第2回 映像の力

 皆様、池袋に自転車で行くときには注意が必要です。

 豊島区の違法駐輪の罰金五千円。

 これ結構イタイ。

 しかも撤去されたブツの引き取り場所が交通不便地帯にある(わざとか?)。

 池袋駅周辺に駐輪場は少ないし混んでるしで路上駐輪をやりがちですが、よい子は絶対に真似しないように。

 仕方ない場合は、次の撤去日時が書かれた立て看板をしっかり確認ね!(前科者の知恵)

 というわけで行ってまいりました、池袋へ。なにせリハビリ中の身なので(第1回を参照)、今回はウォーミングアップのつもりでジュンク堂の地下一階へ。

 はい、コミック売り場ですが、それが何か?

 目指すはBD。バンドで死ね(どうしたパソコン!)、もといバンド・デシネ。

 これだって立派な翻訳書。どれも大判サイズでずっしり重い。漫画というより、なにやら美術書のような存在感。お値段もちょっとお高め。

 本体はシュリンクしてあって中身が見られない(頼めば見せてもらえるらしいが、小心者ゆえ……)。そこで帯の惹句と表紙絵のタッチを判断基準にあーだこーだ悩んでチョイスしたのが以下五作品。

○ニコラ・ド・クレシー『天空のビバンドム』原正人訳 飛鳥新社

 まずはグロテスクでどぎつい彩色の表紙に一目惚れ。驚異のフルカラー漫画だそうな。タイトルからはどんな話かまるで見当もつかないが、直感に賭けてみる。

○ダビッド・ベー『大発作』関澄かおる訳 明石書店

 副題の「てんかんをめぐる家族の物語」から、何やら純文系のにおいをかぎとり即決。

○メビウス『アンカル』原正人訳 小学館集英社プロダクション

〈R級ライセンスを持つさえない私立探偵ジョン・ディフールは、ひょんなことから宇宙の命運をつかさどると言われる謎の生命体「アンカル」を手に入れ……〉と帯にある。SFは門外漢ながら、メビウスの名はよく耳にするので気にはなる。さんざん迷った末、湯あたり覚悟で購入決定。冒険だって必要だい!

○エマニュエル・ギベール『アランの戦争』野田謙介訳 国書刊行会

〈ひとりの人間の生とはなにかについての、最終的な解答のない具体例がここにある——堀江敏幸〉ううむ、芥川賞選考委員推薦……純文好きをおびき寄せる甘い罠。

○マルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』原正人訳 河出書房新社

〈セリフはいっさいないまま、登場人物と手がかりが錯綜する——BDの新しい傑作誕生!〉どうやらミステリっぽい仕掛けらしい。謎解きがネットのサイトと連動しているというあたりが今風だ。

 BDとのおつきあいはまだ日が浅く、存在を知ったのも数年前に訪れた京都国際マンガミュージアムでのこと。そのときたまたまユーロコミックスの特別展をやっていて、「あらら、こないディープな世界もあらはるんやね〜」とインチキ京都人はいたく感激したのであった。

 会場で目にしたプルーストの『失われた時を求めて』のフランスコミック版が、その後少しして白夜書房から二巻のみ邦訳刊行されているのを突き止めたが、実際に買って読んだのは昨年末のこと。これがわたしのハートを鷲づかみ、というのは言いすぎだが、ここからプルーストの原作読破の野望が芽生えたことは白状しておこう。

 活字のみで勝負する仕事に従事している身としては、視覚メディアの持つイメージ喚起力がつくづくうらやましい。映像なら瞬時にキャッチできる情景を、こっちはこつこつと文章で積み上げなきゃならないのだ。原作の事物や情景の描写をうまく日本語に乗せられないとき、ああここに挿絵があったら一発で伝わるのにと身もだえすることもしばしば。

 それで思い出すのはローレンス・ノーフォークの『ジョン・ランプリエールの辞書』。いやはや、あれには手こずりました。だって叙述の分量が半端じゃないんだもの。

 これは一八世紀末のイギリスとフランスを舞台に、ギリシャ・ローマ神話オタクでのちに『古典籍固有名詞辞典』を著すことになる実在の古典学者ジョン・ランプリエールが、ある歴史上の大事件に巻き込まれていくという想定の、壮大なトンデモ歴史ミステリなんですの。

