——競馬に興味がなくたって、読まず嫌いはモッタイナイ!

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

加藤:早いものでもう11月。さすがに朝夕は寒くなってまいりました。

 それにしてもアメリカの大統領選は盛り上がってますねー。今後、国語辞典の「泥仕合」という言葉の用例に使われることになるのではないかというくらいの見事な泥仕合。つくづく自分の国でなくて良かったと思っちゃいます。

 日本では先週のプロ野球日本シリーズが凄かったですねー。できれば、第7戦で黒田と大谷の投げ合いが見たかったけど、まあ仕方ない。

 おめでとうファイターズファンの皆さん、おめでとう北海道の皆さん。おめでとう畠山さん。

 ところで、僕が畠山さんと知り合ったのは、もうかれこれ20年近くも前なのですが、彼女と知り合って良かったと思う数少ないことの一つが、今回のテーマ本『大穴』の作者ディック・フランシスを読めと勧めてくれたこと。

 今も昔も競馬に興味のない僕は「競馬シリーズ」と銘打たれた漢字二文字タイトルの一連の作品群を完全にスルーしていたのですね。今となっては自身の不明を恥じるばかりです。

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』をテキストに、翻訳ミステリーとその歴史を学ぶ「必読!ミステリー塾」。いよいよやってまいりました。今回のお題は畠山さんの偏愛作家ディック・フランシスの『大穴』です。

 これほど読者を選ばず、誰が読んでも面白いと感じるに違いないって思える本を、僕は他にあまり知りません。

 このサイトでは、五代ゆうさんが「初心者のためのディック・フランシス入門」を書かれていましたね。

  ■初心者のためのディック・フランシス入門(執筆者・五代ゆう)

 ディック・フランシスを語るときに僕が語ることは(ハルキ風)、これはもう過去にプロアマ問わず多くのレビュアーたちが100万回くらい繰り返してきたこのフレーズに尽きると思うのです。

「競馬に興味がないからって、ディック・フランシスを読まないなんて勿体なさすぎる」

『大穴』は競馬シリーズの4作目で1965年の作品。シリーズを代表する人気キャラクター、シッド・ハレーの初登場作です。こんなお話。

 かつて障害競馬のトップ・ジョッキーだったシッド・ハレーは、レース中の事故で左腕を怪我し、引退を余儀なくされた。人生に希望を無くし、いつしか妻からも見放された彼は、拾ってもらった探偵社の末席で無為な時間を過ごす日々。

 しかし、調査の最中に銃撃され、シーベリィ競馬場を巡る陰謀に巻き込まれてゆく彼は、次第にかつての熱いものを取り戻してゆく……。

 ディック・フランシスは1920年生まれのイギリス人作家。狩猟用馬厩舎の支配人の家に生まれ、幼い頃から馬に親しんで育ったそうです。第二次大戦ではイギリス空軍に入隊し、戦争後はアマチュアの障害騎手として活躍。プロに転向してからは、全英チャンピオンになるなど、人気ジョッキーとなりました。1957年に引退して競馬記者となり、自叙伝『女王陛下の騎手』を発表。1962年に『本命』を発表しミステリー作家としてデビューを果たしました。CWA賞、MWA賞など受賞作多数。

 ディック・フランシスが発表した40を超える作品は、すべて競馬を題材にしているものの、それぞれは独立した話で、どんな順番に読んでもOKなのですが、数少ない例外のひとつがシッド・ハレーを主人公とする『大穴』『利腕』『敵手』『再起』の4作。ハレーは元障害競馬の騎手で左腕を負傷して引退、現在は全く畑の違うハント・ラドナー探偵社で働いています。

 そう、シッド・ハレーはフランシス自身の分身でもあるのです。

 ディック・フランシスの競馬シリーズの特徴は、とにかく主人公が格好いいところ。いや、恰好よくない主人公が頑張る姿が格好いいというべきか。

「克己」「再起」というのは小説によくあるテーマですが、この『大穴』はその最高峰ではないかとすら思います。未読の方はとにかく読んで欲しい。気持ち良いカタルシスに爽やかすぎる読後感。よーし、俺も私もまた明日から頑張るぞと、きっと読んだあとには元気が湧いてくるに違いありません。

 あ、なんか背中から圧を感じる。早く切り上げてバトンを渡せという声が遥か北のほうから声がする。

はいはい分かったよ、畠山さん、さあどうぞ。

畠山:こんにちは。競馬シリーズは本をビニール袋に入れてスーハースーハー吸引したい(←合法です)、死んだら棺桶に『興奮』を入れてほしい(生き返るかも)というくらいの筋金入りファン、スジガネーゼ畠山です。

