——爺はつらいよ 老刑事に休息なし

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

畠山:年が明けてまだひと月も経たないというのに年間ベストに入りそうな出来事の連続。楽器ケースに隠れて逃亡した元大物経営者、爵位を捨てた王子夫妻、そして23年間隠し扉の中で眠っていたクリムトの絵……。なんとまあ、ミステリー的に美味しいネタ揃いなんでしょう。この話をどうやって最後に全部つなげるか、真面目に考えたのは私だけではないはず。因果ですなあ、ミステリーファン。

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、今回のお題はスチュアート・M・カミンスキー『愚者たちの街』。1990年の作品です。いよいよミステリー塾のお題も1990年代に突入となりました。

 シカゴの老刑事エイブ・リーバーマンは売春婦のエストラルダに、しつこく言い寄る危険な男から守ってほしい、と頼まれた。明日には街をでるので今夜ひと晩だけでいいからと。そこで相棒の刑事ビル・ハンラハンが見張りについたが、ほんのわずか目を離した隙にエストラルダは殺害されてしまった。事件直後、エストラルダの服を着て現場のアパートからタクシーで去った女は誰か? そして行方は?
 飲酒の問題を抱えるハンラハンを庇いながら捜査を続けるリーバーマン。さらに私生活では、娘の離婚危機に教会の修繕問題と、これまた頭の痛いことばかり。シカゴの街に息づく様々な人生模様を、お楽しみあれ。

 スチュアート・M・カミンスキーは1934年生まれのシカゴ育ち。1977年に、ハリウッドの探偵トビー・ピータースを主人公にした『ロビン・フッドに鉛の玉を』でデビューしました。その後、モスクワ警察のロストニコフ捜査官シリーズ、シカゴの刑事エイブ・リーバーマンシリーズ、フロリダの訴訟状配達人ルー・フォネスカシリーズなど、着々と書き続けました。ロストニコフシリーズの『ツンドラの殺意』でエドガー賞長編賞を受賞。2006年にはアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を授与されています。2009年没。

 いやぁ、プロローグから引き込まれました。アップテンポで語られる過去の出来事。無駄のないスタイリッシュな文章で、息つく暇もありません。まさに「つかみはOK」。作者自身が映画の専門家(大学で教鞭をとっていた)であり、脚本家でもあるためか、脳内で映像や音が自然に湧き上がってくるような文章が、とても気持ちよかった。

 そしてエイブラハム・リーバーマン刑事。好いおじさんじゃないですか、好きだなあ。
 友を思いやり、死んだ女を悼み(彼は娼婦を決して下に見ていない)、家族との対話を厭わない。孫は思い切り甘やかす。疲れや嫌気は独特の捻くれたユーモアでいなしてしまう術を知っている、これぞ老成の見本。
 彼がユダヤ人であることも大きな特徴です。複雑な歴史によって常に生きづらさを抱えてきた彼らの人生観は非常に興味深いですね。相棒のハンラハンはアイルランド系のカトリック教徒で、互いに「ラビ」「神父」と呼びながら尊重しあっています。人生経験豊富なおじさん刑事にしか出せない苦みとコクのある、味わい深いバディものとしても楽しみました。

 いくつものシリーズ作品をもつカミンスキーですが、トビー・ピータースシリーズはハードボイルド風味らしいので、加藤さんは既読かな?

 

加藤:令和2年幕開けの話題といえば、やはりマラソンではないでしょうかね。ニューイヤー駅伝と箱根では、目にも鮮やかなナイキの「厚底シューズ」がブイブイいわせて区間新記録のオンパレード。いやあ、あれは凄かった。厚底にするとどうして速くなるのか、実はよく分からないんだけど、東京オリンピックの前に厚底に何らかの規制がかかるのは確実だとか。メーカー各社は今「シークレットマラソンシューズ」の開発に余念がないんじゃないのかな。

 そんなこんなでカミンスキーを久しぶりに読みました。実はエイブ・リーバーマン警部シリーズってイマイチ印象に無くって、とても新鮮な読書でしたよ。そして驚きました。なにこれチョー面白いじゃん。
 むかし読んだときはこれがピンと来なかったんだと思うと、チョー不思議。僕も大人になったのかも。花も嵐も乗り越えて、酸いも甘いも噛み分けて、ついに辿り着いたこの境地。(<そんな大したものではない)

