猫……そうか。猫か。

 ペットに猫を飼っている主人公はいたけど題名に「猫」ってピックアップされた小説はこのコーナーじゃ初めてでないかしらん?

 というわけで今回のお題は『町でいちばん賢い猫—トラ猫ミセス・マーフィ』 (ハヤカワ・ミステリ文庫)リタ・メイ・ブラウン, スニーキー・パイ・ブラウンでございます。なんか……なんていうか……リタ・メイ・ブラウン……よく聞く名前な気はするけど。リリアン・J・ブラウン共々お噂はかねがね、という感じですか*1

【あらすじ】

 トラ猫ミセス・マーフィーとコーギー犬タッカーの飼い主ハリーはクロゼットという小さな町の郵便局長である。郵便局は毎日毎日、様々な住人が郵便の受取りついでに訪れて、よもやま話をしては去っていく町の社交場だ。今日の話題は町長の娘リトル・マリリンの結婚式と郵便局の目の前で起きたケリーとボブの諍いのこと。だがその翌日、話題の人物の一人だったケリーがコンクリート・ミキサーの中でバラバラ死体となって発見される。これで事件は終わらず、殺人予告の絵はがきとともに第二の犠牲者が現れ、さらには絵はがきの謎に気づいたハリー自身が狙われることに。ハリーとその飼猫ミセス・マーフィーは、人間と猫の立場からそれぞれ調査に乗り出した。

 感想の前にちょっとモゴモゴと。えーとですねー、こんなに登場人物名を覚えられない小説、久々に読みましたよ。ホントに。

 そう、で、思ったわけですよ。翻訳ミステリ(に限らず翻訳物)を読まないor読めないことによく挙げられる理由として「カタカナの名前なんて覚えらんなーい」というのがあります。聞いたことない? いや、本当にいるのですよ。私の友人にもいます。

 そりゃあ、カタカナの名前は文字列として慣れていないので覚えにくいという理由ももちろんあると思う。……思うのだけれど私個人の考えとしてはそういうことじゃないんじゃないかなーと。だっておめー、アムロだってシャアだってカタカナじゃねーかと。ガンダムだってカタカナじゃねーかと。日本一売れているという漫画『ワンピース』の登場人物はルフィもゾロもナミもチョッパーもロビンもその他もろもろみんなまとめてカタカナじゃねーかと。巷にカタカナの名前は溢れかえってるわけですよ。だからまあ翻訳物の名前の覚えにくさというのはカタカナという以外の何か——また別のことに原因があるに違いないのだ。まあ例えば本書のように、欧米では時によってハリスティーンがハリーと呼ばれるように本名と愛称が入り混じったりするのも一因なのは間違いないですけどね。そういうことでもなく。

 結論から言えば——恐らく、恐らくだけれどキャラ立ちの問題ではないかな、というのが最近の持論です。私の個人的のことを言えば、読書の最中にいちいち名前を気にしていたら「あれ? これって誰だっけ?」ということになりがちなので、その名前が誰のことかなんて結構気にせずバンバン飛ばして読んじゃいます。それでもなんとなく人物がわかるというか、読み進めていくうちに段々名前を把握できていくのは、「顔と名前が一致する」ならぬ「行動・性格・雰囲気といった〈キャラクター〉と名前が一致する」、つまりキャラクターが把握できるからなんだなと。

 そこを考えると確かに翻訳物は文化も違えば生活スタイルも違うし、例えば「イェール大卒=エリート」というようなアメリカでは当然常識として理解されていることが日本では常識ではないので、そのキャラクターの背景がどうしたって掴みにくいのは間違いない。キャラクターが掴みにくいと当然キャラクターと名前も一致してこない。ということではなかろうかと。

 で、そこは仕方がないこととして、逆にむしろ、そういった知らない国の常識であったり文化、生活スタイル——その仕方のないこと——に好奇心を持ったり、それを魅力に思ったりというような人間が好んで翻訳物を読むのではないかなーと思っています。これはミステリに限らず。

 ……まあでも普段ミステリを読んでいるくせに海外ミステリを読まないなんて好奇心もなく関心の幅も狭い読書人にあるまじき不届き者だ! なんて言うつもりはないですよ。えーと、ほら、私の趣味も相当偏ってますし……。

