前回までの「小財満の俺(以下略)」ではトラ猫マーフィー・シリーズの1作目、2作目を扱ってきました。2作目の時点で杉江・コージー番長・松恋氏に「ダレてるね」などとつっこまれていますが、えー、これは若干言いにくいんですが……事実ダレてます。

 シリーズのキャラクターに愛着が持てなかった場合、シリーズを読む動機が薄れる(ダレる)というのは当然のことであります。20代ひきこもり系男子な小財満としてはとしては、おばさん臭くて可愛げがないなーと思ってしまった猫と、アウトドア派で離婚後独立している30代女性の主人公ハリーに特に共感する部分は特に何もなく、愛着を持てずダレてしまっているのはもはや必然。さらには1作目と2作目であまりにも代わり映えがしなかった&シリーズとしての展開も感じられなかったので、このシリーズは1,2作読めばもう読まなくていいかな、と思ってしまったのでした。

 もちろん本シリーズの雰囲気、世界観が1作目でピタっときた人にとってはシリーズを通しての展開よりは、このトラ猫マーフィーという世界が不変であることがこのシリーズを読み続ける動機になるであろうというのは想像だに難くなく、それはそれで理解できますので、私が「もう読まなくていいかな」と思ったというのがこのシリーズを否定しているわけではないことは付記しておきます。特に長寿シリーズのコージー・ミステリなんかは、このジャンルの読者にとっては話の展開などよりもその世界にひたることのほうが重要なのかなと思うこともあり。

 はい、というわけで指定されたものは仕方がない。トラ猫マーフィー・シリーズ5作目『トランプをめくる猫』にいきまっしょー。

 ハリーと飼い犬のタッカーは毎年行われている由緒正しきモンペリエ競馬大会に役員として招かれていた。この障害走競馬には三頭の馬を出馬させている名士のミム・サンバーンや、その調教師と騎手であるヴァリアント兄妹、はたまたミムの元調教師で不正により解雇されたフォーロインズ夫妻など町の競馬関係者が勢ぞろい。そんな中でミムの騎手アデリア・ヴァリアントが想いを寄せていたイギリス出身の凄腕騎手ナイジェル・ダンフォースが競馬ののちに刺殺されてしまう。そしてこのトランプ札のクラブのクイーンが縫いつけられた死体こそが、競馬関係者を恐怖に慄かせる連続殺人事件の始まりだったのだ——。

 本作の舞台は競馬、しかも障害走。ということはディック・フランシスの世界ではないか!*1とはいえそこはコージー・ミステリ。行われるレースも牧場が多いからこそ町に根付いた類のお祭り的なもので、賭金などそこで動く金額もそう大きいものではない。なので大きな陰謀が——といった冒険小説的なお話になるわけもなく、中心となるのは町の人々と、競馬の開催期にだけスポットがあたる競馬関係者たちの人間模様である。

 競馬関係者のキャラクターたち、つまり登場人物の大半はシリーズ・キャラクターというわけではなく、本作で初登場。群像劇的な描き方はこのシリーズ独特のもので相変わらずなのだが、シリーズ第一作『町でいちばん賢い猫』の回で指摘したとおり初登場のキャラクターの扱いが散漫になってしまう点も相変わらずであるため登場人物が覚えにくい。これはこのシリーズの宿命なのかなぁ。

 物語はナイジェル・ダンフォースの死をきっかけに、競馬関係者の人間関係にシフトしていく。その人間関係の中心となるのはミムが雇っているヴァリアント兄妹の妹のほう、アデリアである。彼女が小父のように慕う調教師タウンゼントだが、アデリアの兄チャークと後見人のアーサーはタウンゼントのことを毛嫌いしている。またタウンゼントの騎手であるナイジェル・ダンフォースとアデリアが付き合っていることもよく思っていない等々。さらに昔の話しを持ち出せば、ヴァリアント兄妹の母メアリルー・ヴァリアントはもともとミムに雇われていた調教師だったのだが、兄妹が子供の頃に行方不明となっており、メアリルーが最後に付き合っていた男性がタウンゼントだった。

 うーーーむ、わかり辛いですね。要はアデリア・ヴァリアントを中心にしち面倒臭い人間関係が出来上がっていることだけわかっていただければ。

 だがこの人間関係の中でトランプの札をナイフで死体に縫い付けるような殺人が起きるというのもおかしな話。ナイジェル・ダンフォースは流れ者の騎手で借金も多く、麻薬にも手を染めていたことから、賭け事や麻薬の関係で殺されたのではというのが最初の捜査筋となる。

