによって、いままた繰り返すことになる過去のとある行為へと向かう、そのためのある種の通過儀礼を受けているかのように。深読みかもしれないけれど、きわめて効果的に音楽を使っていると言えるだろう。
 前作でも音楽での彩りは功を奏していた。バーの店内に流れるニーナ・シモンシナーマン(Sinnerman)」、友人たちがマリファナをふかしながら聴くグレイトフル・デッド、運転中の車のラジオから流れるソロモン・バーク、壊れかけのジュークボックスから聴こえてくるハンク・ウィリアムズとパッツィ・クラインウォーキン・アフター・ミッドナイト(Walkin’ After Midnight)」、パーティー会場内に大音響で響き渡るUB40――。
 
 さてさて、三橋氏が御指摘されたように、スワンソンにはハイスミスの作風とシンクロする部分(とくに人物造型において)が色濃く見受けられるのだけれど、一方で、この第2作の日本語タイトル(原題は“殺されて当然の者たち”とのこと)から、マーガレット・ミラー晩年の傑作『ミランダ殺しThe Murder of Miranda)』(1979年)を想起される読者もおられるだろう。もちろんミステリー好きならば、逮捕時におなじみの“ミランダ警告”というのが頭をよぎることだろう。でも、名前だけではない。『ミランダ殺し』と『そしてミランダを殺す』の共通点は、ずばりラスト数行の鮮やかさにある。ミラーにいたってはさらに、そこでタイトルが指す意味合いをようやく読者に明かすという高度なものだったけれど、もうひとつのミランダ殺しに挑んだ新進気鋭のスワンソンにも、今後それを凌駕する成長が期待できそうだ。
 
 そして、またまた余談だけれど、パトリシア・ハイスミス原作のヒッチコック映画『見知らぬ乗客』の脚本は、原氏の私淑するレイモンド・チャンドラーがチェンツィー・オルモンドと共同で手掛けている。
 
◆YouTube音源
“アスク・ミー・ナウ(Ask Me Now)” by Thelonious Monk

*セロニアス・モンクのスタンダード化した代表曲のひとつ「アスク・ミー・ナ
ウ」。
 
“マンサード・ルーフ(Mansard Roof)” by Vampire Weekend

*NYのインディポップ・バンド、ヴァンパイア・ウィークエンドにとってのデビュー曲。
 
“ムーンライト・マイル(Moonlight Mile)” by The Rolling Stones

*『スティッキー・フィンガーズ』収録曲のリマスター版。
 
KILLER OF SHEEP trailer

*チャールズ・バーネット監督の日本未公開映画『Killer of Sheep』(1978年)の予告篇映像。
 
◆関連CD
“ソロ・モンク(Solo Monk)” by Thelonious Monk

*原氏が自身のアルバム・タイトルに選んだ代表曲のひとつ「アスク・ミー・ナウ」を収録した、セロニアス・モンクのソロ・ピアノによる名盤(1965年)。
 
“吸血鬼大集合!(Vampire Weekend) ” by Vampire Weekend
*「マンサード・ルーフ」を収録した、ヴァンパイア・ウィークエンドのデビュー作にして大ヒット・アルバム(2007年)。
 
“スティッキー・フィンガーズ(Sticky Fingers) ” by The Rolling Stones
*「ムーンライト・マイル」を収録したローリング・ストーンズの代表的アルバムの1枚。
 
“レッツ・ゲット・ロスト(Let’s Get Lost OST)” by Chet Baker
*『ブルーに生まれついてBorn to Be Blue)』(2015年)以前に作られたチェット・ベイカーの伝記映画『レット・ゲット・ロスト』(1988年)オリジナル・サウンドトラック・アルバム。エルヴィス・コステロのバラード「オールモスト・ブルー」のカヴァーを収録。
 
◆関連DVD
◆『見知らぬ乗客Strangers on a Train)』
*パトリシア・ハイスミス原作、アルフレッド・ヒッチコック監督、ファーリー・グレンジャー主演による1951年の作品。

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

 



 



 

 

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