 ああ長い前置きだった……。で、本書の登場人物の覚えづらさというのはまさしくそのキャラクターの薄さ、ついで登場人物の多さにある。登場人物の数はといえばカバー折り返しの人物表に載っているだけで16人と5匹で合計21。それだけならば(多めではあるけど)そこまで珍しくもないかなー、と思いきや登場人物を一通り冒頭で登場させようと思ったのか郵便局に人が入れ替わり立ち代わり来るわ来るわ。だいたい4ページごとに一人やってきてハリーとお話しては帰っていく。これが殺人が起こる60ページ目まで延々と続くのだ。これは次に出てきても覚えてられないですよー。加えて特に男性のキャラクターの書き分けがちょっと弱いかなあ。特に最初に登場した段階で描き分けができているようには思えない。女性は結構キャラクターが立ってるんだけどね。南部特有のガチガチに真面目なプロテスタントのバアちゃんとか金持ち&家柄を鼻にかける高慢ちきなオバちゃんとか。

 とかなんとか言いつつ不満があったのはキャラクターの弱さと多さくらいで、小説自体は非常に誠実な印象。誠実というのも言い方が変だな。

 エンターテインメントの小説には(あえて分けると)物語に作者が積極的に手を入れるタイプの小説とそうではない(ように見える)タイプとがある。そして本書は後者なのだ。なんと言えばいいかなぁ……作者の頭の中に創造したクロゼットというスモールタウンを真摯に文章に落とし込んでいる印象で、実はストーリーとかエンターテインメントとかは作者の中ではもうどうでもよくなっちゃっていて、作者は脳内に発生した小さな町での出来事をひたすらに綴っていく。そういうイメージである(本当に前述のとおりでももちろんないのだけれど。普通の町では殺人は起きないだろうし作中にはヤマ場もある程度作ってあるし)。

 言い方を変えればそういったスモールタウン小説とも言うべき読み方ができるくらいには小説が上手かった。そのぶん一見無軌道と読まれかねないという欠点はあるにしても。今まで読んできたコージー・ミステリには作者が物語に積極的に手を入れた痕跡がありありと見えてしまう小説が多かったのでこれは少しばかり意外だった。

 ま、それはともかく読者の皆さんが気になるのはあれでやんしょ? 猫ニャン犬ワンの立ち回りでやんしょ?

 私も気になってましたよ。猫(動物)ミステリにはいくつかパターンがあります*2。人間と猫が意思疎通できないのは当然としても、トラ猫ミセス・マーフィー・シリーズでは猫にゃんは他の動物たちと会話できるのか? このリタ・メイ・ブラウン世界では、猫にゃんは人間並の思考ができるのか?

 ……できる! できるのだ!

 このシリーズはリタ・メイ・ブラウンの飼猫スニーキー・パイ・ブラウンが書いている、という設定だけあって(いや、本当に猫が書いると考えたほうが楽しいけど)、トラ猫ミセス・マーフィーは人間並の思考能力を持ち、もちろん人と人が意思疎通するように他の猫や相棒となるコーギー犬のタッカー、果てはアライグマなんかとも会話してしまう……のみならず恋愛までするのである。猫ってだって発情期……まあいいや、野暮なことは言うまいて。

 というわけで本書はトラ猫ミセス・マーフィーの視点と人間ハリーの視点で物語が進む(まれに他の人間の視点が混じるって、誰が話しているのかよく分からなくなるのもこれまたキャラクターが掴みにくい一因になっているのだが)。もちろんミセス・マーフィーの猫らしい行動も本書の魅力ではあるし、もちろん作者が猫好きだということはあるのだろうけれど、本書におけるミセス・マーフィーたちの動物界は、ハリーが属する人間界——クロゼットという閉鎖的で保守的な小さい町——の映し鏡として現れる。

 まずハリーは別居中の夫との離婚問題をかかえている。人口五千人という小さな町では離婚という行為は町を二分するほどのトピックになるのだ。ある者はハリーに味方し、またある者は夫フェアの肩を持ちハリーを攻撃する。そしてまたクロゼットには南部の保守的な町ならではの様々な確執がある。例えば家柄を鼻にかけるいけ好かない町長の妻マリリン・サンバーン(ミム)は黒人の娘と結婚した息子を勘当し(当然サンバーン家は白人一家である)、娘の意向を無視して息子夫婦彼女の結婚式には絶対に呼ばないつもりでいるのだ。住民たちは互いに子供のころからの知り合いだし、何かをすれば必ず目立ってしまう。どうしても互いに互いを監視しあってしまうような環境なのである。

