マイケル・フランクスといえば、AOR(Adult Oriented Rock)のジャンルでは代表的なアーティストの一人。フォーク、ロック、ジャズ、ボサノヴァ、ソウル、ブルースなど、さまざまな音楽のエッセンスを複合させ、腰から力が抜けてしまいそうな独特のウィスパリング・ヴォイスとあいまって、唯一無二の絵画的音楽世界を創りだしていった。
 オレゴン大学で比較文学の修士号を取得、米文学の博士課程でティーチング・アシスタントとして教鞭をふるったこともあったという経歴のなせる業か、彼のウィットに富んだ知的な歌詞は、その楽曲の大きな魅力のひとつだ。
 クルセイダーズのジョー・サンプル、ウィルトン・フェルダーに加え、マイケル・ブレッカー、デイヴィッド・サンボーンら、ジャズ系の敏腕ミュージシャンをバックに迎えた、ワーナー・ブラザーズでの初アルバム『アート・オブ・ティー(Art Of Tea)』(1975年)が話題となり、続く『スリーピング・ジプシー(Sleeping Gypsy)』(1977年)もヒット。そこに収録された「アントニオの唄(Antonio’s Song)」は、ボサノヴァの生みの親の一人アントニオ・カルロス・ジョビンに捧げた名曲としてスタンダード化。サリナ・ジョーンズから南沙織まで、多くのシンガーによってカヴァーされている。ワーナー・レーベル所属人気アーティストの一翼として、その後の安定した活躍ぶりは周知のことと思う。
 が、そもそも14歳でギターを手にしてから独学で音楽を学び楽理も知らないまま音楽の世界に入ったので、『アート・オブ・ティー』以前にはミュージシャンとしての苦節時代を経験。デビュー・アルバムにあたる『マイケル・フランクス(Michael Franks)』(1973年/1984年に『Previously Unreleased』に改題し再発)は「Can’t Seem To Shake This Rock And Roll」がわずかにヒットしただけで鳴かず飛ばず。一方で、若き日のマーク・ハミルが主演した『Anthems in E-♭』なる反戦ミュージカルを制作したり、リヴ・ウルマン、ジーン・ハックマン主演の『西部に来た花嫁(Zandy’s Bride)』(1974年)など、映画音楽もいくつか手掛けていた。
 そのなかの1作が、なんと、大物プロデューサーのロジャー・コーマン製作、モンテ・ヘルマン監督による『コックファイター(Cockfighter)』(1973年)。そう、昨年、幻のカルト・ノワール『拾った女Pick Up)』(1955年)がようやく邦訳紹介されて話題となったチャールズ・ウィルフォードの小説を原作とした映画である。
 ここでフランクスは、バンジョー、ギター、フィドルといったシンプルな編成での牧歌的な音楽を提供している。
 さらに、ジム・トンプスンがレイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よFarewell My Lovely)』(1940年)の映画化作品(1975年)に俳優として出演していたことは、ミステリー・ファンの間でもよく知られているけれども、この『コックファイター』では、ウィルフォード本人が、闘鶏のレフェリーでフランクに闘鶏を譲る伝説の闘鶏家役として、カメオ出演どころじゃない演技を披露している。


 そこで本題です。この映画の同名原作小説『コックファイターCockfighter)』(1962年)もまた、『拾った女』の余波を受けてか、このたびめでたく邦訳紹介された。
 映画化もされて人気を博した『マイアミ・ブルースMiami Blues)』(1984年)から、『マイアミ・ポリスNew Hope for the Dead)』(1985年)、『あぶない部長刑事Sideswipe)』(1987年)、『部長刑事奮闘すThe Way We Die Now)』(1988年)と続く部長刑事ホウク・モウズリーのシリーズや、クェンティン・タランティーノに多大な影響を与えたとも言われている傑作ノワール『危険なやつらThe Shark-Infested Custard)』(1993年)で知られるウィルフォードの代表作ということで、こってこてのノワールを期待する向きも多いかと思う。けれどもこの作品、あらすじもいたってシンプルなストレート・ノヴェルと言っていい。徹底して闘鶏にとり憑かれた一人の男を描いた物語だ。

