フランシス・フォード・コッポラ監督の代表作『地獄の黙示録(Apocalypse Now)』(1979年)のファイナルカット版が先頃公開されたこともあって、原案とされる海洋文学の雄ジョゼフ・コンラッドの古典『闇の奥Heart of Darkness)』(1899年)を再読してみた。
 
 語り手の船乗りマーロウが貿易会社の仕事を請け負って、クルツ氏なるカリスマ社員を連れ帰るためにコンゴ河の奥地にある“王国”へと船で向かう道行きの果てで、底知れない密林の恐怖と狂気に遭遇するという小説世界。それが、『地獄の黙示録』ではそっくりそのままベトナム戦争へと置き換えられている。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』さながら、言ってみれば曖昧模糊とした描写の昏い引力に搦めとられていくような感覚は、思春期に訳もわからず読んだときとまったく異なる効果を与えられた印象だった。
 
 当時の世相を反映して植民地支配などの社会批判を暗喩的に描いたものだとか、さまざまに勝手な解釈がなされたようだけど、その難解さゆえに、大人になってからの再読のおかげでそのあたりの奥深さにあらためて気づかされ(大人あるある!)、後世にその名を伝えられる名作・問題作とされてきたというのにも、ようやく頷けるようになったというわけです。
 
 そんな『闇の奥』をある意味原点として、自然の暗黒へと挑むかのように分け入っていく卑小な人間たちの足掻きを描いた小説は、いくつも発表されてきたわけなのだけれども、個人的にすぐ頭に浮かんできたのは、〈ホーンブロワー・シリーズ〉でおなじみ、海洋冒険小説の巨匠セシル・スコット・フォレスターの名作『アフリカの女王The African Queen)』(1935年)だった。
 
 もちろん、川下りの冒険行といったらマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険Adventures of Huckleberry Finn)』(1885年)なんて先達のイメージが強い人も多いだろうけど、子どもの頃に観た映画のせいで印象が強かったのだろう。映画ではたしか、兄の復讐のためにドイツ軍の砲艦への体当たり攻撃を決意するヒロインをキャサリン・ヘップバーンが、その案内役をハンフリー・ボガートが演じていた。ウランガの激流を小型蒸気船で乗り切る緊迫のシーンに加えて、もちろん二人きりの男女の道行きともなれば芽生える恋心など、冒険小説ファンをキュン死させるに足る要素に充ちていた。もちろんヒロインには大きな目的・目標があって、そのぶん、物語自体はすっきりと整頓されていた気がする。
 
 それでも、復讐という大義のためにとはいえ、体当たりをかまそうなどという発想がすでにして狂気に囚われているし、自然に阻まれながら死と直面しようという道行きは、川下り(+自然の脅威)・狂気(暴力)・死という、(少々強引ながら)いわば三題噺という点で、どこか『闇の奥』にも通じるものが感じられたのだった。


いつかぼくが帰る場所The Dog Stars)』(2012年)でデビューしたニューヨーク生まれの作家ピーター・ヘラーの第2作『燃える川The River)』(2019年)もまた、そんな三題噺を踏襲しつつ描かれた冒険サスペンスの逸品だ。とはいえ、一連のそういった冒険小説とは一風違った魅力を放っていて、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀長篇賞候補にノミネートされた。

 ダートマス大学へ通う親友同士のジャックとウィンが、夏秋の講義をあきらめ、バイト代で稼いだ資金をもとに、カナダ北東部で湖を渡って川を下るカヌー旅行に出かける。そこで大規模な山火事と遭遇するとともに、偶然にも夫に殺されかかった女性を救出したために夫に追われることに。急速に広がっていく山火事の脅威に怯えつつ夫の追撃をかわし、さらには道中で遭遇した二人組のテキサス人からの干渉も受けつつ、川下りを続けなければならなくなる。

 ――とまあ、いたってシンプルな内容ではあるのだけれども、その自然描写の臨場感たるや半端なく素晴らしい。書き出しからして、まずビジュアルでなく臭いから山火事の存在を描写していくリアルさ。山火事で火の燃え移った樹木は内部で樹液が煮えたって加圧され、木幹の小さな孔から燃えるような液となって吹き出し飛び散るとか、ちょうどいいリズムになるから悪態をつきながら木登りをすべし云々、細かな描写も生々しく、そのあたりは作者自身がカヤック旅でさまざまな地方を訪れた実体験が活かされているようだ。

 ジャックとウィンはそんじょそこらのアウトドア好きなんかよりはるかに経験豊富で自然の恐ろしさをきちんと警戒している。それでもなお、その身構えを凌駕するほどの猛威を自然はふるってきて、人間たちは自らの無力さを思い知るのだ。
 