 本当は勢いよく語り始めるつもりだったんだけど、日本シリーズで連日倒れそうなほどドキドキしちゃって、興奮が過ぎ去った今、軽い虚脱状態なのよ。いや〜〜疲れた。

 実は私が観ると負ける、9回裏ツーアウトランナーなしからでもひっくり返されるといういわゆる「(厄病)神ってる」人間なので、周りからは日本シリーズ期間中テレビ禁止令がでておりましてね、ええ。こそこそとネット速報を見ては一喜一憂する星明子もどきの苦労が報われました。おかげさまでシャ〇エッセンの美味しい毎日です。

 では気持ちを入れ替えて。

 私がディック・フランシスを読んだきっかけは友人が貸してくれた数冊の本の中に混ざっていたから。「競馬ねぇ…興味ないんだけど(ため息)」てな感じでページを開くまでは期待値ゼロでした。ところがいきなり冒頭で鷲づかみにされ(フランシスの“つかみの一文”は名人芸だと思う)、譲れない確固たるものを秘めた不屈の主人公にガビーンとやられました。そしてキレと品のある訳文。それまでいくつかの有名な海外ミステリを読んでも特にハマることもなかった私が取りつかれたように次々とシリーズを買い漁り、その間他の本には一切手を出さずに既刊を全て読みつくした。幸せな体験だったなぁ。

 競馬に興味がない人に振り向いてもらうためになにかグッとくるシリーズ名はないかと思うものの、どの作品にも多かれ少なかれ競馬テイストが入ってくるのでやっぱり「競馬シリーズ」としか言いようがない。大変申し訳ないのですがここは諦めて(すでに説得モード)、どうか「競馬」の文字を忘れて手に取ってほしい。そこにいるのは“自分の職業に愛着を持つ人”です。確かに主人公が競馬関係者であるパターンは多いけれど、俳優、銀行員、玩具屋、教師、酒屋などなど様々な職業が描かれいて読み応え抜群の「お仕事小説」シリーズでもあるのです。業界リサーチ担当はフランシスの愛妻メアリさん。彼女の功績は非常に大きく、競馬シリーズは夫婦の二人三脚によって生み出されました。

 誰でもが好きなことでメシが食えるわけではないけれど、フランシスを読むとボヤいてないで明日も頑張ろうかなぁと思える。加藤さんでさえそう思うらしいから間違いない。

 その奥様の影響なのかと勝手に想像していますが、競馬シリーズは女性もいいんですよ。

 競馬シリーズでは際立った女性キャラがいないと言われことが多いのですが、侮るなかれ。シンボリックな存在はいなくてもシリーズを通して自立した女性たち——職業を持ち、はっきりと自己主張し、自分のための決断を下せる女性たち——が瑞々しく描かれています。

『大穴』におけるザナ・マーティンもその一人です。顔に大きな傷(それは取りも直さず心の傷でもある)をもつこの女性の踏み出す一歩にぜひご注目いただきたい。そこにはハンディのある人に対する安っぽい同情はありません。

 性別や障害に対する非常にフラットな感覚はこのシリーズが1960年代から書かれていることを考えると驚異的ではないかと思うのです。いい人すぎるゾ、フランシス。気持ちいいゾ、競馬シリーズ!

 とはいえ、やはり主人公のカッコよさに触れないわけにはいきませんね。

 シッド・ハレーの造形は栄光から一気に転落した男が見事に立ち直りました! という単純なものではありません。失ったものへの未練が立ちきれず(『大穴』)、右手までも失うのではないかと怯え(『利腕』)、時には惨めに逃げ出すこともあります。

 でも『敵手』では自分が悪夢に襲われて汗だくで目覚めた後にもかかわらず、持ち馬を傷つけられた難病の少女のことを考え「可哀相なレイチェル、できることなら、私がきみの悪夢をみてやりたい」と思う。自分の荷物ですら重くて重くて堪らないのに、自分より弱い人の荷物を黙って引き受けるコレですよ、コレ! 涙でそうなほど素敵。

 そういえば加藤さんは、富士山頂読書会の時に女性陣の荷物を持ってあげたりして、かなり株価が上がってたね。やるね、それなりに学んでるね、キミ。

加藤:ディック・フランシス作品について、あえて難を挙げるとすれば、タイトルが全て漢字二文字なので、ランダムに読んでいくと既読と未読が分からなくなることですかね。あと、敵と味方、善と悪がとても分かりやすいこと。でも、これは美点でもあって、脇に至るまでのキャラクターをあいまいにしない男、それがディック・フランシスなのです。

 そして、ディック・フランスシスといえば、菊池光さんの翻訳です。スエター(セーター)とかテイブルなど、こだわりのカタカナ表記はつとに有名ですが、それ以上に「私が言った」とか「〜なのだ」など、読んでいるとその独特のリズムがクセになるのが菊池文体。