 僕のなかでこのシリーズの印象が薄かった理由は、カミンスキーといえばハリウッド探偵「トビー・ピータース」シリーズというイメージが強すぎたからだと思うんです。昨年亡くなった和田誠さんがカバー絵、挿絵、そして翻訳まで(!)手掛けた『ロビン・フッドに鉛の玉を』は、カミンスキーのデビュー作で、戦前のハリウッドを舞台にした私立探偵もの。物語のなかには往年の映画監督や俳優がこれでもかって登場し、名画やそれにまつわる小ネタも満載。もうノリノリで訳注書いている和田さんの姿が目に浮かぶw 『ハイ・シエラ』の撮影現場で聞き込みしたり、『マルタの鷹』のスペード&アーチャー探偵事務所のセットで大立ち回りしたりと、ハードボイルド好きには溜まりません。

 そんな軽妙な探偵小説というか、なんちゃってハードボイルドでデビューしたカミンスキーですが、本書『愚者たちの街』は一転、とても味わい深くて人間くさい警察小説なのですね。
 主人公リーバーマンと彼の周りの魅力的な人々、そしてカミンスキーが愛するシカゴという街の物語。

 このカミンスキーの芸風の多彩さと印象の変化を例えるときに、『勝手にシンドバッド』でデビューしてコミックバンドだと思っていたサザンが『いとしのエリー』を出したときの驚きみたいと言ったら怒られるかな?

 
畠山:マジレスするのもなんだけど、その衝撃ってどれくらいの年齢の人までわかるんだろう? この前職場の若手に「『北斗の拳』ってなんですか?」って訊かれてね、つい「西暦199X年 地球は核の炎に……」ってぶち上げそうになってグッと堪えたわけ。そんなアタシは最近ようやく、サカナクションの歌と名前と顔が繋がりました。なにかというと往年の銀幕のスターを持ち出すリーバーマンを笑えない orz

 加藤さんも言うとおり、『愚者たちの街』はクセはあっても憎めない人物が多いです。相棒のハンラハンはもちろんのこと、なんのかんの言いつつも仲の良い家族、リーバーマンと丁々発止を繰り広げるメキシコ系暴力団のボスに、特になにをするでもなく楽しく飲んでる「好色じじい団」(!)の面々。ハンラハンの告解をきいてくれる神父さんはキュンキュンするほど素敵で、彼に「神様がお待ちですよ」って言われたら、なんでも告白しちゃう。北海道ではクリオネを踊り食いするんだよって嘘つきました。ごめんなさい。
 特に教会の修繕をめぐって話し合いをする場面はよかったなぁ。厳粛そうな仮面の下で周到な駆け引きと天然ボケが錯綜するシュールなやりとり。まさかこの作品にコメディ要素があるなんてまったく予想していなかっただけに、不意を突かれてお茶噴きました。事件捜査以外の部分でもたっぷり楽しませてくれるとは、さすが脚本家。

 笑いの急所を突かれたかと思えば、ふっと涙ぐみそうになる名台詞にも出会えます。別居中の妻との関係や、アルコールの問題に悩むハンラハンが、「悪魔には、おれをひとひねりする手があるような気がする」と弱気になると、リーバーマンはそれは悪魔ではないと打ち消し、「神様はユーモアのセンスがおありだ。おれは、神様のそんなところが気にいっている」と、婉曲に友を励ますのです。やるねぇ、親爺どの。年齢は伊達じゃない。
 そしてチョイ役の質屋の店主のこの言葉。「人生は不思議な話と、一見意味のなさそうな物語の連続です。意味は、物語と、語り手と、聞き手の関係から生まれてくるものですが、そのなかで群を抜いてむずかしいのは、聞き手の仕事です。」深い!私は「聞き手」を「読み手」に置き換えて深く首肯するばかりでした。

 リーバーマンとともに歩き回るシカゴの街も楽しかった。すれ違った時にふと嗅ぎ取る汗の匂い、通りにただようガソリン臭、種々雑多な民族料理の胃袋を刺激する匂い……とにかくこの作品は匂いの描写が多く、シカゴの空気に包まれているような感覚を持てるんです。一度も行ったことがないのに、郷愁めいたものを感じるって不思議。移民の流入で街が変化をし続ける独特のざわざわ感も、リアルに胸を引っかかれるような感触がありました。
 そうそう、同じくシカゴ出身のサラ・パレツキーは、カミンスキーの創作講座を受講してミステリーを書き始めたのだそうです。このミステリー塾でも取り上げた『サマータイム・ブルース』の巻頭で、カミンスキーに感謝を捧げています。今となっては望むべくもありませんが、初老の刑事とチャッキチャキの女探偵がタッグを組む夢の競演を、見てみたかったなぁ。親子みたいな二人が憎まれ口を叩きながらシカゴの街を駆け回り、ケンカをしても野球談議で仲直り……なんて最高に面白そうじゃありませんか。

 相棒のハンラハンもいいキャラですね。真面目人間なのに、ほんの少し気が緩んだ隙に大失敗してしまう気の毒な人。彼がなにかすると心配で心配で、つい「志村、後ろ!」って言いそうになるもの。加藤さんは親近感わくんじゃないの?