 たとえば、生まれ故郷のジャージー島からロンドンに初めてやって来たランプリエール青年が右往左往する市場の雑踏はこんな具合に描かれる。

「テムズ川にはどう行けばいいんでしょうか」と、道行く人を捕まえては訊ねる。誰もが狂人を見るような目つきを返す。バケツ一杯のルタバガとターニップをそれぞれ一シリングでどうかと押しつけられる。魚を売り歩く女に押しのけられた勢いで、さらに市場の奥へと追い込まれ、そこではひと箱一シリング、三箱なら二シリングの嗅ぎ煙草を押し売りされる。これを聞きつけた一人の買い物客、品定めをして買い得だとわかるとお買い上げ、さらに今度は通りかかった女の肘を捉えて呼び止めて、三ペンスで大平目をせしめる。一ギニーのところを三ペンスに値切られた女は大損害、一ギニーあれば懐中時計が買えたのに……」(文庫上巻95ページ〜)

 まるでビリヤードの玉のように小突き回されては何人もの物売りや買い物客とぶつかるランプリエールを描きつつ、それと同時に彼がぶつかるロンドン市民の脳内にまで立ち入るマニアックな語り——こんな調子で、まるまる四ページぶっ通しで一段落が続くのだ。この箇所が物品の値段を織り込みながら当時のロンドンの活発な経済活動とその猥雑さを巧みに描き出す名シーンだということは認めよう。だが訳すほうはたまったもんじゃないんだよ、ノーフォーク君。アリス・ド・ヴィアなるご婦人が乗っている輿の運び賃が「一ペニーあたり五百二歩の勘定」だなんてどうでもいいじゃないか!——と毒づきながら訳した日々が懐かしい。

 その点、登場人物の声(台詞)を訳しているときはすこぶる上機嫌。想像上の声音をあれこれ演じ分け、ひとり芝居に興じているとサクサクと仕事がはかどります。家人の冷ややかな視線を浴びながら、これだって仕事のうちと嘯いて映画や海外ドラマの鑑賞にうつつを抜かすことが多いのも、この台詞好きが根底にあるからでしょう。

 そんな訳者のもとに舞いこんできたうってつけの仕事が、B・S・ジョンソンの『老人ホーム』とギルバート・アデアの『閉じた本』でした。どちらもほとんど声のみで構成された、たとえるならラジオドラマの脚本みたいな小説です。『閉じた本』はその後映画化もされているが、その話は後ほど改めて。(『老人ホーム』はただいま品切れ中。いずれ文庫化されるはずなのでしばしお待ちを)。

 映画にしろドラマにしろ映像化された作品を原作と引き比べ、やっぱり原作には負けるよねという声をよく耳にするが、わたしはあんまり気にならない(好き嫌いはあるけれど)。そもそも映像と活字は別物、それぞれの表現方法があって当然なわけで、そっくり同じ(等価)を期待するほうがどうかしている。映画やドラマには時間の制約だってあるんだし。完成した映像作品の出来不出来より、原作をどんな切り口で料理しているかに興味がある。

 十六年前に訳したクリストファー・バックリーの『ニコチン・ウォーズ』(全米を席巻する禁煙ブームで売り上げに伸び悩むタバコ業界のロビイスト団体に雇われた、スポークスマンのニックが嫌煙派を相手に繰り広げるバトルを描いた風刺コメディ)は、刊行から十年近く経って映画化され、『サンキュー・スモーキング』の邦題で公開されたのだが、アメリカとは違い日本では見事にコケてくれました。

 敗因は主人公ニックのしゃべりの濃さだろうな、とわたしは睨んでいる。あらかじめストーリーを知っていても、ニックの繰り出す屁理屈の機関銃トークを字幕で理解するのはかなりハード。字幕を担当した人の苦労がしのばれる。

 日本の映画会社が『ニコチン・ウォーズ』という訳書の名タイトル(?)を採用せず、『サンキュー・スモーキング』としたのも惜しまれる。原作がニコチンをめぐるトークバトルが中心なのに対し、映画はニックが息子との絆を取り戻していくハートウォーミングな話に仕立て直しているから、それも仕方ないと言えば言えるのだが……。

 ちなみに小説と映画の原題はいずれもThank You For Smoking。いくら「フォー」が日本語に馴染まないからって、『サンキュー・スモーキング』はあんまりじゃない?

