——前にもきいた気がするんですけど忘れたのでもう一度。自分が訳したキングの作品のなかでいちばん好きなのは——

白石 (即答)『アトランティスのこころ』。長篇の長さがある第一部にくわえて、長さも主人公もさまざまな中短篇が組みあわされた変則的な構成で、見た目はちょっととっつきがわるいかもしれないけれど、ぜひとも多くの人に読んでほしいな、と。映画になったのは第一部だけ。この第一部単体だけでもすばらしい出来だと思うけれど、それにつづくヴェトナム戦争中の大学生の物語や前線での物語などなど、すべてのエピソードがひとつに収束するラストシーンは、キングの作品のなかでも屈指の「美しさ」じゃないかと思う。ぜひともプラターズの下の曲を聞きながら読んでほしい。オーディオブックス版にも、ラストシーンでちゃんとBGMとして収録されているんだよね。

——ずっと気になってたんですが、どうして『アトランティスのこころ』と「心」をわざわざひらがなにしたんですか? 

白石 そのタイトルでの映画公開が先に決まっていたから版元があわせただけ。ふつうエンターテインメント系の翻訳書の場合は、訳者と直接の担当者だけでなく編集部全体や営業部の人、いろいろな人が話しあって決めるケースがほとんどだけど、『アトランティスのこころ』は映画先行で邦題が決まったケース。Hearts は、直接的には第2部の大学生パートに出てくるトランプ・ゲームのハーツのことだし、作品全体を見れば「すでに消え去った場所に存在していた種々の思い」という意味でもあるだろうけど。

——(拍子ぬけした顔で)わりと単純な理由だったんですね。

白石 この作品も〈ダーク・タワー〉世界とつながりがあるのは周知のとおりだけど、それはテッド・ブローティガンとロウ・メンの出てくる第1部だけじゃなく、第1部の主人公ボビーの初恋の少女、観覧車でのファーストキスの相手で、第2部で大学生として出てくるキャロルと縁浅からぬ男の名前のイニシャルがRF、つまりランドール・フラッグの化身のひとつだとか——

——という話は、風間賢二さんがどこかでお書きじゃなかったでしたっけ。それでは……ええと、訳すのがむずかしかった作品は?

白石 どれも大変だったけど、いちばん大変だったのは『リーシーの物語』かな。物語そのものが重層的というか、時間軸をあっちいったりこっちいったりしている。ちがう文脈で同一の単語や表現がくりかえしつかわれて作品内エコー効果を出したり、あるいは主人公とその夫のあいだでだけつかわれる「夫婦語」が多出したり、キングならではの細工がほどこされていて、日本語で再現するのに再校までじたばた悩んだおぼろげな記憶が。

——(本をめくりながら)この本の「訳者あとがき」で、翻訳中だか校正中に発見したことをうれしそうに書いてましたね。主人公リーシーの意識をよぎっていく詩と、決め文句の「ブール、おしまい!」のことです。これも、もうおぼろげな記憶ですか? 正解を書いてないので、あとがきを書いたときにはすでに忘れていたんじゃないかという疑惑も一部にはあるみたいで。

白石 発見というより海外のサイトで教えられたことで、そのふたつはちゃんと覚えてる。直接物語には関係ない部分だけど、いちおうここから〈反転開始〉しておくと、詩は下巻冒頭に出てくる。主人公の亡夫のスコット・ランドン作とあるけれど、念のためにネットで検索したら、1977年発表の『シャイニング』でジャックの頭に浮かんでくるかたちで初登場だということがわかってびっくり。そちらでは作者不詳だったのが、約30年後の『リーシーの物語』ではじめてリーシーの亡夫で作家のスコット・ランドン作だとわかったわけ。〈反転終了〉

 あの作品を読んだ人なら忘れがたい「ブール、おしまい!」の文句についていうなら、これにも前例があって〈反転開始〉あの〈ダーク・タワー〉シリーズの第4巻『魔道師と水晶球』がおそらく初出。1997年の時点ですでにキングの頭のなかにこの文句があり、〈反転終了〉約十年後に『リーシーの物語』に結実した、と。

——ふーん。たまには訳しおえたあとで覚えていることもあるんですね。

白石 たまにはね。ただこれについていえば、ぼくよりもずっとくわしいファンの人にはわかりきった話だろうし、そういうのを自分で探すのが楽しいという人もいると思ってね。それこそ、〈ブール狩り〉みたいなもので。

——ところで、やたらに長いという噂の『アンダー・ザ・ドーム』なんですが、予定どおり4月中には本屋さんにならぶんですか?

白石 翻訳でも訳者校正でも無理いってスケジュールを引っぱったので、担当さんはじめ版元の方にはご迷惑をおかけしました。でももう再校のゲラの作業もおわり、あとがきも書きおわったので、ひと息ついたところ。

——また〈19〉の話のたぐいで枚数を稼いだんでしょ?

