このところ、シアーシャ・ローナンの出ている映画を追いかけている。好みの顔立ちだというわけでもないこの人気女優が気になってしまったきっかけは、もちろんその演技力と存在感が大きいわけだけど、Saorise Ronanという、まったくもって名前の綴りが想像つかないものだと知ってから。ゲール語の“自由”を意味する言葉から来ているそうだ。
 それだけではない。英国のブッカー賞作家・イアン・マキューアンの『贖罪Atonement)』(2001年)を原作としてマキューアン自身が製作総指揮も手がけた、映画『つぐない(Atonement)』(2007年)に出演し、やはりマキューアンの『初夜On Chesil Beach)』(2007年)の映画化作品『追想』(2018年)では主演に抜擢。他にも、アリス・シーボルドとメグ・ローゾフの、どちらもベストセラー小説を映画化した『ラブリーボーン(The Lovely Bones)』(2009年)、『わたしは生きていける(How I Live Now)』(2013年)、さらには『ハイ・フィデリティHi Fidelity)』(1995年)のニック・ホーンビィが脚本を担当した『ブルックリン(Brooklyn)』(2015年)など、小説好きにとって気になる作品ばかりに、年若くして次々と出演、挑んでるなあ、という印象だったからなのです。
 そしてそして、先頃日本公開されアカデミー賞でも各部門にノミネートされて話題となった、グレタ・ガーヴィク監督による映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語(Little Women)』(2019年)。ルイーザ・メイ・オルコットのエヴァーグリーンな名作『若草物語Little Women: Or Meg, Joe, Beth & Amy)』(1868年)の、なんと8度目の映画化作品(日本での森永健次郎監督によるリメイクも入れると9度目)で、シアーシャはヒロインのジョー役を演じている。これがまた素晴らしい。
 にわかシアーシャ・ファンと化した自分にとって、彼女が扮したジョーを中心とする『若草物語』の4人姉妹の世界は、胸しめつけられる郷愁にも似た感情を甦らせるものでした。


 何というか、オルコットがいまの時代に生きていたら、こんな兄弟姉妹を描くかもしれない、と思わず考えてしまったのが、今回ご紹介するスコットランド在住の大注目作家、ケイト・アトキンソンの小説世界。アトキンソンは、デビュー長篇『博物館の裏庭でBehind the Scenes at the Museum)』(1995年)で、いきなり英国の権威ある文学賞ウィットブレッド賞(現コスタ賞)を受賞した気鋭の作家だ。
 新潮クレスト・ブックスがらみの注目の海外作家たちに焦点をあてたムック『来たるべき作家たち 海外作家の仕事場1998』に、邦訳刊行前のインタビューが掲載されていて、デビュー長篇は、過去と現在という2つの小説を脚注という形で繋ぐことでひとつの小説として成立できた作品だと語っている。そして、そこではジェイン・オースティン好きを公言して憚らないが、作中でもオースティンに言及することがしばしばあることから、『若草物語』というより『自負と偏見Pride and Prejudice)』(1813年)のベネット家5人姉妹のほうが、よりアトキンソンにとっては影響が大きかったのかもしれない。

 デビュー長篇『博物館の裏庭で』は、ペットショップを経営する家族を母の世代と娘の世代とで交互に描く、壮大かつ極めてドメスティックな物語。それも、ヒロインであるルビーが母親の胎内にいる頃から語り始められるという、何とも凝ったメタフィクション風の作品だ。
 主人公が誕生前の精子だった頃から語り始められるという、夏目漱石によって日本に紹介された英国作家ロレンス・スターンの一大奇書『トリストラム・シャンディThe Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)』(1759年)が、この手の奇想小説の先駆けとされているけれど、後出だと、同様に胎児が語り手となる、前述のマキューアン最新作『憂鬱な10カ月Nutshell)』(2016年)なんてのもある。映画ですぐさま頭に浮かぶのは、『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSexのすべてについて教えましょう(Everything You Always Wanted to Know About Sex* (*But Were Afraid to Ask))』(1972年)中の「ミクロの精子圏(What Happens During Ejaculation?)」で、女性の体内へ特攻する精子に扮するウディ・アレンの姿かな。
 いずれにしても、その奇想の特異さは否めない。ましてや女性作家の作品でこの手のアプローチというのは、きわめてめずらしいのではないだろうか。


