歳をとってからの習いごとというのは、なかなか上達するものではない。
3年ほど前に、フリューゲルホルンというトランペットの兄弟みたいな楽器を忽然と購入した。いきなり管楽器店を訪れ、これ、ください、と。
もちろん、管楽器なんか一度も吹いたことがなかった。ただたんに学生時代の音楽サークルの先輩にジャズ演奏するバンドやろうと誘われ、できたら旋律楽器やってほしいなって請われただけで――そして始まった苦難の日々。とはいえ、本業の仕事抱え、海外ミステリーも読みながら、練習なんかできるもんじゃない。ましてや大音量の楽器ゆえ練習場所すらない。というか、もともと警官嫌いだ。ぢゃなかった、練習嫌いだ。だけれども、そうも言ってられないので、せめて有名ジャズ曲のテーマ部くらいは憶えなければと、譜面を探してみた。
ジャズの世界には通称“黒本”と呼ばれる『ジャズ・スタンダード・バイブル』(シンコー・ミュージック)という楽譜集があって、アルファベット順に227曲の名曲が収録されているのだけど、そのA項のうちで最初に練習しはじめたのが、ジェローム・カーン作曲による名曲〈オール・ザ・シングス・ユー・アー(All The Things You Are)〉だった。もともとは『Very Warm for May』(1939年)というミュージカル・コメディのために書かれたもので、オスカー・ハマースタイン2世が歌詞をつけたものだ。この曲、美しい旋律ながら大きな転調を二度むかえてラストに落ち着くという、凝った楽曲である。
で、最近になってようやくわかった気がしているのが、作者のカーンがそんな凝った展開を選んだ理由。転調前の導入部分の旋律は、どことなくカッチーニの〈アヴェ・マリア(Ave, Maria)〉を思わせるのだ。作者自身確信犯的に真似て作っていて、転調して展開させていくことによって自身のオリジナリティを強めていったのではないか、と勘ぐってしまったというわけ。さらに言うと、そもそもカッチーニ作と言われているこの〈アヴェ・マリア〉は、実際にはウラディーミル・ヴァヴィロフが作曲して“作者未詳”として発表したもの。
そこで質問。わざわざ“カッチーニの”、って記したように、〈アヴェ・マリア〉って、いくつもあるってご存じでしたか? もちろん知ってるさ、と答える方も多いかと思う。〈アヴェ・マリア〉は、もともとは福音書からとられた祈祷文にさまざまな作曲家が旋律を付けたもの。前述の(便宜上)ジュリオ・カッチーニ作、ヨハン・セバスチャン・バッハ(+シャルル・グノー)作とフランツ・シューベルト作の3作がとりわけ有名だけど、パッと聴きでこれが誰々作と、わざわざ言ったりしませんよね? 自分の場合は、それぞれがあまりに馴染んでしまっていて、耳にすると、ああアヴェ・マリアだなと思いながらも区別して認識していなかったのでした。
むろん声楽系の歌い手はこぞって取り上げているけど、ポピュラー歌手でも錚々たる顔ぶれのアーティストが歌っていたりする。でも、その多くは、バッハ、シューベルト作のようだ。
バッハ版だと、カーペンターズ、セリーヌ・ディオン、ダニエル・ロドリゲス、デイヴィッド・アキュレタ、フィリッパ・ジョルダーノ、ジュエル、ロクア・カンザ、マイケル・ボール、マイケル・クロフォード、NOA、セルマ・レイスなど。
シューベルト版だと、アーロン・ネヴィル、アレサ・フランクリン、バーブラ・ストライザンド、グレン・メデイロス、ハリー・コニック・Jr.、ケリー・プライス、リンダ・エデール、マリア・ベターニャ、マイケル・ボルトン、マイケル・ブーブレ、マイケル・ダミアン、オリヴィア・ニュートン=ジョン、ペリー・コモ、シセル・シェルシェブー、ステイシー・サリヴァン、スティーヴィー・ワンダー、ウィノナ・ジャッドなど。
冒険小説好きの映画ファンならおなじみ、ジャック・ヒギンズの『死にゆく者への祈り(A Pray for the Dying)』(1973年)の映画化作品(1987年、ミッキー・ローク主演)でも、シューベルト版だったような……。最近だと『9人の翻訳家 囚われたベストセラー(Les traducteurs)』(2019年)も。
それに比べてカッチーニ版は、というと、パッと浮かばない。今は亡き本田美奈子さんや平原綾香さんの歌唱を思い出すけど、これはポピュラーとは言えないし。全体的に暗鬱な雰囲気の旋律なので、ポピュラー系のアーティストにはあまり好まれないのだろうか。
それでも、うろ覚えだけど、デイヴィッド・L・ロビンズの『鼠たちの戦争(War of the Rats)』(1999年)をベースにしたと言っていいだろう映画『スターリングラード(Enemy at the Gates)』(2001年)のイメージ曲に使われていたように思う。ま、そんなくらいだけど、圧倒的にカッチーニ版の暗さが、自分の好みであります。
〈アヴェ・マリア〉のタイトルにもなっている歌詞の冒頭は“こんにちは、マリア”という呼びかけの意味。厳かな空気感で、それでいてあくまでも優しいというのが、先の3バージョンがとりわけ有名だという理由かと思う。そんなこの歌が物語のシーンを奥深くしているのが、今月ご紹介する作品だ。