 そういった人間界のゴチャゴチャしち面倒臭いことに対し、テンポよく「なんで人間ってこんななんだろうね?」という視点を投げかけてくれるのがミセス・マーフィーたちの役柄なのである。

「ママ*3ったら今朝はひどく沈んでいるわね」ミセス・マーフィーがタッカーに軽く触れた。「離婚のことでも考えているんだわ。人間は自分につらくあたるのが好きだから」

 タッカーは耳を前後に動かした。「そうね、人間は悩みごとには不自由しないみたい」

「そう、それよ。何年も先のことを悩んだり、起こりそうもないことを心配したり」

「鼻が利かないからじゃない? だから、人間はいろいろな情報を取りこぼすんだわ」

 ミセス・マーフィーはこっくりうなずいて、いいそえた。「二本足で歩くこと。原因はこれに違いないわ。だから、背骨がだめになって、そのうち頭までへんになるのよ」

 とかなんとか言いつつこの後すぐ追いかけっこ始めちゃうんですが、この二匹。所詮獣なんでしょうがないね。

 さて、最後にやはりミステリの部分に触れておかねばなるまい。ストーリーの根幹の部分でもあるし。

 正直に言えば謎解きの部分は何か驚くようなことはほぼないと思っていい。ただ連続殺人犯からの謎の絵はがきや、クロゼットの町に19世紀に掘られたトンネルにまつわる噂話など小道具の使い方は面白いし、殺人が起きることで住民たちが自分たちの住んでいる地域社会、人間関係について改めて見つめなおしていく過程や、また殺人が起きたからこそ人々から滲出する心の奥に仕舞われていた本音にも驚かされるものがある。

 もちろん自分たちの飼い主を守るために謎を解こうと奮起するミセス・マーフィー&タッカーの活躍も見逃してはならない。特に彼らが殺人現場で嗅いだ「カメのような臭い」の正体には思わずニヤリとさせられるはず。ミセス・マーフィーたちは動物だから最後までわからないんだけどね。

 というわけでエンターテインメントとしては若干の瑕疵はあるものの、猫にゃんたちの活かし方もグッドで期待値よりも相当に上でした。ああ、やっぱり猫っていいよなあ……。

コージーについて今回まででわかったこと

  1. 猫猫猫猫!犬犬犬犬!
  2. 犬犬犬犬!猫猫猫猫!
  3. 南部! 田舎! スモールタウン!

そして次回でわかること。

それはまだ……混沌の中。

それがコージー・ミステリー! ……なのか?

小財満判定:今回の課題作はあり? なし?*4

あー……私も飼猫みたいな気楽な暮らしがしたいなぁ。

ご飯は出てくるし遊んでるのが仕事みたいなもんだし……。

というわけでありで。

コージー番長・杉江松恋より一言。

 あ、君、ネコが好きだったのか。知らなかった。ネコかぶってたね?(それは違う)

 文中でキャラクターの覚えにくさについて言及されているが、私もこの作品を読んだとき、それを感じた。キャラクターの名前がただ羅列されているように感じるため、とまどってしまうのだ。好意的に考えると、ソーントン・ワイルダー『わが町』の系譜に連なる、群像として町の人々を描こうという試みなんだけどね。小さい町の小説の定石なのである。まあ、巻を重ねるにつれて、キャラクターの陰影も濃くなっていくと思うので、そのへんはご安心を。

 では次回は本シリーズの第二作『雪のなかを走る猫』、いってみましょうか。雪の田舎町をご堪能あれ。

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小財満

ミステリ研究家

1984年生まれ。ジェイムズ・エルロイの洗礼を受けて海外ミステリーに目覚めるも、現在はただのひきこもり系酔っ払いなミステリ読み。酒癖と本の雪崩には気をつけたい。

過去の「俺、このコージー連載が終わったら彼女に告白するんだ……」はこちら。

*1:ちなみに私のフェイバリット・猫が喋る系ミステリは翻訳に限ると『ブラックサッド』(早川書房)シリーズ一択! 擬人化猫ニャンハードボイルド・バンドシネですよ。二番手でアキフ・ピリンチ『猫たちの聖夜』(ハヤカワ文庫NV)かな。参考:ミステリマガジン2009年4月号特集「猫はミステリの最良の友」

*2:参考:ミステリマガジン2009年4月号特集「猫はミステリの最良の友」。しつこいか。

*3:飼い主ハリーのこと。

*4:この判定でシリーズを続けて読むか否かが決まるらしいですよ。その詳しい法則は小財満も知りません。