 この『燃える川』の内容を知って、アメリカ南部の詩人ジェイムズ・ディッキーのデビュー小説となった『救い出されるDeliverance)』(1970年)を想起された方は多いかと思う。村上春樹氏と柴田元幸氏セレクトによる〈村上柴田翻訳堂〉のラインナップの一冊として復刊されたもので、その文庫化に際して邦題『わが心の川』が改題された作品だ。
 
 何不自由なく職に就き家庭も持っている、エド、ルイス、ボビー、ドルーの友人4人組が、カリスマ的な存在ルイスの提案でまもなくダムの底に沈んでしまうカフーラワシー川を下る計画を実行するのだけれども、現地の二人組に遭遇し思いも寄らぬ暴力に直面するというもの。
 
 1972年には『脱出』のタイトルで映画化されたことでも知られている。主演はバート・レイノルズ、ジョン・ボイト。映画は、ほぼ原作に沿ったつくりだったと記憶しているが、ディッキーは深みのあるルイスの役を粗野なレイノルズにキャスティングしたことに不満たらたらだったという。
 
 実際、『燃える川』『救い出される』に影響を受けているであろうことは、作中でも前半で「映画の『脱出』みたいに」とウィンに言わせている場面があることから想像に難くない。
 
 じつはこの2作を読み解くのに、前述の〈村上柴田翻訳堂〉の解説セッションでなるほどーな指摘がなされている。『闇の奥』では、根源悪や痛みの“みなもと”を求めて川を上っていくのに対して、『救い出される』では“救われる”ために川を下る、と。それは訳出された酒本雅之氏も指摘していることで、川下りに出かけること自体が退屈な日常からの“救い出される”こと、“日常からの脱出”といったことなのだと。それを思うと、ニューヨークのシンガー・ソングライター、ルパート・ホルムズの全米No.1ヒット曲「エスケイプ(Escape)」(1979年)もまた、退屈な恋愛生活から“救い出される”ことを夢見ての“エスケイプ(脱出)”だったのかと。
 
 その構図は、『燃える川』の親友2人がカヌー旅行へ出ていくのも同様なのかと思われる。けれどもじつは、『救い出される』『燃える川』とでは、主人公の成長の仕方が逆のベクトルに向いている気がしないでもない。いたってまっとうな普通の社会人だったエドは物語が進むにつれて、自然の非情さめいたものをも身につけた善悪を超えた存在となっていくのに対し、そもそもそんな超然とした人格であった青年ジャックは、この旅の終わりに親友の擁していた善良さ誠実さのようなものに包まれることになる。
 
 つねづねアメリカ南部の文学には、フラナリー・オコナーやカーソン・マッカラーズの作品に顕著なように、屈折した宗教的な諦念がつきまとっているという偏見を持っている自分としては、南部生まれであるディッキーのシニカルさとニューヨーカーであるヘラーの洗練との大きな違いが表面化したように思える。
 
 そんな2作を陰で支えているのが、音楽だ。

『燃える川』の献辞は、カウボーイソングを歌って聴かせてくれた父親に贈られていて、作中でも、主人公ジャックは作者と同じく父親に聴かされたとされる古いカウボーイソングをことあるごとに鼻歌で歌っていると書かれている。「ストリーツ・オブ・ラレード(Streets of Laredo)」に「リトル・ジョー・ザ・ラングラー(Little Joe the Wrangler)」、「バーバラ・アレン(Barbara Allen)」。

 カントリーミュージックというのはシンガーがテンガロンハットかぶって馬に乗っているイメージあるけれど、カウボーイソング=カントリーソングというわけでもなくて、言ってみたら数あるジャンルのほんの一部のようなのだ。

 アメリカ文化に精通する作家・東理夫氏の本に『アメリカは歌う。コンプリート版』(2019年)という大作がある。どのようにして現代のアメリカに歌という文化が根付いていったかがわかる大変な労作で、それによると、フォークソングやカントリーソングなどのアメリカの歌は、アイルランドやスコットランドといった国のフォークソングが口伝えに流布されていって変容したもので、ほんとにさまざまなジャンルがあることがわかる。

 作中、ジャックの影響を受けてウィンもまた自分でも気づかないうちに「リトル・ジョー・ザ・ラングラー」を口ずさんでしまう場面が後半にあって、そこで彼は何て悲しい曲だと思う。最後にはみんな死んでしまう、カウボーイソングは全部そんな感じだと。明るいメロディに悲しい歌詞。川下りの道行きが、いつしかジャックの持つこの諦念のような思いをウィンにも沁み込ませていったのか。物語の行く末を象徴するかのような歌の用い方だと思ってしまった。
 
『救い出される』のほうも、作者のディッキー自身がブルーグラスのギターを弾くというし、カヌー旅行に出る4人の友人たちの1人がギター弾きだってこともあって、こちらにもブルーグラスやカントリーの音楽が要所要所に顔を覗かせる。
 