 日本公開に合わせて訳書も文庫化してもらったし、在庫はまだたっぷりあるはずなので、これを機に是非ともご一読をおんねがい奉りたい。

 よく翻訳権取得の段階で、「この作品はすでに映画化権が売れていて……」みたいな話がエージェント方面から流れてくることがあるが、映画化が実現することはそうそうない(少なくともわたしの場合は)。

『ニコチン・ウォーズ』を書いたのと同じクリストファー・バックリーのGreen Men(めちゃ面白いエイリアン騒動もの)も、一昨年あたりにクランクイン目前と言われながら、結局その話は立ち消えになったまま。映画公開さえ決まれば邦訳刊行にゴーサインが出るのにと、ちょっと歯がゆい思いもしているわけで……。

 マリーナ・レヴィツカの『おっぱいとトラクター』も、クリストファー・ムーアの『アルアル島の大事件』も、訳者あとがきで映画になるらしいことを吹聴してしまったが、その後何の音沙汰もなし。

 そうそう、『おっぱいとトラクター』はちょっと意外な形で映像化が実現したのですよ。それは一昨年、東京で開催された国際ペンクラブ大会でのこと。会場は早稲田大学大隈講堂。里中満智子さんの描いた登場人物たちをCG処理して大スクリーンに映し出し、活動写真弁士の片岡一郎さんがまさに無声映画のスタイルで物語を語っていく(脚本は不肖青木)、いわば大がかりな紙芝居形式での上演。上演時間は約一時間、しかも一回こっきりというなんとも贅沢な催しで、来日した原著者のマリーナ・レヴィツカさんにも大ウケでした。

 もっとも映画化されても当たってくれなければ、訳書の売れ行きにはつながらない。

 ギルバート・アデアの『閉じた本』は映画化され、二〇〇九年のカンヌ映画祭でお披露目もされながら、批評家たちの受けがいまひとつだったせいか、結局日本の配給会社にはそっぽを向かれてしまった(涙)。原著者アデアが自ら脚本を手がけ、ディテールをかなり大胆に変更しているので原作と比較する意味でも一見の価値あり、なんですけどね。これは英語版のDVDで見られます。

 原作の映画化がある一方、それとは逆方向の海外映画のノベライズなんていう仕事もひょっこり飛びこんでくるから翻訳稼業って面白い。かつて 縁あってやらせてもらったのは、リース・ウィザースプーン主演の『メラニーは行く!』とアニメ映画『ロボッツ』の二作品(ともに竹書房文庫)。脚本と映像をベースに、地の文を創作して小説の体裁に仕立て上げるという、怖いもの知らずの試みだ。何度も繰り返し映画を見ては、役者のちょっとした表情やしぐさを読み取ったり、背景のインテリアや風景に目を凝らしたり、映画には描かれていないエピソードを紛れ込ませて話に厚みをつけたりと、普段の翻訳作業ではまずもって味わえないスリリングな体験だった。

 文芸翻訳者も映像と決して無縁ではないのです。

 ということで、今回はこのへんで。

 コミックスや映画字幕の翻訳は文字数の制約などがあるぶん、出版翻訳とは異なるノウハウがあるのは言うまでもない。それだってちょっとでも齧っておけば、いつかどこかで意外な力を発揮するのじゃ——なぁ〜んて妙な理屈をつけて、ずっしり持ち重りのするBDを五冊、持ち帰ったのでありました。

 〆て税込壱萬伍仟参百参拾円也。まだまだ買えるぞ!

青木純子(あおき じゅんこ)。7月10日生まれ。蟹座。0型。東京都在住。主な訳書:フェリペ・アルファウ『ロコス亭』、クリストファー・バックリー『ニコチン・ウォーズ』、ローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』、B・S・ジョンソン『老人ホーム』、アンドルー・クルミ—『ミスター・ミー』、ギルバート・アデア『閉じた本』、ケイト・モートン『忘れられた花園』(以上東京創元社刊)、マリーナ・レヴィツカ『おっぱいとトラクター』(集英社文庫)など。

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