何度かあからさまなくらいはっきり白状しているけれど、小生、音楽オタクを自認していながら、クラシックやら現代音楽やらにはめっぽう弱い。根っからのポップス人間なのだ。音楽とミステリーとの接点をテーマに書かせていただいているけれども、なんとかそのあたりの話題は周到に避けてきた、としか言いようがありません。

 とはいえ、そうも言っていられないのが大人。どうも無視できない小説に出会ってしまったのだから。事故みたいなもんです。さらに厳密に言うと、ミステリー作品とも言えない。リチャード・パワーズの『オルフェオOrfeo)』(2014年)。

 現代アメリカ文壇を代表する最重要作家とされるパワーズは、『舞踏会へ向かう三人の農夫Three Farmers on Their Way to a Dance)』(1985年)でデビューして以来、その驚異的に該博な知識と徹底した調査・取材によって構築される圧倒的ともいえる物語世界で武装した作品群を次々と発表している。自身もチェロを弾きかなりの音楽通で、バッハのゴルトベルク変奏曲を題材にした『The Gold Bug Variations』(1991年、未訳)、ある天才的音楽一家のサーガを描きつつ人種問題をえぐった『われらが歌う時The Time of Our Singing)』(2003年)など、音楽を題材にした大作をすでにいくつかものしている。最新の邦訳作品となる『オルフェオ』では、さらに焦点を絞り、真っ向から現代音楽史とその有りように、そしてその未知なる可能性に迫った。

 オルフェオとは、ギリシア神話に伝わる竪琴の名手オルペウスのこと。妻を亡くしたオルペウスは彼女を探し求めて冥府へと迷い込み、得意の竪琴で神々を魅了することで妻を連れ帰る約束をとりつける。ただし、冥府を出るまではけっして妻を振り返らないことという条件を付される。が、最後の最後に不安になって振り返ってしまい、永久に妻をうしなうことになる。神話ファンならご存知かもしれないけれど、オルペウスの慢心がたたったという説もある。

 この神話について作中にとくに言及はないながら、オルフェオにあたると思われる主人公というのが、幼少時より音楽にとり憑かれている現代芸術家のピーター・エルズ。芸術に行き詰まり絶望し、引退して老境にあるが、これまでにない音楽の伝達媒体として微生物の遺伝子を利用しようと思いつく。素人でもできるDNA操作によって細菌に音楽を組み込むことで、後世にまで残り、また新たに形作られていく音楽を書こうという計画をたてて実行しようとしているのだ。ところがテロ対策捜査官にバイオテロ犯の疑いをかけられてしまい、逃亡を余儀なくされる。過去に関係のあった女性の助けを借り、車とスマートフォンを与えられたエルズは、危険人物としての自分に関する報道がよりエスカレートしていくのを見聞きしながら、自分がかつて愛した人々や場所を訪ねていく。

 物語の骨子はかようにシンプルである。が、しかし、時制を縦横無尽に行き来して、クラシックから現代音楽、ポップスからスラッシュ・メタルまで、古今東西のあらゆる音楽に言及しつつ(編集部が付した巻末の「曲目リスト」を見れば、その凄まじさがわかります)、一人の人物の、そして彼をとりまく人々の人間模様をつぶさに描いていく。

 パワーズ作品の特徴は、一人の人間の人生の物語と、その家族や友人知人といった人々の物語、そして作品の題材に関わる歴史が渾然一体となり、そこに芸術と科学技術がからんでいき、博覧強記の情報でくるまれ、万能の表現形態としての小説という形に結実させられるというもの。

 期せずして先頃読了して思わぬ感動を受けたジョン・ウィリアムズの『ストーナーStoner)』(1965年)は、農夫の息子に生まれながら(こちらは)文学に魅せられ学者となるストーナーという主人公の物語。これでもかというほどの美しい文章できわめて地味な一文学者の生涯を綴った小説。読んだ印象はまったく異なれど、半世紀あとに発表された『オルフェオ』とどこか根底で通ずるものを感じたのは、ぼくだけではないだろう。

 そう、パワーズ作品の圧倒的な個性の裏には、古今東西の素晴らしい小説が持っていたエッセンスがちりばめられているかのようなのだ。そこに知の巨人の思わぬリーダビリティの秘密があるように思われる。

 たとえば、愛を求めすぎるゆえに甘チャンな音楽しか書けないと親友である演出家・ボナーに面罵されて傷つき、山小屋に引きこもったエルズは、それでも作曲への欲求から逃れられない。図書館の閲覧室で知り合った人妻司書と穏やかな関係を持つが、いつも曲を作っているのに聴かせてくれないのはなぜ? と問い詰められる。

 一般人には受け入れてもらえない音楽を、どこに発表するでもなく、ただただ憑かれたように作り続ける男の姿に、人間嫌いの鬼才パトリシア・ハイスミスの短篇集『風に吹かれてSlowly, Slowly in the Wind)』(1979年)に収録された傑作短篇「頭の中で小説を書いた男(”The Man Who Wrote Books in His Head”)」を、ふと思い出してしまった。一生涯をかけて一切活字にならなかった14冊もの小説を頭の中で創作した男の物語だった。献身的な妻はその、実際には何も生み出さない夫のために生活費を捻出し続けるのだ。

