全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

加藤:大阪の震災に遭われた皆様にはお見舞い申し上げます。一日も早い復興をお祈りするばかりです。
 そんななか、明るい話題で盛り上げてくれているのがFIFAワールドカップ。いやー熱い。面白い。さすが世界一のスポーツの祭典です。サッカーのいいところは、何と言ってもその分かりやすさですね。球技って、ルールを知った上でそれなりに上手くないと楽しめないものが多いけど、サッカーは無条件に楽しいのがいい。ラグビーファンとしては羨ましい限りです。

 さてさて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」。今回のお題は、ブライアン・フリーマントル著『消されかけた男』。1977年の作品です。

 冷戦時代の敏腕スパイ、英国情報部のチャーリー・マフィンも、今は40過ぎの中年。もともと現場主義でスマートさを欠き、名門校出身でないチャーリーは新任の部長から疎まれ、組織内の厄介者扱いされていた。そんなとき、以前チャーリーが逮捕したKGBの大物スパイ・ベレンコフの盟友カレーニン将軍が亡命を望んでいるという情報がはいる。しかし、この話に臭いところがあると感じたチャーリーは、慎重な対応を警告する……。

 著者のブライアン・フリーマントルは1936年生まれのイギリスの作家。中学卒業後、地元新聞社のメッセンジャーボーイとして働きながら17歳でロンドンの週刊紙の新聞記者となったという苦労人。幾つかの新聞社で勤めた後、メジャー紙デイリー・メイル在職中の1973年に『別れを告げに来た男』で作家デビュー。1975年からは国際関係の記事を専門とするジャーナリストとして活躍し、特派員として30カ国以上に滞在したそうです。
 フリーマントルは大変な多作家でスパイ小説やサスペンス小説を、名義を使い分けながら年1~2冊ペースで精力的に作品を発表し続けました。なかでも有名なのが、チャーリー・マフィンシリーズ。今回取り上げる『消されかけた男』はシリーズ第一作で、原題はそのまま『Charlie Muffin』です。
 本書が書かれた1977年はベトナム戦争も終わり、アメリカとソ連のデタント(緊張緩和)が進んでいた時期。東側諸国は以前のような鉄のカーテンの向こう側ではなく、まだまだ問題は多いとはいえ対話の相手となっていたのですね。ピンと来ない若い方々は、まさに今のアメリカと北朝鮮の関係を思い描けば分かりやすいかも。
 そんな時期に多く書かれたのが、「亡命」をテーマとしたスパイ小説です。この頃の亡命者の扱いは超デリケートだったことは想像に難くありません。そして諜報機関として見極めが必要とされるのが、その亡命は本物なのか偽装なのかということ。祖国での栄光を捨てて西側に渡る目的な何なのか。そもそも我々の自由主義・資本主義の世界は(自分たちがそう思うほど)魅力的なのか。

 さらに物語を複雑かつドラマチックにしているのは当時のイギリスと英国情報部の置かれた状況です。世界はアメリカとソ連の2大国時代。影響力や競争力を失った祖国の現状を認めるにはプライドが高すぎる鼻もちならないエリート揃いの英国情報部。一新された組織のなかで、冷戦時代を知る最後のひとりチャーリー・マフィンが(文字通り)生き残りをかけて孤軍奮闘する戦いの行方やいかに。そしてスパイ小説なのに最後にスカッとするのがフリーマントルの凄いところなのだ。ル・カレ先生もちょっとは見習ってほしい(嘘)。もう聞き飽きたと思うけど、あえて言わせていただきたい。フリーマントル半端ないって。

 ところで、今回フリーマントルのプロフィールを調べて分かったのが、不思議なくらいに賞に縁がないってこと。CWAやMWAの各賞はおろか、象印賞とかマゴマゴ賞すら貰った形跡を確認できませんでした。こんなに面白いのに意外です。(編集部註:マゴマゴ賞ってなんだよ?! と思ったみなさんは ☞ こちらを)
 畠山さんは『マゴベエ探偵団』見てた?

畠山:???……寡聞にして存じ上げませんが、それ、名古屋ローカルの番組じゃね?(はい、消えたー)

 本日お題のブライアン・フリーマントル。私はざっくりとフリーマントルのことを「“男”シリーズの人」と認識していたのですが、全てが同じシリーズというわけではないのですね。デビューからの4作『別れを告げに来た男』『収容所から出された男』『明日を望んだ男』『11月の男』はそれぞれ独立したお話で、5作目の『消されかけた男』がチャーリー・マフィンシリーズのスタート。以降もチャーリー・マフィンじゃなくても「男」のつくタイトルがあるし、逆にチャーリー・マフィンでも「男」がつかないタイトルもあるので要チェキです。