まずは、件のアヴェ・マリアと遭遇した経緯をご説明しよう。
いまや山ほどの文学賞が設立されていてミステリー界も例外ではないけれど、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)と英国推理作家協会(CWA)の賞は別格と言える。MWAの発表に次いで、この初夏にはCWA賞が発表され、ひさびさにチェックしていたら気になったことに、ゴールド・ダガー(最優秀長篇賞)とイァン・フレミング・スティール・ダガー(最優秀スパイ・冒険・ハードボイルド賞)の両賞で最終候補に残っていた作品があった。
クリス・ウィタカー(Chris Whitaker)の『It Begins at the End』(2020年)。
ん、待てよ、どこかで見た名前だなと思って調べてみると、数年前にデビュー作で同賞の新人賞(ジョン・クリーシー・ニュー・ブラッド・ダガーを受賞し、同作が邦訳紹介されている作家だった。『消えた子供 トールオークスの秘密(Hall Talks)』(2016年)。まったくノーチェックでした。今回注目されている『It Begins at the End』は、間に『All the Wicked Girl』(2017年)をはさんだ著者の3作目にあたり、結果的にゴールド・ダガー受賞作に選ばれた。
そこで、慌てて邦訳されている『消えた子供』を読んでみたところ、腰を抜かしたのだった。どうして、こんな傑作を読み逃していたのかと。ミステリー作品としてよりも人間ドラマとして、ということですが。アッティカ・ロックの『黒き水のうねり(Black Water Rising)』(2009年)のときにも未読のままだったのが痛恨だったけど、またもや、という感じ。
物語は、米国ワイオミング州周辺の小さな町トールオークスで起きた幼児失踪事件を中心に描かれる。母親の名はジェス、3歳の子供の名はハリー。ジェスの後々の証言によると、監視カメラ付きの地下の子供部屋に寝ているところにピエロのマスクをかぶった人物がちらりと映りこみ、その後、ハリーは姿をくらましてしまったのだという。行方がわからないまま三カ月経ったいまも、警察署長のジムは必至の捜索を続けるが、手がかりはなし。
事件自体はいたってシンプルなもので、あとは閉ざされた町の人間関係が、視点を変えて徐々に描かれていくという内容だ。だけれども、この小さな町の住民はとりわけ変わり者ぞろいで、ある意味、誰もが容疑者といっていい。
被害者家族である母親のジェスからして、母娘を捨てて出ていってしまった夫マイケルへの愛が強すぎるばかりに、彼が戻ってくることを諦められずにいて、夜な夜なバーで酔いどれては初対面の男たちと一夜限りの関係を持つことでようやく、精神の均衡を保っている。そんな彼女に心惹かれ、ジム署長は必死に捜査を続けるというわけだ。
彼らを取り巻く町の人々というのも、それこそ一癖も二癖もある連中で、言うてみたら、デヴィッド・リンチ監督の代表作とも言うべきTVシリーズ『ツイン・ピークス(Twin Peaks)』(1991-1992年、2017年)の登場人物を思わせるほど、濃いキャラ揃い。
この作品をより魅力的にしているのが、高校3年生の男子生徒マニーの存在だ。童顔を口髭で隠し、つねに縦縞三つ揃えのスーツに窮屈なサイズの合わない中折れ帽という姿で、いっぱしのギャング気取り。メキシコ系なのにイタリア系マフィアをもって任じているので、最初は戯画的にすぎて少々呆れてしまうのだけれども、読み進むうちに読者は何とも言えない彼の魅力の虜となってしまうはず。この町を牛耳ってやろうと考える純粋で子供っぽい部分と、身近な大人たちすら包み込む大人びた性格が同居しているという特異なキャラクターだ。
作者のウィタカー自身も、「マニーは『消えた子供』でいちばんの人気者。大胆不敵ながら人を歪んだ目線で見たりしない。子供と大人の間にあって、自分のアイデンティティの問題に悩んでいて、父親に捨てられたことで強い男としての自覚を持つようになった少年。表面的には滑稽で無礼に見えるが、心根が優しい子なのです」と、英国〈サフォーク・ライブラリーズ〉のインタビューに答えて彼の人物造型を自画自賛している。
そんなマニーの母親エレナと、彼女が付き合おうとしている相手で、最近になってこの町に流れ着いてきた自動車ディーラーのジャレッド。マニーの相棒の気弱なアベル。隣家に引っ越してきたばかりでマニーのガールフレンドとなり、彼を優しく受け止めるフラット――マニーをめぐるサイドストーリーが、作品を人間味あふれる芳醇なドラマに仕立て上げている。
そして、〈アヴェ・マリア〉の登場だ。