 そんななか腹立たしかったのが、4人組の1人ドルーがギターの名手で、このカヌーの旅にマーチンを持って行くというところだ。マーチン・ギターといったら、USAのアコースティック・ギター最高峰。ここのD-28というモデルを手に入れるために吐くほどバイトしまくった若い頃を思い出す。そんなギターをまさかカヌーに積み込んで川下りとか、こいつ、ほんとに人生舐めてかかってやがる、と一瞬殺意芽生えました。はい。
 
 このドルーという人物はギター以外には取り柄のない普通人として描かれているのだけど、ゲイリー・デイヴィス、デイヴ・ヴァン・ロンク、マール・トラヴィス、ドック・ワトソンの演奏をお手本に、「樺の木の皮のカヌーに乗って(In My Birch-Bark Canoe)」、「エキスパート・タウン(Expert Town)」、「ロード・ベイトマン(Lord Bateman)」、ボブ・ディランも取り上げている「彼はぼくの友だちだった(He Was a Friend of Mine)」、ライトニン・ホプキンスでおなじみ「毛深い父ちゃん(Shaggy Dad)」、レドベリーの「気を楽に、トムさん(Easy, Mr. Tom)」といった、フォークやブルースの有名曲を大自然の中でみごとに演奏してみせる。
 
 とりわけ、川下りのスタート前に知り合ったバンジョー弾きのアルビノ少年とセッションするシーンなどは、状況が一変する前の平穏さの象徴であるかのように微笑ましい。それだけに以後の凄惨な冒険行との対比が痛々しく感じられてくる。
 
『燃える川』に登場する前述の3曲のうち、前2曲はもちろんカウボーイ・バラッドの有名曲なのだけど、「バーバラ・アレン」はちょいと異なる気がしないでもない。なにしろこちらは、自死をテーマにしているからなのです。

『アメリカは歌う。』によると、数多ある伝統的アメリカ音楽の中には、マーダー・バラッドなるジャンルもあるのだとか。ずばり殺人を克明に描いた詞の歌。その典型と言われ、オリビア・ニュートン・ジョンが1971年に取り上げてオーストラリアで大ヒットさせた「オハイオ河の岸辺で(Banks of Ohio)」という歌がある。さらにその元歌ではないかとされる「オーミー・ワイズ(Omie Wise)」にいたっては、1808年に実際に起きた殺人事件の真相まで明かしているものだとか。かなり細かな殺害方法まで歌った曲もあるらしく、マーダー・バラッドに関しては、また別の機会にじっくりと取り上げたいと思うのだけど、そのまた亜流として、自殺をテーマにした歌も数多くあって、「バーバラ・アレン」はそういう歌のひとつだという。
 
 マーダー・バラッドはというと(そして自殺の歌も)、「オーミー・ワイズ」以降いくつも歌われるようになるのだけど、川に突き落として殺したり死体を川に捨てたりというケースがとても多いのだそうだ。
 
 川と死――やはり想像もつかないような自然の結びつきがそこには秘められているのかも。

◆YouTube音源
■”Little Joe the Wrangler” by Marty Robbins

*マーティ・ロビンズ1965年録音の「リトル・ジョー・ザ・ラングラー」。カウボーイソングには、哀しい内容なのに明るい曲調のものが多い。

■”Barbara Allen” by Joan Baez

*フォークソングの女王ジョーン・バエズが歌う「バーバラ・アレン」。1740
年台からスコットランドで歌われ、宗教がらみでない曲でもっとも歌われている歌だという。

■”He Was a Friend of Mine” by Bob Dylan
*もともとは「Shorty George」というタイトルでも知られていた、トラディショナル・フォークの人気曲。『救い出される』のなかで4人組の1人がギターで奏でる。バーズやグレイトフル・デッドでもおなじみで、これはボブ・ディランのカバー。

◆関連CD
■『Cowboy Songs Four』Michael Martin Murphy

*1998年に発表された、マイケル・マーティン・マーフィーによる『カウボーイ・ソングス』第4集。「リトル・ジョー・ザ・ラングラー」を取り上げている。第1
集では「ストリーツ・オブ・ラレード」も演奏している。

■『The Columbia Studio Recordings (1964-1970)』Simon & Garfunkel

*サイモン&ガーファンクルのBOXセットCDには、「バーバラ・アレン」のデモ・ヴァージョンのカヴァーが収録されている。

◆関連映画・DVD・Blu-ray
■『地獄の黙示録』

*言わずと知れたコッポラ監督の代表作にして最大の異色作。

■『脱出』

*バート・レイノルズ、ジョン・ボイト主演、『救い出される』を原作とした1972年の映画化作品。

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。










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