 さてさて肝心の内容はと言いますと、スパイものということで、鶏にも軽蔑されそうな私の脳みそがどこまで複雑な構図についていけるかと少々身構えていたんですが、全くの杞憂でした。ストーリーも登場人物もわかりやすく、かつ刺激的、いや~楽しかった。
 主人公がチャーリー・マフィンなんてカワイイ名前のくせに、やることはなかなかひねくれてる。腕利きの情報部員でありながら、新世代の上司や部下に疎まれて隅に追いやられ、すっかり尾羽打ち枯らし……と見せかけて、要所要所で実力の違いを見せつけるんです。読みながらつい小さなガッツポーズがでました。
 普段職場で上司にムカムカ、部下にイライラしている方の憂さ晴らしには、もってこいの逸品でございましょう。

 ああそうそう、「無能な上司と無能な部下」というフレーズにハッとなる、主に私と同世代の女子がいるのではないでしょうか。そうですよ、漫画『エロイカより愛をこめて』ですよ!
 あの漫画ではNATOや英国情報部の面々にたくさんの「無能」がでてきて、主役の足を引っ張りまくるんですよね。敵は内にあり、といったところ。
 チャーリー・マフィンもまさしくそんな状態なのです。無能な上司の見当違いの方針、無能な部下の絵に描いたような失態……頼むからオマエら、なにもしないでくれ! てか、オレの背中を撃つな! と言いたくなる中で、虎視眈々と生き残りの道を探る姿に、我知らずおっさん萌えをしてしまいました。

 情報部の中では「終わった人」のように扱われているチャーリー・マフィンですが、この作品ではまだ41歳。枯れる歳ではないし、しょぼくれいているようで、ちゃっかり奔放な愛人がいたりする(そしてそこそこ艶っぽいシーンがある)のです。
 ル・カレ作品のジョージ・スマイリーとはちょっと違うよね。

加藤:そうか、マゴベエ探偵団って全国的に知られているわけではないのか。考えてみたら、小学校、中学校の頃は全く本を読まなかった僕の最初のミステリー体験はコレかもしれない。ひょっとして「お笑いマンガ道場」も盛り上がってたのは中部地方だけ? そんな話は名古屋読書会の2次会でしろ? はい、すみません。

 さて、MI6として知られる英国情報部(SIS)の3大スパイといえば、フレミングのジェームズ・ボンド、ル・カレのジョージ・スマイリー、そしてフリーマントルのチャーリー・マフィンということになるのではないでしょうか。でも、その3人とも随分キャラが違って面白い。
 チャーリー・マフィンは、どちらかといえば派手な007系ではなくて、ル・カレの系統だと思っていたけど、案外そうでもないって気がしてきます。むしろ全体としてはハラハラドキドキ、最後にスカッとなので、007系に近いのかも。
 実際、本書『消されかけた男』はプロローグからして、ル・カレとは随分違うのに気づくと思います。例えるならば映画『007』や『ミッション・インポッシブル』の最初の10分。ワクワクするような劇的なショートストーリーで幕を開けます。そして、それは本作のタイトルそのものであり、その後の物語やチャーリー・マフィンというキャラ、また彼を取り巻く環境を全て説明する素晴らしいプロローグなのですね。まずは、ここだけでも読んでほしい。そうすれば最後まで読まずにいられなくなるから。

 ちなみにフリーマントル(そろそろフリマンって略してもいいですか? だめ?)のデビュー作『別れを告げに来た男』も本作と同じく「亡命」がテーマのスパイ小説。内務省の役人である主人公が、世界的な宇宙ロケット学者であるソ連の科学者の亡命に疑問を抱くという内容。こちらも超面白いというか、スパイ小説史に残る傑作なので是非ご一読を。

 リアルな情報戦を描くスパイ小説でありながら、スカッとした読後感がフリーマントルの(少なくとも初期の)持ち味。その上、とても分かりやすく読みやすいので、ル・カレでつまずいて、「スパイ小説無理」って思っている人にも挑戦してほしいですね。
 さまざまな理不尽や、外と内からの度重なる妨害にひたすら耐える不屈の主人公。しかし、ただ耐えるだけでなく常に次の手を考え、準備し裏で実行しながら、緊張感マックスで最後の舞台へ! まさに池井戸潤の世界。
 物語を現代日本に翻案して映像化すれば絶対にウケるに違いないと思えるスカッとした物語。是非!(遠藤憲一)

畠山:「お笑いマンガ道場」は見てましたよ。川島なお美さんの絵が上手だったんだよね。でも芸能人の絵心といえば、ずうとるび江藤さんの「どんな動物にも眉毛」が破壊力満点だったなぁ。あれは「凸凹大学校」だったっけ?(そろそろ誰か止めて)

