—— 過去とは過ちが去ることである
全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。
「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁)
「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳)
今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!
加藤:早いもので明日からもう5月。かつてこれほど胸躍らないGWがあったでしょうか。まさに緊急事態。これがホントのメーデーですなとか言うてる場合か。ちなみに救難信号のメーデーは5月とは関係なく、フランス語のm’aider(助けて)なんですってね。
それにしても、この1ヶ月の慌ただしかったこと! 東京オリンピックの延期が決まってからまだ1ヶ月とちょっとしか経ってないなんて信じられる?
そんなわけで、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、今回のお題はジョン・モーティマー『告発者』。1992年の作品です。
ちなみにこの1992年は、2月にアルベールビル(フランス)で冬季五輪、7月にバルセロナ(スペイン)で夏季五輪と、夏季と冬季が同じ年に開催された最後の年でした。アルベールビルでは伊藤みどりが銀メダル、バルセロナでは岩崎恭子が金メダルといえば、時代勘がつかめるでしょうか。「バブルが弾けた」と言われた時期でしたが、いまいちピンと来ていなかったのを覚えています。
おっと話がそれました。『告発者』はこんなお話。
ロンドンのテレビ局で会計士として働く素人俳優プログマイアは、ある企画の副プロデューサーに指名される。戦争犯罪をテーマとしたドキュメンタリー番組だ。しかし、できあがってきた脚本は驚くべきものだった。第二次大戦中にイタリアで起きたドイツ軍による虐殺事件は実はイギリス軍の仕業だという告発だったのだ。しかもそれを指揮したのはプログマイアが敬愛する上司のクリスだという。脚本家の名前はダンスター。プログマイアの学生時代からの友人であり、また彼から最愛の妻を奪った因縁浅からぬ男だった——
読後の余韻にひたりながら粗筋を書いていたら、もう一回最初から読みたくなってきた。ああ面白かった。
著者のジョン・モーティマーは1923年生まれのイギリス人。2009年に亡くなっています。ロンドンで法廷弁護士の家に生まれ、自身もオックスフォード大を出て法廷弁護士に。43歳のときには王室の顧問弁護士を務めるほど優秀だったようです。
しかし弁論術ばかりでなく文才にも恵まれたモーティマーは、多忙な仕事の合間に、というかどちらが正業か分からないくらい精力的に、小説やドラマ脚本などを執筆。なかでも弁護士ホレス・ランポールを主人公としたテレビドラマは大ヒットし、小説化もされました。
そんなマルチな才人モーティマーも、日本では残念ながらマイナーな存在なようです。当然のように僕も知りませんでした。本書『告発者』は日本で翻訳された彼の唯一の長編小説だったりします。ところがこれがまた僕の超好み。外角やや高めの絶好球。ポケミスというレーベルとはちょっと合わない気もするヒューマンドラマなのです。コミカルなリーガル・サスペンスと思わせておいて、とんでもなく重厚な読後感を残すすごいやつ。タイプは違うけど、山﨑豊子『白い巨塔』を思い出しました。
主人公のプログマイアは素人演劇にのめり込みながらも、自分の天賦の才は計算能力だと知り、会計士として働く常識人すぎるくらいの常識人。もう一人の主要人物ダンスターは、正義と信じるもののためなら他人を傷つけることを少しも恐れない活力あふれるジャーナリスト。まるで正反対の二人は、認め合いながら憎み合い、惹かれながら衝突を繰り返します。
ところで、今一番やっちゃいけないのがこの「衝突」なわけで、とにかく「三密」を避けなきゃいけないんだけど、こういう時期だから勧めたい畠山さんの「三光(菊池光翻訳作品ベスト3)」は何かな?
畠山:『興奮』『利腕』『度胸』。おのずと三フランシスになるのはご容赦願いたい。どんなに痛めつけられても不屈の精神で立ち上がる主人公に、大いに勇気づけられてください。
実は1992年刊の『ディック・フランシス読本』に、ジョン・モーティマーがフランシスにインタビューをした内容が掲載されているのですよ。「競馬小説の底流となっている道義感をどのように定義するのか」というモーティマーの問いに対する答えは、フランシスファンなら胸キュンまちがいなし。もちろん菊池光訳です。興味のある方は、図書館が再開したら探してみてください。コロナめー!