白石 書いてないよ。『アンダー・ザ・ドーム』にもいくつかの数字を足すと〈19〉になる箇所はあるけれど、〈ダーク・タワー〉を頂点とするキング・ワールドとのリンクはそれほど多くない……と思う。地名でキャッスルロックやノールウェイ・サウス‐パリやデリーが出てきたり、『ドリームキャッチャー』に出てきたディープカット・ロードという道路が出てきたり、一回しか出てこない人物のひとりにチャーマーズ姓をもった人がいて、関節炎をわずらっているポリーの親戚かな……と思ったりしたけど、直接の記述はないな。キャッスルロックのダイナーとして店名が出ている店も、調べたかぎり初出のようだった。悪役もイニシャルはRFではないしね。あ、「霧」で出てきて、映画〈ミスト〉でもつかわれていた聖書とエリオットの『荒地』をつきあわせた文句がひょいと出てきているのは、校正中にやっと発見したんだっけ。でも、これはリンクというほどではない。

——正体不明の〈ドーム〉で、ひとつの町が世界から孤立してしまうというストーリーだときいてますけど、なんでも〈ザ・シンプソンズ MOVIE〉との類似が指摘されているとか。

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白石 アイデアだけをとりだすなら、小松左京の「物体O」とか『首都消失』のような前例もあるから、偶然の類似にとどまると思う。そもそも、この作品の場合には〈ドーム〉はあくまでも出発点で、たとえば中篇「霧」がそうだったように、主眼はあくまでもキングらしい「周囲から切り離された閉鎖空間で人々がなにを考え、なにを思い、どう行動したか」だからね。キング自身が公式サイトで述べていたことだけど、このアイデアで過去に二回書きかけては中断していた作品があった。ひとつは、「著者あとがき」で書かれているとおり『ドーム』の最初の章「飛行機とウッドチャック」で、もうひとつは The Cannibals という作品。公式サイトでタイプ原稿の PDF ファイルが公開されてる(リンクはこちら)。

——アメリカでは発売にあわせてネットでもイベントがあったんじゃなかったでしたっけ? わたしまで記憶がおぼろげになっているんですけど。

白石 チェスターズミルの町の公式サイトができたりね。しかも、そこから町の警察などの公的組織や新聞社、本文に登場する商店やレストランのサイトにも飛べる。本文を読みおえたあとでデパート〈バーピーズ〉のサイトの取扱商品欄をながめるとおもしろいよ。愛すべきわれらがジョー・マクラッチーくんのブログツイッター・アカウントもあったなあ。キングの公式サイト内にもうけられた『アンダー・ザ・ドーム』特設コーナーや、版元の特設サイトでは〈ドームの日〉、すなわち発売日までのカウントダウン・ウィジットが配付されたりカバー絵がじょじょに公開されたりしていたっけ(そのうち・どちらも1920×922 px のjpgファイル)。それ以外のコンテンツもまだ見られるみたい。テレビのコマーシャルも制作された。キングのインタビューや朗読、チェスターズミルのカラー地図ともども、Amazon.com の該当ページで見られるし、Youtubeでも見られるよ。

——いまさらですけど、前回の最後でちょこっと話が出た、作品に登場するほかの小説や映画の話、つづけます?

白石 まず聖書の引用は多いけど、現実世界の聖書とは微妙に文言が異なっている場合が少しだけあって、それについては作家の意図だろうとそのままにしてある。それ以外の作家や作品の名前は読んでもらうとして、前に「翻訳ミステリー長屋かわら版」第7号で書いた『楡の葉のそよぐ町』のグレース・メタリアスの名前が出てくるのは興味深いよね。

——どっこいしょ(原書をもちあげて、最初のほうをひらきながら)。あ、ちゃんと親切に登場人物表がついているんですね。原書では珍しい。

白石 たしかに珍しいかも。原書の人物表は(「主要な犬」三頭を入れて)66 の名前がリストアップされている。それ以外に訳している最中や校正にあたって、本文で名前だけが言及されている人物まで含めて(ただし実在の歌手やキャスターなどの名前は省いて)どんどんメモしていったら176人になった。まだメモのとり忘れがあるかもしれないな。でも、登場人物が多くてもキングの描きわけが巧みだし、そのうえ読みだしたらやめられない超一級のエンターテインメントに仕上がっているから、カタカナ名前が苦手な人にもぜったいにおもしろく読んでもらえると思うな。

——上下二冊の邦訳版も重いので、腕の筋肉の鍛練にもなりますね。いろいろありがとうございました。まだ話したりないこともあるでしょうけど、どうせあまり興味をもってもらえないトリビアだと思うので、きょうはこのへんで——

白石 (原書のいちばんうしろ、著者あとがきの部分をながめながら)あっ! ここに名前が出ている義理の娘さんのリアノーラ・レグランドって、ジョー・ヒルの奥さんだという話はしたっけ? リアノーラさん、キング親子の作品を刊行前に読めるのか。うらやましい。

——そんな話はともかく、この作品にかまけていて、ほかの翻訳進行中の作品に影響が出ているという話も小耳にはさんだんですが、どうせならそのあたりもちゃんと話を——

白石 (すかさず席から立ちあがり、あとずさりながら)こちらこそおしゃべりにつきあってくれてありがとう。では、『アンダー・ザ・ドーム』冒頭に歌詞がかかげられ、本文内でも登場するこの曲をききながら、お別れしましょう。三回にわたってのおつきあい、ありがとうございました。

白石 朗(しらいしろう)1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、いまなおワープロソフト「松」でキング、グリシャム、デミル等の作品を翻訳。最近刊はマルティニ『策謀の法廷』。ツイッターアカウント@R_SRIS

白石(インタビュアーが帰ったあとでこっそり顔を出して)文藝春秋のPR誌〈本の話〉5月号には、『今日の早川さん』の作者 cocoさん による『アンダー・ザ・ドーム』紹介が掲載の予定です。もちろん早川さん出張版つき。こちらもお楽しみに。