本のこと活字のこと 4——あるものすべてでなんとか

 子どもをかかえて在宅の仕事を模索していたとき、雑誌の編集者時代に知り合った企業の広報担当者が、ハーレクイン・ロマンスの翻訳に道をつないでくれた。ダメもとでトライアルを受けたら合格し、翻訳の世界におそるおそる足を踏み入れた。そののちハーレクインの編集者に翻訳家の東江一紀氏を紹介されると、このときばかりはダメもとではなく、あとには引かないつもりで、弟子入りをお願いする手紙を書いた。下訳をもらって修業するようになり、そうこうするうちに、訳書のジャンルも広がっていった。

 だんご屋のおばちゃんが店先で串を炙るみたいに、わたしは毎日、同じ仕事机の前にすわった。初めてハーレクインを訳したとき、夜泣きすると背におぶった赤ん坊が、いつしか友だちを連れてきて机のかたわらで遊ぶようになった。そのうちに部活で帰りが遅くなり、塾へ行くようになり、月日は流れて、いまは残業で帰宅が遅い。

 つまり、これって、子育てのさなかに求めてやまなかった自分の時間がたっぷりあるということでは? だったら、もっと生産性が向上してもよさそうなものなのに……。わかっちゃいるけど、なかなかそうはならない。だんご屋のおばちゃんは、ときどき串を手にしたまま、遠い目になっている。

 翻訳という仕事は、机にすわれば、なにかしらやれることがある。ありがたいことだ。離陸するのに大がかりな滑走を必要としない。原文を読み、辞書を引き、文法書や資料にあたる。そこから作業がはじまる。原著があるおかげで、詩や小説をゼロから生みだすような創作の苦しみからは免れていられる。しかし、原著があるからこそ、より多面的な心配りや構想力、判断力が必要とされる。いや、それを念じて、ひいっと声をあげそうになりながら、どうにかやっていますといったところ。

 翻訳の現場では、ちまちまとした事柄に対する決断を繰り返す。原著の声に耳を傾け、自分のなかにいる想定読者の意見も聞き、英語と日本語の蓄えを総動員して、訳語を選び、文章を組み立てる。根気よく聞き手をつとめるのも、個々の判断を下すのも、当たり前だが、自分ひとりしかいない。その孤独が心楽しいときもあれば、心細くなるときもある。

 ただ、翻訳には職人仕事の部分もあって、修業や研鑽はそれなりに報われるものだ(と信じたい)。経験を重ねていって身につくことはたくさんある。しかし一方、経験則だけでは割り切れない部分もあり、個々の決断を下していく芯は、職人的な部分より、むしろもっと生々しい自分自身のなにかと結びついているような気がする。自分がしっかり保てていないと、自分と折り合いがついていないと、翻訳における決断もぐずぐずして、一貫性を欠いたものになる。

 ということに気づいたのは、不惑をとうに過ぎて思い悩むことがあり、自分の芯がぐらつく日々をしばらく過ごしたからだった。あの大震災と福島第一原発事故以降、自分の子は育てたけれど、これから育つ子どもたちのことをこれまで真剣に考えることがあったのか、社会をつくる一員としての自分は責任を果たしてきたのか、そんなことを悶々と考えた。

 いまもそれに答えは出ないけれど、翻訳については少なくともふたつのことを心に決めた。ひとつはなんでもこなせる翻訳職人に憧れていたが、もうそれを目標にするのはやめようということ。よく口にしていたことが恥ずかしい。わたしには無理だ。もうひとつは、訳文をつくるとき、判断の目安として中庸をさぐることがある。でも自分がスタンダードを知っているかのように、正しいバランス感覚をもっているかのように買いかぶらないということだ。

 少し前に、『アレクセイと泉』というドキュメンタリー映画を小さな上映会で観た。チェルノブイリから180キロ離れた小さな村が、1986年、原発の爆発事故の際の風向きによって、放射能の灰に汚染されてしまった。若者や子どもはよそへ移住し、50数名のお年寄りとアレクセイという青年だけがその村に残った。映画は、原発事故を正面切って告発することもなく、アレクセイと村人たちのおだやかでつましい暮らしを、美しい自然と季節のうつろいをたんたんと伝えていく。

 お年寄りたちはなにも知らないわけではなく、村が見えない放射能に汚染されていることをよく知っている。ただ森も畑もすべて汚されたのに、なぜか村の泉からは放射性物質が検出されず、それが村人たちの心の拠りどころになっている。このブジシチェの村祭りで、村のおばあさんたちが明るく楽しげにくるくると踊っていた。その明るさゆえに原発事故のむごさ、罪深さが静かに胸にしみてきた。でも、それと同時に、「そこにあるもの」で生きていくことを引き受けた人たちのたくましさにも打たれたのだった。きれいなスカーフをかぶったかわいいおばあさんたちは、野原で腕を組み合って、笑いながら、いつまでもくるくると踊っていた。

 子育てに追われていたころ、切れ切れの時間も、子どもたちのにぎやかな声のする仕事環境も、それほど苦ではなかった。少なくとも受け入れていた。それしかなかったから。

 いまはもうないもの、いまだからあるもの——。

 結局は、いまあるものをすべてつかんで、やっていくしかないのだ。できることなら、ほがらかにくるくると踊ることも忘れないようにして。

 4回にわたる思い出話、打ち明け話におつきあいくださいまして、ありがとうございました。今月末2冊の拙訳書が出たので最後にお知らせを。19世紀、ナポレオン戦争の時代にドラゴンがいたらという世界を描く〈テメレア戦記〉第4話『象牙の帝国』と、アニメ映画『カーズ2』のコンセプト・アートを集めた作品集。どこかでお目に留めていただければうれしいです。

那波かおり(なわ かおり)1958年生まれ。おもな訳書に、フィクションとして、ノヴィク〈テメレア戦記〉とリンジー〈華麗なるマロリー一族〉のシリーズ、ハリス『ショコラ』『ブラックベリー・ワイン』『1/4のオレンジ5切れ』、ノンフィクションとして、チェン『人はいつか死ぬものだから』、エンジェル『コールガール』など。ツイッターアカウントは@kapponous

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