そんなわけで『告発者』。
タイトルとあらすじから、渋い男たちによる戦時中の証拠集めと緊迫の法廷劇か——と想像していたら全然ちがってビックリ。全体の3分の1を費やして丹念に描かれるのは、プログマイアとダンスターの幼少期からの腐れ縁ぶりです。
ほんとね、このダンスターってやつがめんどくさいの! よくいますよね、自分が正しいと思ったら相手の感情も立場も考えずにまくしたてる人。空気読まないのは悪くはないけど、度が過ぎるとうんざりする。
他方、没個性といえるほどに「普通の人」プログマイアは、常にダンスターに振り回されっぱなし。しまいには妻を寝取られたあげく、結婚式の付添人を頼むなら君しかいない、なんて言われる始末です。
それでもなぜか、付かず離れずのふたり。はっきり言って私の腐女子のアンテナはバリバリに反応していましたが、それはまたいつか別の場所で、とっくりと。
全く性格の違う二人の男の因縁物語という点で、確かに『白い巨塔』に通じるものがあるかも。くどい系ダンスター=織田裕二、あっさり系プログマイア=唐沢寿明、といったところでしょうか。ごめんね、オバチャン、最近の俳優さんはよくわからないの。
さて加藤さんの「三光」はなんでしょね?
加藤:僕の「三光」は『鷲は舞い降りた』『シブミ』『もっとも危険なゲーム』かな(競馬シリーズとスペンサーは除く)。10年前なら『羊たちの沈黙』『深夜プラス1』『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』と言いたかったところ。こちらは全て新訳でお楽しみください。それにしても、並べてみると超ド級の名作ばかり。改めてすごいな菊池さん。
そんなこんなで『告発者』。
相手の痛いところを突く才能の持ち主ダンスターは、実際に身のまわりにいたら嫌でしかたないでしょうけど、他人事なら痛快で面白い。そして鋼鉄のメンタルで信念を貫きとおす彼を、誰もが恐れながら、どこかで惹かれずにはいられない。
そのダンスターが告発したのが、1943年の第二次大戦中にイタリアのある村で起きた虐殺事件です。教会の集会に集まった住民をドイツ軍が皆殺しにしたとされる爆破事件。でも、調べてみるとなんだかいろいろ不自然なんですね。ダンスターは取材のすえ、これはイギリス軍の仕業だと確信を持つにいたります。しかもイギリス軍を指揮していた若き将校は、誰あろうこのドキュメンタリー番組制作の言い出しっぺ。プログマイアが敬愛してやまない上司、テレビ局の会長クリスなのでした。
それを告発することでダンスターに何の得があるのでしょうか。たぶん何もありません。ジャーナリストとしての矜持、名誉欲というだけでは説明できない何か、怒りにも似たものに突き動かされ盲目になっているように思えます。 片やプログマイアは自信をもってその告発を退けます。クリスがそんなことをするはずがないのだから。当然のようにドキュメンタリー番組の制作は中止になり、その内容をマスコミに漏らしたダンスターを、プログマイアは名誉棄損で訴えます。ついに積年の因縁にケリをつけるときが来たのです!
こうして、この本の後半では、その名誉棄損裁判の顛末が描かれます。戦争という究極の非常時、しかも50年も昔の話を掘り返すことにどんな意味があるのか。真実が明らかになったとして誰が得をするというのか。ああ、戦争ってやっぱりイヤだ。
ちなみに本書の原題はずばり『ダンスター』です。
新型コロナの話ばかりで気も塞がりがちな毎日だけど、唯一の救いはたくさん本が読めることですね。そう、私たちには本がある。人によっては向こう2~3年分くらいの。
畠山:あー、ありますよ、3年分くらいの備蓄。本さえあれば暇つぶしには事欠かないので助かります。最近は『ペスト』や『首都感染』が多く読まれているんですってね。私はビビリーナだから、ちょっとムリ。
プログマイアとダンスターの青春時代から、中年になった彼らを再び結びつける戦時中の犯罪の告発、そして舞台は法廷へと移っていきます。この法廷シーンがいかにも英国らしい。カナダ人弁護士が証人に呼びかけるときに、称号と名前を正しく使っていないと裁判長にチクチク嫌味を言われるシーンでは、つい「そこなんだ」とツッコんでしまった。
アメリカの法廷劇のキレッキレ感と比べると、なんだか緩い。でもむしろこちらの方が現実味があるように感じましたね。モーティマーの経歴を考えれば当たり前か。
生き生きと描かれているバイプレイヤー達にもご注目を。