 主人公の闘鶏家フランクは、安酒場で拾った少女ドディと二人でキャンピングカー暮らしをしながら、各地の闘鶏大会の会場へと顔を出している。闘鶏育成の腕にかけては右に出る者がいないほどの逸材だが、冒頭で、自分の育てた闘鶏の嘴に故意に傷をつけ、百戦錬磨のファイターに見えるように細工を施した部分が弱点となって完敗。賭け勝負のカタとしてキャンピングカーとドディを、ライバルのジャックに丸ごと奪われてしまう。
 一から出直すことになって、引退を決意した先輩闘鶏家エドに闘鶏を譲ってもらうことになるが、足を洗う踏ん切りのついていないエドはイチ押しの鶏に法外な値をつけてくる。諦めきれないフランクは、酒場で少しばかり腕におぼえのあるギター演奏をして小銭を稼ぎ、そこで知り合った富豪の未亡人バーニスに招かれ個人的に演奏を披露して謝礼を手にし、弟夫婦が住みついている家を勝手に売り払い……と、金を工面するためになりふり構わない行動に出る。
 フランクには農場主の妹メリー・エリザベスという愛する婚約者がいるのだけれど、理解不能の残酷な闘鶏などという道楽を卒業して、早く自分と結婚してほしいという思いが彼女にはあった。だが、彼の目指すものは、南部連盟トーナメントの最優秀闘鶏家賞の受賞者に贈られるメダル。誰もが認める闘鶏家としての実力にも関わらず、おのれの虚栄心とデカい口のせいで、あと一歩のところでそれを逃してしまった悔しさを忘れられずにいるのだった。潤沢な資金と闘鶏を持つ元代理店勤務の変わり種闘鶏家オマーとパートナーを組むことにしたフランクは、着々と戦績をおさめ続け、メダル獲得を目指して南部連盟のトーナメントに挑むことになる。

 この小説の肝となるのは、主人公の闘鶏狂フランクが、最優秀闘鶏家賞のチャンスを逃してから、いっさい口をきかない沈黙の誓いをたてているという特異な設定だ。
 会話体以外の叙述部分、いわゆる地の文は主人公の一人称一視点での独白なので、いわばこれはウィルフォードが自身を主人公に投影し語らせたもの。その地の文では、頑なに沈黙を続ける主人公に存分に喋りまくらせる。ウィルフォード自身のもともとの博識なのか、あるいは取材で得た情報なのかわからないけれど、とにかく惜しげなく並べ立てる、狂躁ともいえる饒舌な語り口。微に入り細をうがって闘鶏を熱く語るものだから、読者にしてみたら、口をきかない主人公の小説でありながら、これでもかというほどに饒舌な印象を受けることになる。なんともシニカルな設定ではないか。
 こうしたシニカルさは、作中に散見する。
 たとえば、一目惚れしたミドルトン・グレイ血統の闘鶏に、フランクは“イッキー(icky=sticky)”つまり“甘えん坊”という意外な呼称をつける。人懐っこいその性格と勝負の場での執拗な凶暴さとのギャップを楽しみ、かつ主人公の執着も匂わせてネーミングしている意図が見受けられるのだ。
 チャタヌーガでのダービーでは動物虐待防止協会と警察の取り締まりを恐れた主催者が、ホテル内で内密に大会を決行しようとするが、いやな予感から辞退したフランクが後に知ったのは、集まった全員が警察の手入れではなく強盗団のホールドアップに遭ったという報告。集まっていた全員それぞれの財布の入ったズボンをすべて持っていかれてしまったという皮肉な結果となる。

 若干そのシニカルさと関連するけれど、人物造型や設定・展開などにおける対比への拘泥も顕著な要素だ。沈黙と饒舌、挫折と栄光、貧困と富、欺瞞と誠実。さらに、どの作品にも共通するのだけれど、文学や絵画、地理学や歴史への言及が多く、ほぼウィルフォード解説御担当と言ってもいい滝本誠氏の巻末解説によると、メルヴィルが『白鯨』を鯨百科としたようにウィルフォードは『コックファイター』を闘鶏全書にしたとのこと。けだし名言です。それは饒舌な人物に特有の蘊蓄の披歴癖にも思えなくはないのだけど、それがもっとも顕著だった例が晩年の傑作『危険なやつら』だ。主要登場人物の4人の男たちそれぞれの職業について、また住環境についての蘊蓄の嵐。それが人物造型に深みを与えているのも事実なのだけど、そもそもすでに刊行された第1部に書き足して1冊にしたというものだというので、これって、ウィルフォードが語り足りなくて増やしたと思えなくもない。
 余談だけれど、この『危険なやつら』ではドライブイン・シアターが重要なシーンとして描かれていて、モンテ・ヘルマン監督が『コックファイター』の3年前に手がけた映画『断絶(Two-Lane Blacktop)』(1971年)の話題が出る。そこで男たちのうちの一人が、ウォーレン・オーツ以外は大根役者だった、という台詞がある。
コックファイター』をウィルフォードがいかに評価しているか伝わってきて、ファン心くすぐられる場面だ。ちなみに、この『断絶』、人気シンガー・ソングライターのジェイムズ・テイラーとビーチ・ボーイズの故・デニス・ウィルソンが主演を務めていた。