 

加藤:ハンラハンはいいキャラだね。娼婦エストラルダを救えなかったというハンラハンの自責の念が、彼の様々な言動を通じて読者に伝わってくる。序盤でもう心を掴まれました。うまいなカミンスキー。どうでもいいけど、いちいち「半裸はん」って変換すんなクソPC。とにかくハンラハンはいいやつなんです。そしていつも損ばかりするんです。なんだか他人とは思えないんです。
 あと、リーバーマンの兄貴のメイシュもいい。カミンスキーはキャラ作りの名人なのだ。

 序盤で掴まれたといえば、エストラルダの過去が延々と語られるプロローグも素晴らしかったなあ。ル・カレ先生の『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の出だしと同じくらい、「なんだこりゃ?」とハテナマークを頭の上に浮かべながら読み進めたることになるんだけど、これが滅法面白い。ここをサラっと済ませることも出来たんだろうけど(そもそも冒頭に持ってくるところが変態的だと思うんだけど)、もう天才かよカミンスキー。

 エストラルダが殺されて物語が動き始めると、捜査をするリーバーマンと相棒ハンラハンの姿を追いながら、そこに様々なエピソードが絡み合ってくることになる。でも、いろんなものがガチャガチャ同時に進行するモジュラー型の警察小説ではないというのが、本作の特徴なんじゃないでしょうか。
 ひとつひとつのエピソードが二人の警察官と今のシカゴ(当時のだけど)を描くうえで必要不可欠で、物語をリッチにしているという感じ。年齢も背景も違うリーバーマンとハンラハンの、控え目でベタベタしない友情というか信頼関係も凄くいい。
 不要なものを極限まで削ぎ落したような尖がったハードボイルドも好きだけど、こういうグラマラスな話もいいものです。そして主人公のリーバーマンのまなざしを通して描かれる世界は、自分が毎日見ている世界よりちょっと優しい気がして、「自分ももっと心に余裕を持って生きなければ」と思わされた今回の読書でした。
「むかし読んだけど、印象にないなあ」というご同輩、ぜひ騙されたと思って再読を。もしも面白くなかったら、うちの畠山が桜田淳子のモノマネで謝ります。

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 スチュアート・カミンスキーの本邦初紹介は本文中にもあるとおり、1979年の『ロビン・フッドに鉛の玉を』でした。当時はローレンス・ブロックやマイクル・Z・リューインなど新しい私立探偵小説の書き手が日本でも話題を呼び始めていた時期であり、小鷹信光氏によってそれらの作家はネオ・ハードボイルドとして一括りの紹介をされ、読者層を広げていきました。ネオ・ハードボイルドと呼ばれる作品群を一口で言ってしまえば内省の小説ということで、主人公が社会を見つめる視線の一部が反射して自己を映し出すことになります。その重層的な視点が魅力であり、トビー・ピーターズの懐古調の物語はどちらかといえば傍流として受け止められたのでした。しかし、犯罪小説に実在の人物をはめ込んでいく配役の妙は素晴らしく、それをシリーズとして書ける点にカミンスキーの非凡さを感じます。

 次にカミンスキーで紹介されたのはソ連のポルフィーリ・ペドロヴィッチ・ロストニコフ主任捜査官を主人公とするシリーズで、1981年の『反逆者に死を』が第一作です。これはKGBの圧力に屈せずに事件捜査を行う主人公像を作り上げたところに意味があり、共産体制下の警察小説という点ではかなり早い作例といえるでしょう。カミンスキーはこのように想像力を大胆に行使して作品世界を築く能力に長けた作家であり、エイブ・リーバーマンのシリーズではそれが1960年代のシカゴというカミンスキー自身の故郷でもある土地に設定されているのです。物語を支えるディテールの緻密さはこの作家ならでは。小味ではありますが、こうした作品を発見したときの喜びは他に代えがたいものがあります。同様の作家として、『鉄道探偵ハッチ』『L.A.で蝶が死ぬ時』のロバート・キャンベル、『キス・ミー・ワンス』のトマス・マクスウェルなどの名前も思い出します。1990年代の翻訳ミステリーでは、彼らのような犯罪小説作家も脇役ながら重要な役どころを担っていたのでした。

 さて、次回はナイジェル・ウィリアムズ『ウィンブルドンの毒殺魔』ですね。こちらも楽しみにしております。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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