 そこで物語の転換点として出てくるのがトラ猫マーフィーとコーギー犬タッカーの活躍だ。彼らはミムの厩舎で競走馬のバズーカから、何者かが厩舎の地面を掘り返そうとして失敗していたことを聞き出す。もちろんマーフィーとタッカーも地面を掘り返して何があるのかを確かめたいのだが、いかんせん彼らは犬と猫。地面を掘り返すこともできず地中にあるものの正体は、謎のまま物語の後半に持ち越されることになる。

 このあたり、猫視点で読者に歯がゆい思いをさせる憎い演出である。正直なところ、猫視点の存在意義が「猫かわいい」以外に積極的には必要ないんじゃないかなー、と思っていたところだったので不意を突かれた感じがした。やるじゃん、リタ・メイ……じゃなかった、スニーキー・パイ・ブラウン。

 ミステリ的な見所はこのへんとして、シリーズを通してのロマンス要素がちょこちょこっと入ってきたので、このあたりにも触れておこうかと思う。

 主人公ハリーは獣医のフェアと離婚してしばらく経つのだが、女性関係が解決した今、そこまでフェアのことを悪く思っているわけではない。それをいいことにハリーの周囲はフェアとヨリを戻せとしきりに言ってくる。ハリーもまんざらでもなさそうなのだが……。そうなのか!? 一回離婚する決意をした男女がヨリを戻すなんてありうるのか!? 離婚ってもう相手とはやっていけないと思ったからこその重大な決意なんじゃないのか? 結婚も離婚もしたことのない自分には理解不能というか、魑魅魍魎が跋扈する世界であるように思えてならない。……謎だなあ。

 競馬界のほうに話しを戻すと、本作にはミステリを通してのアデリアの物語という側面が見えてくる。兄と後見人アーサーとの対立はいかにして解消するのか、行方不明となったまま帰ってこない母への想いをどう克服していくのか。母の恋人であったミッキー・タウンゼントととの関係は、等々。もちろん猫の登場するユーモラスな群像劇としても楽しいが、単にそれだけで終わらせず、競馬界のスキャンダルとアデリアの成長物語として見ても、見ても……でもあんまり彼女が事件を通してそこまで成長したようには見えないんだよなあ。シリーズキャラクターとして今後も出てくるのであれば、そのあたりも期待か。

コージーについて今回まででわかったこと

  1. 猫は鼠と和解することもある。……フィクションの中では。

そして次回でわかること。

それはまだ……混沌の中。

それがコージー・ミステリー! ……なのか?

小財満判定:今回の課題作はあり? なし?*2

猫などの動物の擬人化には特に違和感はありませんでした。

人によってはもっと猫なんだから馬鹿でいいだろうとか色々あると思うんですが。

そしてうーん、そろそろこのシリーズもいいかなあ。

そろそろ飽きたということもあり、もっと別なやつを読んでみたいので今回はなしでお願いします。

コージー番長・杉江松恋より一言。

 好き嫌いで言えば嫌い、ということですね(なんか回りくどい出だしだけど、要するに)。にもかかわらずちゃんと読んでくれてありがとう。この第5作は指摘の通り主人公が猫であるという設定がちゃんといかされているし、競馬というイベントで小さな共同体が沸き立つ雰囲気が描かれ、シリーズの中でも比較的にぎやかな部類に入る作品だと思います。正直言って初期作品よりこの5作目あたりからを読んだほうがいいのではないかと思っているので、トラ猫の主人公が気になった読者にはまず本書を手にとることをお薦めします。そして次回の課題ですが、どうやら小財満が好きなキャラクターの傾向もわかってきたような気がするので、あえて正反対のものをぶつけようと思います。リヴィア・J・ウォッシュバーン『桃のデザートには隠し味』だ。厳しい読みを期待してるよ!

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小財満

ミステリ研究家

1984年生まれ。ジェイムズ・エルロイの洗礼を受けて海外ミステリーに目覚めるも、現在はただのひきこもり系酔っ払いなミステリ読み。酒癖と本の雪崩には気をつけたい。

過去の「俺、このコージー連載が終わったら彼女に告白するんだ……」はこちら。

*1:その著作の全てが競馬に関係するディック・フランシスは元障害レースの騎手であり、障害走を扱った作品も数多い。『興奮』『本命』『障害』『不屈』『騎乗』など。ちなみにお馬さんに詳しくない私の競馬知識のほとんどはディック・フランシス経由である。

*2:この判定でシリーズを続けて読むか否かが決まるらしいですよ。その詳しい法則は小財満も知りません。