 また、故・都筑道夫さんは、書評コラム『読ホリデイ』で、いまや英国文壇の重鎮イアン・マキューアンの初期長篇『異邦人たちの慰めThe Comfort of Strangers)』(1981年)の冒頭を取り上げて、衝撃を受けたと書いていた。「音のとりあわせによって、風景が浮かびあがってくる」として、そこが凄い、と(ちなみに、英国の美女シンガー&ソングライターのジュリア・フォーダムのデビュー・シングル(1988年)はこの作品と同タイトルだった。何かしらのインスピレーションを与えられたのかどうか、これまた興味深い)。

 マキューアンのそんな試みとは逆に、パワーズは愚直にも言葉で音の調べを詳密に表現しようとする。その試みはその愚直さゆえに、圧巻である。

 エルズが老人たち相手に講師を務める音楽講義で、収容所で作曲しその所内で初演を披露したという、オリヴィエ・メシアンの「時の終わりのための四重奏曲(Quatuor pour la Fin du Temps)」がつくられた経緯を、まさにその初演を再現する形で語る場面。

 逃げこんだ元恋人の別荘で、その孫だか誰かが残していた米国スラッシュ・メタルの雄、アンスラックスのライヴCDをかける場面。

 フィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒ、ラ・モンテ・ヤングと並ぶミニマル・ミュージックなる現代音楽の旗手テリー・ライリーの「インC(In C)」を、ボナーが新しい音楽だとしてエルズと彼の家族に聴かせる場面。

「自分の処刑においてBGMとして使う曲を書く」ドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲5番を、自身が親友とともに手がけた大作『仕掛けられた罠』と重ね合わせて聴く場面。

 音の流れをすべて言葉で表現しようとする、それらの周到な描写には、パワーズ自身の音楽への拘泥と深い深い愛情が溢れているとしか言いようがない。

 物語では、過去の恋愛、結婚、別離が語られるのと並行して、現在の主人公の逃走劇が描かれていくが、行き場のない彼にとっては、そこでも過去に関わった恋人や妻や家族、親友を訪ねるしかできることがない。まるで、ニック・ホーンビィの『ハイ・フィデリティHi Fidelity)』(1999年)やジョン・スコット・シェパードの『ヘンリーの悪行リストHenry’s List of Wrongs)』(2002年)。恋愛や友情や結婚生活で犯した過ちを、正すことの叶わない過ちを、あらためてみずから訪ね歩き、追体験することになる。そうした意味では、自身の人生を再認識するためのロード・ノヴェルでもあるのだ。

 とはいえ、冒頭ではミステリー作品でもないと書きはしたが、バイオテロの容疑をかけられた現代音楽家の逃亡劇と書けば、十分にサスペンスフルではあるだろう。そんな愉しみ方もできなくはない。思えば、全米図書賞を受賞している第9作『エコー・メイカーThe Echo Maker)』(2006年)などは、周囲の人間を同一人物だと認識しないカプグラ症候群を患うことになる青年の話なのだが、その原因となった交通事故の状況自体が不明で、しかも事故当日に病院に届けられる謎の手紙というのが、ひとつの小道具として物語をひっぱっていく。いわばミステリー的な作品であった。

 余談になるけれど、映像の世界では、ジャン・コクトーがオルペウス神話をもとに『オルフェ』(1949年)を監督、映画化している。ボサ・ノヴァの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンの数ある名作の多くを共作しているヴィニシウス・ジ・モライスの戯曲をもとにした「黒いオルフェ(Orfeu Negro)」(1959年)もまた、オルペウスの神話の舞台をブラジルに置き換えたマルセル・カミュ監督による映画化作品。ジョビンに加えてボッサ・ギターの名手ルイス・ボンファが音楽を担当し、ボンファ作曲による主題歌「カーニヴァルの朝(Manhã de Carnaval)」は、ボサ・ノヴァのスタンダード曲として多くのアーティストによってカヴァーされている。1999年には、カルロス・ヂエギス監督により「オルフェ(Orfeu)」として再度映画化され、今度はブラジルの人気アーティスト、カエターノ・ヴェローゾが音楽を担当したことで話題となった。

◆YouTube音源

“Quatuor pour la Fin du Temps” by Tashi

*ピーター・ゼルキン(ピアノ)、フレッド・シェリー(チェロ)、アイダ・カヴァフィアン(ヴァイオリン)、リチャード・ストルツマン(クラリネット)から成るカルテット「タシ」による、オリヴィエ・メシアン作曲「時の終わりのための四重奏曲」。

“A.I.R.” by Anthrax

*米国スラッシュ・メタルの人気バンド、アンスラックスのライヴ演奏。

“In C” by Terry Riley

*ボナーが持ち込んできたリフレインばかりの音楽は、エルズの愛娘を狂喜させる。テリー・ライリー作「インC」。

◆CD

『Quartet for the End of Time』Tashi

*1989年発表のタシ・カルテットによる「時の終わりのための四重奏曲」。

『Caught in a Mosh: BBC Live in Concert』Anthrax

*アンスラックス2007年発表のライヴ・アルバム。

『Symphony No.5 in D Minor』Bernard Haitink (conduct)

*ベルナール・ハイティンク指揮、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」。

◆DVD

映画「オルフェ」

*ジャン・コクトー監督、ジャン・マレー主演。

映画「黒いオルフェ」

*マルセル・カミュ監督、プレノ・メロ主演。1959年発表。

映画「オルフェ」

*1999年に「黒いオルフェ」を新たに映画化したもの。カルロス・ヂエギス監督、トニ・ガヒード主演。

佐竹 裕(さたけ ゆう)

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 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。

 直近の文庫解説は『リミックス』藤田宜永(徳間文庫)。

 昨年末、千代田区生涯学習教養講座にて小説創作講座の講師を務めました。

 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

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