上司クリスとその妻アンジーは、戦争の英雄と一世を風靡した女優のカップル。気さくで素敵な二人ですが、どこか物寂しさを感じさせる佇まいです。
魅力的だけど理解しあうことのできないプログマイアの元妻ベス、偏屈な元舅のブレア少佐、愉快な演劇仲間……といろいろいますが、私のお気に入りは、事務弁護士のジャスティン・グローバー君。家庭が阿鼻叫喚状態になっていて憐れを誘うのですが、意外にちゃっかりした俗物クンです。
加藤さんは「とんでもなく重厚な読後感」だったようですが、私は「苦さと爽やかさの同居する読後感」でした。
人はみんな自分なりの正義感と、今日を生き抜くための方便を、微妙なバランスで使い分けているのかもしれません。そこにダンスターのような人物が現れて、問答無用で片っ端から断罪を始めたらどうなるか。「正しいこと」ってなんだろう。そんないくつもの問いに対して、ケースバイケースの答えが用意されていたと思います。
そして運命の男二人の決着を見届け、ふと浮かんだ言葉は「強敵と書いて友と読む」。うむ。
さてこのご時世で、いろいろなイベントが見送りを余儀なくされています。読書会も然り。でも、転んでもタダでは起きないのが翻訳ミステリー読書会。一部ではオンラインでの読書会が実験的に始まっています。札幌でも先日、体験会を行いました。最初はドキドキですが、顔をみて話すとすぐにリラックスできますね。なにより遠方の方と気軽につながれるのが大きなメリットです。もしかしたら、読書会の楽しみ方はもっともっと幅が広がるかもしれませんよ!
■勧進元・杉江松恋からひとこと
ジョン・モーティマーのもう一冊の邦訳書、『ランポール弁護に立つ』は〈KAWADE MYSTERY〉の一冊として2008年に刊行されています。本文中に出てきた熟練の法廷弁護士、ホレス・ランポールを主人公とした連作短篇集で、本国では1978年に刊行された第一作品集の翻訳です。モーティマーの短篇は散発的に邦訳されてきましたが、それでも知る人ぞ知る存在でした。『告発者』に目をつけて訳された若島正さんの慧眼に感服するばかりです。
『告発者』は中流階級の男を描いた性格喜劇です。性格喜劇、キャラクター・コメディとは主人公の性格ゆえに事態が作り上げられ、そのために笑うしかないような状況に嵌まり込んでいく物語のことです。英国小説の一類型として定着しておりますし、これにプロットのひねりを追加してスリラーとして完成させた小説をみなさんもたくさん読んでこられたのではないでしょうか。たとえばアントニイ・バークリー『殺意』、リチャード・ハル『伯母殺人事件』などといった作品は、倒叙ミステリーと呼ばれますが、主人公の妄執が殺意を引き起こす性格喜劇です。この手の作品では、私はウィンストン・グレアム『幕が下りてから』を偏愛しております。この小説は全篇をかけて主人公が自分の妄念に気づくという落ちへ向けての長い長いねた振りのような小説なのでした。
『告発者』のおもしろさは、主人公であるプログマイアと敵役であるダンスタンが同窓生の間柄で、同じ階級に属している点にあります。このあたり私は、『ブライズヘッド再訪』や『大転落』のイーヴリン・ウォーを連想してしまいます。同じ階級なのだが、やることなすことが自分よりもダンスタンのほうが上手い。しかも妻まで寝取られ、間抜けなコキュにされてしまうのですから立場がありません。プログマイアは自分がそうであったらよかったのにという鏡像と闘っているようなものです。しかし現実には自分はプログマイアでしかない。物語後半で展開される抗争は実のプログマイアと幻のプログマイアの闘いでもあります。そのどちらに軍配が上がるか、というところが実にイギリスらしい倫理観で描かれています。読む人によっては本作は普通小説なのでしょうが、そこにミステリー的なプロットをかませて意外性のある結末を持ってきた点がモーティマーの手柄です。こうした周縁作品によってミステリーというジャンルの幅が広がり、豊かになっているのだということを示したくて『告発者』は100作に加えました。機会がありましたらぜひ『ランポール弁護に立つ』もどうぞ。
さて、次回は『極大射程』ですね。こちらも期待しております。
加藤 篁(かとう たかむら) |
愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato |
畠山志津佳(はたけやま しづか) |
札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N |