悩み多き翻訳者の災難 第2回 ジェーン・マープルの巻

 小6で翻訳ミステリの魅力に目覚めた私(※詳しくは第1回をご参照ください)が、中高生のころ夢中になったのはアガサ・クリスティー。最初に読んだのがたまたま『パディントン発4時50分』だったせいか、彼女の作品に登場する名探偵のなかでは、エルキュール・ポワロよりジェーン・マープルの印象が強い。

 マープルといえば老嬢探偵。“老嬢”という語を広辞苑で引くと「婚期を過ぎた女、オールドミス」とある。つまり私も立派な老嬢ということになるが、何かしっくりこない。いや、べつに、まだあきらめていないとか、そういうことではない。「嬢」という文字のせいで、ガツガツ働かなくてもそれなりに優雅な生活ができるお嬢さまでなければ、たとえ婚期を逃しても老嬢にはなれない気がするのだ。

 それで思いだしたことがある。電話をかけてくるなり、いきなり「奥様ですか?」と尋ねるセールスパーソンがいるが、世の独身女性はそれになんと答えているのだろう? 私はさっさと話を終わらせたい一心で「はい」と答えて奥様になりすましているが、同じく独身の女友だちのひとりに「いいえ」派がいる。なんでも、「いいえ」と答えると「お嬢様ですか?」と訊かれ、さらに「いいえ」と答えると「奥様はいらっしゃいますか?」と訊かれ、さらに「いいえ」と答えると、相手が微妙に戸惑っているのがわかって、楽しくなってくるのだとか。「それって、ただの意地悪じゃん」と指摘したら、保険や霊園のセールスパーソンを相手に奥様気取りで話をするやつにそんなことは言われたくない、と怒られてしまった。

 さて、そのように奥様気取りが大好きな私も、訂正を求めざるをえない事例に遭遇したことがある。老母の家でちょっとした介護用品が必要になり、その手の会社の人に来てもらったときのことだ。保険関係の書類に署名が要ると言われたので、「本人のものじゃないとまずいですか?」と尋ねたところ、「いえ、若奥様のものでかまいません」と言われた。

 若奥様。

 誰のことかと思えば、どうも私のことらしい。たしかに母親とはほとんどまったくと言っていいほど似たところがないので、その社員が「血縁なし」とみなした気持ちはわからぬではない。しかし、若奥様たるもの、錦鯉がいるお屋敷に住んでいないと——それが無理ならせめて錦鯉がいるお屋敷に住んでいそうな雰囲気がないと——まずいのではないだろうか?

 面倒なので……というか、せっかくなのでそのまま若奥様でいこうかとも思ったのだが、これから署名をしようという人間が身分を詐称するのはいかがなものかと考えなおし、「嫁ではなく娘です」と真実を打ち明け、私の呼称は若奥様からお嬢様に変更されることになった。違和感そのものにさしたる改善はみられなかったけれど……

 よもやあのジェーン・マープルに向かって「奥様ですか?」と尋ねるアホなセールスパーソンはいないだろうが、彼女なら、いったいなんと答えるだろう? 私も無駄な奥様気取りはやめて、ミス・マープルのようなバリバリの老嬢を目指すのがスジなのかもしれない。

対馬妙(つしま たえ)。1960年東京生まれ。おもな訳書に、スタカート『探偵レオナルド・ダ・ヴィンチ』、ハラ『悩み多き哲学者の災難』、ハート『死の散歩道』など。

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