1970〜80年代に多感な時期を迎えていたぼくらの世代にとって、映画「さらば愛しき女よ」(1975年)でロバート・ミッチャムが演じたフィリップ・マーロウの姿は、それまでに抱いていた「ハードボイルドの私立探偵」という言葉のイメージをまさに体現していたように思われる。

 レイモンド・チャンドラーの原作(1940年)は、それこそハードボイルド小説の、いや、ミステリーの古典とされているわけだが、この作品の持つムードは、その独特のニヒリズムや退廃性、また蠱惑的な「ファム・ファタール(運命の女)」ヴェルマ(映画ではシャーロット・ランプリングが演じていた)の人物造型ともあいまって、多分に1940〜60年代頃に人気を博した「フィルム・ノワール」の世界を再現してくれていた。

 それもそのはず、チャンドラーのこの名作は、1940〜50年代当時のハリウッドで数多く制作されたフィルム・ノワール作品のひとつとして、「ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet)」のタイトルで1944年にはすでにエドワード・ドミトリク監督により映画化されている。75年版はリメイクということになるのだ。

 フランスの映画評論家・ニーノ・フランクが一連の犯罪映画・ギャング映画に命名した「フィルム・ノワール」の定義はさまざまだし、正直なところ、画面のコントラストだとか登場人物の人格破綻だとか、その定義づけはどうも作る側・観る側の主観に左右されるので、ここではあえて詳しくは語らないことにしたい。それでも、ジャック・ターナー監督の「過去を逃れて(Out Of The Past)」(1947年)や、オットー・プレミンジャー監督の「ローラ殺人事件」(1944年)など、このジャンルの名作とされる作品は、海外ミステリー好きならば一度は耳にしたことがおありだろう。

『さらば愛しき女よ』のように、海外ミステリーの名作を原作にしての映像化ということだと、マイケル・M・ケインの『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』(1934年)などがもっとも有名。こちらもまた、1936年にピエール・シュナール監督、「最後のまがり角(Le Delnier Tournant)」というタイトルでの映画化が最初。その後、ルキノ・ヴィスコンティ、テイ・ガーネットが、それぞれ監督を手がけてリメイクするが、1981年にボブ・ラフェルソンが監督した、ジャック・ニコルソン&ジェシカ・ラング主演による4度目の映画化が、もっとも鮮烈な印象を残したように思われる。3度のリメイクというのは、ケインの作品世界が、まさにフィルム・ノワールを地で行く内容だったことが要因なのだろう。

 前置きが長くなってしまったが、もうお気づきかと思う。今回は少々趣向を変えて、ミステリー小説に登場する音楽を語るのではなく、銀幕のなかへと話題を展開しようというわけである。というのも、ぜひともご紹介したい1枚のアルバムがあるからだ。

 ずばり『フィルム・ノワール(Film Noir)』(1989年)というタイトル。シカゴのベテラン・ジャズ・シンガー&ピアニストのオードリー・モリスが自身のレーベルから発表した、なんとも嬉しいコンセプトの企画もの。【→Amazon.comの商品ページ

 音楽好きのコレクターにとって、アルバムの「ジャケ買い」は珍しいことではない。なぜかたいていは良い勘がはたらくものなのだ。つまりはセンスのいいジャケットで作られているアルバムは、内容もクオリティが高いということ。このジャケットも、私立探偵事務所を思わせるデスクに若き日のオードリーの写真がファム・ファタールよろしく飾られている、モノクロの秀逸な絵柄。

 ジャケ買いの多くの例にもれず素晴らしい内容だったのだが、ほとんどが1940〜1960年代あたりのフィルム・ノワールの名作群からセレクトされている。変則的ではあるけれど、ここはいっそのこと曲名ではなく、曲がとられた元のフィルム・ノワール題名のみを挙げてみよう。全16曲が選ばれた16作品の内訳がこれ。

1「キッスで殺せ(Kiss Me Deadly)」(1955年/ロバート・オルドリッチ監督)、

2「さらば愛しき女よ(Farewell, My Lovely)」(1975年/ディック・リチャーズ監督)

3「暗黒街の復讐(I Walk Alone)」(1948年/バイロン・ハスキン監督)【Amazon.com】

4「まわり道(Detour)」別邦題「恐怖のまわり道」(1945年/エドガー・G・ウルマー監督)【Amazon.com】

5「拳銃魔(Gun Crazy)」(1950年/ジョゼフ・H・ルイス監督)

6「脅迫者(The Rackett)」(1951年/ジョン・クロムウェル監督)

7「堕ちた天使(Fallen Angel)」(1945年/オットー・プレミンジャー監督)

8「Naked Alibi」(1954年/ジェリー・ホッパー監督)【Amazon.com】

9「深夜の歌声(Road House)」(1948年/ジーン・ネグレスコ監督)」【Amazon.com】

10「青いガーディニア(The Blue Gardenia)」(1953年/フリッツ・ラング監督)【Amazon.com】

11「孤独な場所で(In A Lonely Place)」(1950年/ニコラス・レイ監督)

12「クリスマスの休暇(Christmas Holiday)」(1944年/ロバート・シオドマク監督)【Amazon.com】

13「クインシー号の謎(Johnny Angel)」(1945年/エドウィン・L・マリン監督)【Amazon.com】

14「背信の王座(Body And Soul)」(1947年/ロバート・ロッセン監督)【Amazon.com】

15「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice)」(1946年/テイ・ガーネット監督)

16「俺の墓標は立てるな(Let No Man Write My Epitaph)」(1960年/フィリップ・リーコック監督)【Amazon.com】

 1作1作、1曲1曲について語れないのが、ほんとうに残念だ。

 マイナー・レーベルから発表されたこともあって、CDもなかなかにレアではあるが、機会があるなら、どんな名曲がそれぞれのフィルム・ノワールで効果的に使われていたか、想いを馳せながら、彼女のピアノ弾き語りを聴いてみてほしい。そっと目を閉じれば、フィルム・ノワールならではのモノクローム世界が頭のなかに広がっていくこと、間違いないのだから。卑しき街に秘やかに響く蠱惑の調べに耳を傾けようではないか。

 ちなみに話は戻るけれども、75年版の映画「さらば愛しき女よ」には、「パルプ・ノワール」の巨匠とされる作家ジム・トンプスンがヴェルマの夫役でカメオ出演していることも、よく知られている。

【youTube音源】

*残念ながらオードリー・モリスの「Film Noir」からの音源が見当たらなかったので、彼女の生涯を追ったスライドショウで、歌声とピアノを聴いてみてほしい。

*1975年版の「さらば愛しき女よ」から取られた「I’ve Heard That Song Before」は、ジュール・スタインとサミー・カーンのコンビによるスタンダード曲で、1942年のミュージカル(Youth On Parade)のために書かれた。ハリー・ジェイムズ楽団をバックにヘレン・フォレストが歌い上げている。

佐竹 裕(さたけ ゆう)

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 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。

 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。

 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。

 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

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