「映像化」の言葉で気になって少々ググってみたのですが、フリーマントルは賞だけでなく、映像にも縁がなかったみたいですね。少なくとも手軽に視聴できるものはなさそう。
 加藤さんの言うように「倍返し」的な面白さもあるし、キャラも立ってるし、果たして亡命は成功するのか!? というクライマックスシーンは、映画『ブリッジ・オブ・スパイ』さながらで、手に汗握りました。映像化に向いてると思うのに不思議です。
 派手すぎるジェームズ・ボンドと地味すぎるジョージ・スマイリーの中間で、損な役回りになったとか? だとしたらちょっと気の毒。
 組織人でありながら組織と距離を置かざるをえず、ひとつの判断が世界情勢に大きく影響をする案件の中で、どうやって個としての自分を守るのか。チャーリー・マフィンの信念のありかはどこなのか。このひねくれ者の中年男は最後まで読者を惹きつけ続けます。

 そして大変わかりやすい描き方でありながら、コン・ゲームとしてのスパイ小説の醍醐味も全く損なわれていません。読者も頭脳戦の参加者としてたっぷり楽しめます!
 元気よく告白しますが、私もまたチャーリー・マフィンの撒いた餌に食いついて、ものの見事に罠に引っかかった間抜けの一人です!
 敵味方入り乱れてのシーソーゲームのハラハラ感はもちろん、無駄なく張り巡らされた伏線に気づかされた時の気持ちよさはたまりませんね。
 何気ない描写の中にチャーリー・マフィンの周到な計算がいかに含まれていたかことか! ただただ感心、そしてコイツは絶対次もやってくれると、大きな期待をもって読み終わりました。

 チャーリー・マフィンシリーズを読み進めたくもあるし、加藤さん激推しの処女作『別れを告げに来た男』も読んでみたい。本サイトの「初心者のためのブライアン・フリーマントル入門」で、筆者の古山裕樹さんも、フリーマントル未読ならまずは『別れを告げに来た男』をどうぞ、と推薦なさっていますね。すでに絶版なのは悲しいですが、古本屋巡りを楽しむのもいいでしょう。

 で、で、でも古本屋めぐりは明日以降にしましょ。今夜は大一番です!
 ボロクソだった前評判を文字通り「蹴散らす」日本代表の健闘。ポーランド戦に勝って、きっちり「倍返し」をキメてもらいたい!明日は寝不足間違いなしです。一夜のムリが一週間祟るご同輩、できれば早めに帰って仮眠をとりましょう。
 グループリーグ突破に向けて、頑張れNIPPON!

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 ブライアン・フリーマントル最大の功績は、現代ミステリーの重要な定型を作ったことではないかと考えています。読者を小説内世界に引き込んでおき、その中で起きていることはすべてありのままに見せていく。そうしたフェアプレイの精神で物語を叙述しておきながら、最後の最後でありえない逆転を起こし、小説全体の意味を引っくり返してしまう。チャーリー・マフィンものを含む初期作品でフリーマントルは、そうした奇術的なプロットを用いたのでした。しかもそれが、チャーリー・マフィンのような一個人によって引き起こされる。世界の転覆という巨大な出来事を可能とするキャラクターを小説内で確立すること。それこそがフリーマントルが成し遂げた偉業なのです。スパイ小説というジャンルに限定せず、この作家を評価すべき点だと私は考えます。1980年代はミステリー界にキャラクター小説という軸が確立された時期でした。その嚆矢となった一人がフリーマントルだったのです。

 フリーマントルがデビューした1970年代半ばは、以前として堅固な冷戦構造が存在し、十数年後に訪れる世界的な変化の兆しさえ見えない状況でした。しかし1960年代のキム・フィルビー事件を含むスキャンダルによって英国諜報部の体制的な揺らぎは明らかになっており、アメリカ合衆国はベトナム戦争の失敗による見えない退潮が始まっていました。1960年代までのような、白黒の陣営が明確な冒険物語は倦まれ、そもそも自分は何と闘っているのか、とスパイ主人公たちが自身に問わなければ存在すら難しくなっていた時期です。自らが生き残るために闘い続けるチャーリー・マフィンは、時代の申し子というべき主人公でした。シリーズの中で彼の立ち位置は少しずつ変化していくのですが、それでも色褪せることがないのは、いつでも世界を転覆しうる機智が彼には備わっているという認識が読者に共通のものとしてあるからでしょう。フリーマントル出現以降のキャラクター小説化したミステリーでは、マフィンのような信頼感を伴わないヒーローは、存在自体が難しくなっていきます。キャラクターの祖型として彼が重要である所以です。

 さて、次回はジョン・スラディック『見えないグリーン』ですね。こちらも楽しみにしております。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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