マニーと並んで愛すべきキャラクターが、写真館の助手を務める巨漢の青年ジェリー。素晴らしい写真の技術を持っていながら、生来の引っ込み思案と身体的なコンプレックスから、人と打ち解けることができずにいる。静かな闇を抱えている存在なのだ。ジェリーには、身体に腫瘍を抱え、おそらく認知症も患っている母親がいる。でたらめな料理を食べさせ、時として狂暴にもなり、彼に物を投げつけたりする。彼女をなだめるために、しばしばジェリーは聖歌隊に所属していた頃に憶えた〈アヴェ・マリア〉を子守歌代わりに歌ってあげる。その美しい歌声に聴きほれ母親が大人しくなるシーンは、涙ものに美しい。その歌声は、家の近くを通りがかるジェスやマニーの心にさえ、あたたかな希望を抱かせるのだった。
クリスマスの定番と思われがちな〈アヴェ・マリア〉は、その敬虔で厳かな旋律から(どのバージョンも)教会のミサや葬儀の場でも歌われる。自分としては、ジェリーの聴かせる〈アヴェ・マリア〉はシューベルト版ではないかと睨んでいる。映画『アンデスの聖餐(La odisea de los munecos)』(1975年)をベースにした映画『生きてこそ(Alive)』(1993年)でアーロン・ネヴィルが歌ったように、(それよりはるかに美しい)ハイトーンで。
『消えた子供』は失踪事件の謎をシンプルに描き切っている作品だけれど、似たタイプの失踪ものということで個人的に真っ先に思い浮かべるのは、クレイ・レイノルズの『消えた娘(The Vigil)』(1986年)だ。失踪した子供をひたすら待ち続ける母親というシンプルな構造の人間ドラマという点でも、共通点もかなり多いように思う。『消えた子供』の解説を手掛けた杉江松恋氏はヒラリー・ウォーに触れられていて、そのウォーの代表作のひとつ『失踪当時の服装は(Last Seen Wearing…)』(1952年)や、コリン・デクスター『キドリントンから消えた娘(Last Seen Wearing)』(1989年)も忘れるわけにはいかないだろう。失踪者の生死不明という問題が大きな争点とされることでは、本作も筋立てとしては違わないように思える。
さて、結果、本年度CWA賞ゴールド・ダガーの栄冠を勝ち取ったウィタカーの『It Begins at the End』だが、これまた田舎町を舞台にしつつ、より複雑さを増して読み応えのある人間ドラマとなっているようだ。13歳の少女・ダッチェスが、母親の若き日に親しかった友人たちとの邂逅により巻き起こる悲劇に、期せずして関わっていく物語とのこと。ハンナ・ティンティ『父を撃った12の銃弾(The Twelve lives of Samuel Hawley)』(2017年)の12歳の少女ルーやら、いま大人気マイケル・ロボサムの『天使と嘘(Good Girl, Bad Girl)』(2019年)の嘘を見抜ける少女イーヴィやら、ちょい遡ると、ネロ・ウルフ賞を受賞したディック・ロクティの『眠れぬ犬(Sleeping Dog)』(1985年)のセレンディピティ・ダールクィストだとかを想起させる、思春期ヒロインが魅力的な作品のようなので、邦訳が待ち遠しい。
その後、ウィタカーはすでに次作となる『The Forevers』(2021年)を発表している。やはり17歳の少女をヒロインに、ひと月後には小惑星との衝突で世界が終わるという状況を描いた近未来設定のヤング・アダルト作品だという。デビュー作からして魅力的なティーンエイジャーたちを描き出し、受賞作でも多感な時期の善悪もちあわせた複雑な性格の少女をみごとに造型してみせた手腕を、ここでも発揮しているにちがいない。世界の終わりという設定にも、やはり〈アヴェ・マリア〉は似合うような気がするけれど、いかがだろう? できればカッチーニ版で。
◆関連書籍
◆YouTube音源
■”All the Things You Are” by Chet Baker & Lars Glinn
*フリューゲルホルンでなくトランペットだが、チェット・ベイカーの演奏だと1959年のカルテットでの演奏が名演ながら、旋律がわかりやすいので1955年のこのライブ版を。
■”Ave Maria” by The Carpenters
*カーペンターズはアルバム『Christmas Portrait』(1978年)でバッハ作の〈アヴェ・マリア〉を取り上げている。
■”Ave Maria” by Stevie Wonder
*スティーヴィー・ワンダーはアルバム『Someday at Christmas』(1967年)でシューベルト作の〈アヴェ・マリア〉を取り上げ、その後もライヴでもときたま歌っているようだ。
■”Ave Maria” by Slava
*カウンターテナーの人気歌手スラヴァの代表曲でもあるカッチーニ版〈アヴェ・マリア〉。
◆関連DVD
■『死にゆく者への祈り』
■『スターリングラード』
■『生きてこそ』
■『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』
佐竹 裕(さたけ ゆう) |
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1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |