昨年末にジャズ・ピアニストの佐山雅弘氏が逝去されていた。ご冥福をお祈りします。熱心なファンというわけではなかったけれどその活躍ぶりは存じあげていたし、一度だけ、作家の方にお声をかけていただき佐山氏のピアノ独奏会を聴きに行ったことがある。なんと、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750年)の『ゴルトベルク変奏曲』を全篇弾きたおすという試み。音楽オタクを任じていながらクラシックだけは遠巻きに見守ってきた小生としては、その曲芸のごとき超絶技巧にただただ圧倒されてしまったのを記憶している。
以来「ゴルトベルク変奏曲」は、自分としてはクラシックの中でも特別なものと位置付けてきた。もちろん、トマス・ハリスの生みだした世紀の天才殺人鬼ハンニバル・レクターが、グレン・グールドの弾くこの楽曲を愛してやまないというのはつとに有名なわけだけれど、佐山氏のたおやかでいて熱い演奏が目と耳に焼きついていたこともあって、『羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)』(1988年)で刑務官を殺害してレクターが逃亡するシーンなんかでも、佐山版のパフォーマンスが脳裏を横ぎってしまう。クラシック・ファンからしたら、とはいえジャズからのアプローチでしょ、と言われちゃうかもしれませんが。
というわけで、トマス・ハリスです。
映画化もされ話題となったデビュー作『ブラック・サンデー(Black Sunday)』(1975年)こそ無差別テロを題材とした謀略サスペンスものだったけれど、第2作にして、前述のハンニバル・レクターという特異なキャラクターを登場させたサイコ・サスペンスの一大傑作『レッド・ドラゴン(Red Dragon)』(1981年)を書き上げる。続く『羊たちの沈黙』でも連続殺人犯特定の鍵を握る重要な役どころにレクターを配し、前作に勝るとも劣らぬ完成度へと高め、これまたベストセラーに。さらに、『ハンニバル(Hannibal)』(1999年)、『ハンニバル・ライジング(Hannibal Rising)』(2006年)と、レクター博士が登場するサイコ・サスペンスのシリーズを書き継ぎ、その人気を不動のものにした。
記憶の中に千もの部屋を持つ宮殿を構築しているレクター博士。数々の陰惨な殺人、そしてカニバリズムとともに、その〝記憶の宮殿〟も印象的だった(そのあたりについては、リチャード・マクドナルドの『ハンニバル・レクター博士の記憶の宮殿(Dr. Hannibal Study)』(2000年)に詳しいのでご参照を)。レクターの高貴な趣味嗜好は、このシリーズを通してのひとつの読みどころだったりもするのだけど、端的なのが『ゴルトベルク変奏曲』への盲愛である。『羊たちの沈黙』では、連続殺人犯バッファロウ・ビルに愛娘を誘拐されたマーティン上院議員との情報取引で、条件のひとつとしてグレン・グールドの演奏するこの曲のカセット・テープを要求。この作品の見せ場のひとつ、刑務官を殺害してすり替わるレクターの逃亡劇の場面で流れることになる。そして、アメリカへと戻り落ち着くことになる新居での優雅な晩餐のシーンでもやはりこの曲の第二変奏が。
そもそもバッハ自身名付けたタイトルは“2段鍵盤付クラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏”であったこの練習曲、ピアノ演奏が主流となってからも20世紀以降まであまり演奏されなかった曲だそうです。人気を確立したのも、グールドの1956年デビュー盤となるレコードでの演奏が大ヒットしたことが大きかったらしい。
「ゴルトベルク変奏曲」という通称は、バッハの教え子ゴルトベルクが、不眠症に悩む伯爵のために演奏したという逸話がもとになっているというけれど、それすら怪しいとされている。
そんな『ゴルトベルク変奏曲』、じつはバッハが私淑し教えを乞うていた作曲家ディートリヒ・ブクステフーデ(1637~1707年)の『アリア「カプリッチョーサ」と32の変奏(Aria : La Capricciosa)』に、構成・主題ともに大きく影響されているという。つまり、パクリとは言わないまでもリスペクトといったところなのだろう。さらにさらに、ブクステフーデもまた、当時流行していた曲や俗謡を基にしていたとのこと。ビートルズの「ビコーズ(Because)」がベートーヴェンのピアノソナタ「月光(Moonlight Sonata)」をもとネタにしていて、さらにそれがショパンの「幻想即興曲(Fantasie Impromptu)」の出だしに影響を与えてもいるみたいな。
『羊たちの沈黙』にはレクターが愛してやまない楽曲がもう1曲出てくる。ヘンリー8世の作曲した「まことの愛に(If Love Now Reynyd)」だ。同じくアメリカでの新居にて聴き、そして、あまりに有名なラストの〝特別な晩餐〟前に、レクターがクラリスに弾いて聴かせたもの。クラリスは曲名を聞き、再度弾いてほしいとねだる。
ここでヘンリー8世の楽曲というチョイスをすることにも、ハリスの秘かなこだわりが、それでいて強く強く感じられる。イングランド国王ヘンリー8世という人物、数カ国語を話しイングランド王室史上最高のインテリとされ、武術にも秀でていたというけれど、6度結婚し、自身の離婚問題に関連して前妻アン・ブーリンを処刑したり宗教改革に乗り出すなど、強引で身勝手な統治で知られている。しかもそんな人物のつくった「まことの愛に」ですから。
かように音楽に拘泥するトマス・ハリス。『ハンニバル・ライジング』以来13年ぶりに発表された新作『カリ・モーラ(Cari Mora)』(2019年)でもそれは変わらないだろうか。
『ハンニバル・ライジング』で天才殺人鬼の過去を掘り下げたことのよって、ハンニバル・レクターのサーガにいったんは終止符を打ち、その呪縛から解き放たれたハリスは、肩の力が抜けたといっていいクライム・ノヴェルを新作として届けてくれた。一読、『ラブラバ(La Brava)』(1983年)や『ゲット・ショーティ(Get Shorty)』(1990年)のエルモア・レナードかと思わせる軽快かつスマートな作風の犯罪サスペンスである。何にしろ44年の作家生活で6冊! 恐るべき寡作ぶりである。ファンは心待ちにしていたことだろう。
物語の舞台は、アメリカはフロリダ州のマイアミ・ビーチ。ヒロインは、獣医を志すコロンビア移民で、かつて少女時代に反政府左翼ゲリラFARCに所属していた過去を持つ、若く美しい女性カリ・モーラだ。
彼女が管理を請け負っている邸宅は亡くなった麻薬王エスコバルの所有するもので、その地下に据えられた巨大金庫の中には時価2,500万ドルもの金塊が眠っている。この巨万の富をめぐって、コロンビア犯罪組織のボスであるドン・エルネストと臓器密売商ハンス・ペーター・シュナイダーの2つ陣営が熾烈な争いを繰り広げていく。ただし、この金庫には仕掛けが施されていて、うかつに開けようとすると四方八方を吹き飛ばすほどの爆薬が仕掛けてあり、それを回避する方法を知っているのは死にかけている老人ただ一人だった。双方ともに老人を懐柔しようとする一方で、ハンス一派は強硬手段で邸宅へ乗り込み金庫ごと運び出してしまおうとする。
カリが憎からず思っていた青年アントニオは、彼女に見張りを頼んでこの怪しい集団に探りを入れようとするが、見つかって惨殺されてしまう。アントニオの首のない死体を目にしたカリはハンス一派の男2人を殺し、その場を立ち去る。さらにエスコバル一味の残党や悪徳弁護士までもが大金の匂いに引き寄せられ、かくして金塊略奪ゲームは泥仕合の様相を呈していく。
まさにレナード作品の薫りふんぷんで、悪党一人ひとりにいたるまで造形がいい。とりわけ全身無毛の猟奇殺人者であるハンスのキャラクターが特濃。商売にならなかった遺体を溶解する人体液化装置を眺めながら「雨に唄えば(Singing in the Rain)」を歌う。『ハンニバル』に登場するレクターの宿敵メイスン・ヴァージャーを思い起こさせるほどに、残忍で執拗な狂人だ。カリに異常な執着心を抱くこの男が、何度となくドイツ語で口ずさむのが、ドイツの俗謡「酸っぱいキャベツと蕪がおれを追い出そうとしている」。変わったタイトルの歌だけど、なんと、これは『ゴルトベルク変奏曲』の一部に旋律が使われているもの(きたきたーっ。ハリスのゴルトベルク愛!)。今回は一歩踏み込んで、ゴルトベルクのもとネタだってわかってますよ、とばかりの登場のさせ方なのである。
そう、『ゴルトベルク変奏曲』の最終変奏「クオドリベット」の主題に用いられ、おそらくはブクステフーデもまたそこからとったと言われている俗謡。そしてそして、これはまた「ベルガマスカ」というイタリアはベルガモ地方起源の2拍子の舞曲の主題と同じものらしい。
ちなみに、『ハンニバル・ライジング』の訳者・高見浩氏による解説では、第1稿では『ハンニバル変奏曲(Hannibal Variations)』というタイトルだったとのこと。『ゴルトベルク変奏曲(Goldberg Variations)』をもじったものであることは明らかだ。ハリスの並々ならぬ執着がここにも見られて興味深い。
コール・ポーターのスタンダード・ナンバーやバート・バカラックのバラードなど、美しく情緒的な曲も何度か流れてくるのだけど、今回はコロンビア・マフィアがらみの犯罪ものということもあって、フアネスやシャキーラといったラテン系のコンテンポラリー・アーティストの名前もちらほらと垣間見える。
思えば、『ブラック・サンデー』でのテロの首謀者となるパレスチナ・ゲリラの戦闘員ダーリア・イヤドのような強いヒロインを描きたいと言って、ハリスは『羊たちの沈黙』にもFBI訓練生クラリス・スターリングを登場させた。そこにいったんのピリオドを打ったとはいえ、ヒロイン嗜好は治まらず、最新作でも、タイトルにしちゃうほど惚れ込んでる新たなヒロインを生み出してしまった。この1作で終わるとは思えません。肩の力が抜けたように感じたのは、あくまでも『カリ・モーラ』が、このヒロインをめぐる新たなサーガの序章にすぎないからだと、そんな印象を抱いた読者は小生だけではないはず。個人的には最高傑作と思っている『レッド・ドラゴン』だけが、ハリス好みのヒロインものではなかったということになる。ヒロインへの執着、音楽への執着、ハリスこそ、彼の生み出す異常者たちに負けず劣らず執拗な偏愛のかたまりなのではないか。
◆YouTube音源
■”Bach: Goldberg Variations” by Glenn Gould
*グレン・グールドのデビュー盤として1955年に録音された演奏は大ヒットした。
■”Sonate, arie et correnti, Book 3: Aria sopra, “La Bergamasca” by Giuliano Carmignola
*マルコ・ウッチェリーニ作曲の初期バロック曲「ベルガマスカ」。『ゴルトベルク変奏曲』の最終変奏に使われている俗謡「酸っぱいキャベツと蕪がおれを追い出そうとしている」の主題はここから。
◆関連CD
■『J・S・バッハ:ゴールドベルク変奏曲』グレン・グールド
◆関連DVD・Blu-ray
■『ブラック・サンデー』
■『刑事グラハム 凍りついた欲望』
■『レッド・ドラゴン』
■『羊たちの沈黙』
■『ハンニバル』
■『ハンニバル・ライジング』
佐竹 裕(さたけ ゆう) |
---|
1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。 |