 さらに、滝本氏いわくウィルフォードの“アート・ノワール”3部作を構成するという、『拾った女Pick Up)』(1955年)、『No Experience Necessary』(1962年)、『炎に消えた名画アートThe Burnt Orange Heresy)』(1971年)。このうちの『炎に消えた名画アート』もまた、主人公(もしくは作者)の饒舌さが炸裂した作品だ。パトリシア・ハイスミスの異色短篇「頭の中で小説を書いた男(The Man Who Wrote The Books in His Head)」なんかを想起させる、あっと驚く変化球が使われていて、よりミステリー・ファンにも嬉しい内容の逸品ですが、この中で、生きる伝説と化したフランス人画家ドゥヴィエリューが移り住んだカリフォルニアの家は、もともと闘鶏を育てるために元の持ち主が手に入れた土地だという設定。このあたりに、『コックファイター』の残滓が感じられて、にやりとさせられる。
 これまた今年ジュゼッペ・カポトンディ監督により映画化されていて、『ザ・スクエア 思いやりの聖域(The Square)』(2018年)のクレス・バングが主人公の美術評論家ジェームズを演じ、ミック・ジャガーとドナルド・サザーランドが脇を固めている。そしてなんと、脚本を『シンプル・プランA Simple Plan)』(1993年)のスコット・スミスが担当。ジェームズと恋人ベレニスの二人のシーンを幾度か彩る、ロジャーズ&ハートの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン(My Funny Valentine)」もまたシニカルなラブソングだけど、映画の中ではマイケル・フランクスのウィスパリング・ヴォイスで聴いてみたかったところである。

 じつは『コックファイター』の原作では、物語の中盤、主人公のフランクが30ドルで質流れのギブソン・ギターを手に入れ、我流で演奏技術を習得。物語を感じさせるようなオリジナル曲3曲だけしか弾けないながら、そのユニークな奏法に観客が喝采するというエピソードが出てくる。このギターがらみの話題が延々と語られるのだ。闘鶏の資金集めのために演奏したバーで紹介された金持ちの未亡人バーニスに自宅まで連れていかれて、そこでも演奏を披露。魅力的な未亡人と深い関係になるのだけど、このくだりはゆうに2章分にもわたる。その後も、何も告げずに去ったフランク宛に、バーニスからオリジナルのエレキギターが贈られてくるという後日談まであるし、ラストにまでバーニスは登場している。
 というのに、映画では、主演のウォーレン・オーツが一人部屋の中でポロンポロンとギターを爪弾く数秒のシーンが挿入されているのみ。大胆にカットされているため、重要な登場人物であるバーニスも当然ながら姿を見せない。おのずとラストシーンも、映画と原作とでは少々印象が変わってくるのです。
 その印象的なラスト。フランクの婚約者へ対する想いに嘘はなかったのだろうけど、いかんせん闘鶏への愛が勝ってしまったのだろう。最後に婚約者に突きつけられるものは、ユーミンの「真珠のピアス」同様、愛の敗残者に向けた過酷な記念品となる。

◆YouTube音源
■”Antonio’s Song” by Michael Franks

*1993年来日時のブルー・ノート東京にて。ライブでの定番となっているカバサを手にしながらの「アントニオの唄」。

◆関連CD
■『Art Of Tea』Michael Franks

*通算2枚目、ワーナー・ブラザーズ移籍後初のアルバム『アート・オブ・ティー』。クルセイダーズのジョー・サンプル、ウィルトン・フェルダーの他、マイケル・ブレッカー、デイヴィッド・サンボーンら名うてのセッション・ミュージシャンを従えたAOR/ジャズの名盤。
 
*「真珠のピアス」収録の1982年のアルバム。

◆関連DVD・Blu-ray
■『コックファイター』

*製作のロジャー・コーマンみずからが、こんな映画観たことないと言ったという、稀有な闘鶏映画『コックファイター』。

■『断絶』

*モンテ・ヘルマン監督が『コックファイター』の3年前に手がけた映画。ジェイムズ・テイラーがレーサー、デニス・ウィルソンが整備士に扮し、この二人組が一人の娘(ローリー・バード)に振り回され、ウォーレン・オーツ演ずるベテラン・レーサーとカー・レースで競うことになる。

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。









*「頭の中で小説を書いた男」(大村美根子訳)所収

The Burnt Orange Heresy | Official Trailer (2020)

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