 別の作品ですが、分かりやすいところを引用するとこんな感じです。

「可哀相に、相当ひどいのだ。治るまでに何週間もかかりそうだ。今年は優秀な馬がそろったのに、自分が病気だからといって、出走させないようなことは許されない、といいはるのだ。君に頼んでみろ、と息子がいったのだ。彼の考えなのだ」(『飛越』より)

 畠山さんは当時から、その世界では(どの世界だよ)知る人ぞ知るハルキストならぬキクチストで、ディック・フランシスのファンサイトの管理人でもあったのですが、ある日、サイトの掲示板に「菊池訳は『なのだ』が連続して読みにくい」という書き込みがあったのですね。それに対して畠山さんがフォローのつもりで書いたという返事が「<某有名アニメキャラ>みたいに読んじゃダメよ」。サラっとトンデモないこと書いてんじゃねーよ、このしくじり先生が!

 これを見てしまった人は、以後、シッド・ハレーやダニエル・ロークはもちろん、スペンサーやレクター博士からシュナイタ中佐まで、彼らの台詞がすべて<某有名アニメキャラ>の声で再生されるようになったといいます。そして(僕を含む)多くの被害者はそれに今も苦められているのです。

 そんなわけで、貴方も今日からボクらの仲間。これでいいのだ。

畠山:あれは痛恨の失敗だったなぁ…名だたる冒険小説のヒーローがみんな「〇ちまき・〇なげ・〇らまき」に変わったってんでホント恨まれました。「このオトシマエをどうつけてくれる」「何も知らなかったむかしの自分に帰りたい(滂沱)」「アンタ、それでもキクチストか」…嗚呼、あの呪詛の声がいまだに耳にこびりついている。でもあの漫画って日本のシュールレアリズムの代表だと思うけどな。(そういう問題ぢゃない)

 この悲しい呪いは戸川安宣さんがきれいに打ち払って下さいますので→コチラをどうぞ。

 そんなこんなで(←先生! この人お茶を濁してます!)名作家と名翻訳家によって届けられたこのシリーズの他にない魅力、それは「乗った気」になれること。競走馬に。しかも時々落馬もできる。痛いの、コレが、マジで。

 馬場から見渡すスタンドの風景、ターフの匂い、足に伝わる馬の筋肉の躍動、手綱を通して互いの意図をわかりあう言葉のない世界。 “人馬一体”の真の姿。馬も騎手も走るために生まれ、勝つために走る、ただそれだけの瞬間。一歩間違うと死につながる危険は百も承知。そのスリルに身を任せる麻薬のような快感。馬に触ったこともないような人間をフランシスはあっという間に鞍上に乗せてくれる。フランシスを読まなかったら競走馬と騎手だけに許されたこの空間を垣間見ることは一生なかった。

 そしてさすがに元勝負師の思想だなぁと思うのは、人生はいいこともあれば悪いこともあるし、そもそも世の中は公平ではないのだとあっさり割り切っているところ。

 シッド・ハレーを始め数人の主人公たちが生い立ちだけでたっぷり長編が書けるような背景を持っていたりするけれど、押しなべて「まぁそんなもんだろう」と頓着した様子をみせません。

 今日は負けても明日勝つために努力を惜しまないこと、不公平を嘆くよりそれを打ち負かすために力いっぱい立ち向かっていくことは誰にでも、もちろん君にもできるんだよという力強いメッセージが伝わってきます。

 菊池先生亡き後はお弟子さんの北野寿美枝さんが、そしてフランシス亡き後は息子フェリックスが、それぞれ先代の味を守って(>定食屋か)シリーズを続けて下さっているのが無上の喜びです。(だから次も出版して下さい〜〜〜)

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 ディック・フランシスは巻き込まれ型スリラーの天才であったと思います。『マストリード』では一冊読むと後引きでシッド・ハレーものの続篇にも必ず手を出したくなるだろうということで『大穴』を選びましたが、彼の作品はシリーズ・キャラクターを必要としないプロットの強さを持っています。毎回違った難事の中に主人公を投げ込むことにより、鮮度のある物語を読者に与え続けたのがフランシスという作家でした。彼の作品を読んだ人が中毒になる理由もわかります。毎回違っていて、しかししっかりとディック・フランシスなのですから。ミステリーというジャンルには結末のサプライズ、謎の牽引力、推理ゲームの駆け引きなど、さまざまな要素が含まれています。その中でも先の読めない物語展開を最も大事にしたのがディック・フランシスという作家でした。これから作家を目指す人には、ぜひ彼の作品を読んでお手本にしてもらいたいと思います。

 さて、次回はギャビン・ライアル『深夜プラス1』ですね。楽しみにしております。

加藤 篁(かとう たかむら)

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愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。 twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

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札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?) twitterアカウントは @shizuka_lat43N

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 ■シッド・ハレー・シリーズ(4作)