 その後、このデビュー作と併せて三部作となる長篇を2作続けて発表。さらに、黒いユーモアにみちた短篇集『世界が終わるわけではなくNot The End of the World)』(2002年)を間にはさんで、ミステリー読者にとって興味深いことに、探偵ジャクソン・ブロディを主人公とするミステリーの四部作を書いている。
 シリーズ第1作となる『探偵ブロディの事件メモCase Histories)』(2004年)を、『博物館の裏庭で』と同じ作者とも気づかずにたまたま読んだのだけれど、思えばキャラクター造型やシニカルな文体、古今東西の小説や映画・アートが頻出するあたり、まったくブレのないアトキンソン節なのだった。探偵ブロディのもとに、過去に起きた3つの事件にかかわる依頼が持ち込まれる。強烈に個性的な登場人物たちに目くらましのように振り回されながら、じつはきっちりと伏線が貼られたみごとなミステリー作品に仕上がっていた。
 その後もこのシリーズは4作まで書かれて完結。第3作の『When Will There Be Good News?』(2008年)は英国推理作家協会(CWA)賞ゴールド・ダガーの最終候補に選ばれている。が、残念ながら邦訳紹介は第2作『マトリョーシカと消えた死体One Good Turn)』(2006年)でストップ。せめてゴールド・ダガー候補作は読みたいところでしたが。


 さて、メタ寄りの文学からミステリー作品までこなせる、そんな曲者作家アトキンソンだけれど、ひさびさの邦訳紹介となる、『ライフ・アフター・ライフLife After Life)』(2013年)は、2段組で550ページもの大作。何度も人生を“生きなおす”女性を描いた、これまた凝りに凝った小説だ。
 幾度となく死を迎えて人生を繰り返すという設定となると、同じ時刻・同じ場所に生まれ変わって人生を繰り返す男を描いたケン・グリムウッドの世界幻想文学大賞受賞作『リプレイReplay)』(1987年)がすぐさま思い浮かぶ。『リプレイ』の主人公ジェフは前の人生の記憶や情報を持ったまま決まった時間と場所にリプレイするのだけれども、本作のヒロインであるアーシュラの場合は、ほぼ完全に“ふりだしに戻る”。意識下に微かな記憶しか残されていなくて、少し進んでは死を迎えるような出来事が起き、何度も生をやりなおしながら先へと進んでいく。そう、企まずして軌道修正しながら正しい方向を目指していると言っていい。

 物語は冒頭の場面からいきなり、アーシュラがにぎわうカフェに足を踏み入れ、“総統フユーラー”と呼ばれるある男をリボルバーで撃とうとする。が、一瞬の躊躇から側近の男たちに気づかれ撃たれながらも引き金をひく。これが1930年11月、彼女が20歳のときのこと。続いて時は遡り、1910年の大雪の日に場面は変わる。彼女の誕生の日だ。母シルヴィとメイドのブリジットが二人きりで出産の試練に立ち向かっているが、結果は死産。物語はこの日をやりなおして少し先まで進むけれども、溺死、落下死、インフルエンザ感染死と、幼少期だけでも幾度となく誕生の日に立ち帰って、アーシュラは人生を生きなおしていくことになる。
 彼女を溺愛する父ヒュー、少々エキセントリックな母シルヴィ、自由奔放な叔母イジー、乱暴者の兄モーリス、仲良しの姉パメラ、心優しい弟テッド、遊び人の末弟ジミー、メイドのミセズ・グローヴァにブリジットという、トッド家の面々。それぞれの運命をも巻き込みながら、恋愛、結婚、妊娠、自殺、さまざまな経験をし、徐々にその運命を先へ先へと延ばしていくアーシュラ。やがて、友人のクララを介してドイツに渡った彼女は、フューラーの愛人となるエヴァと知り合うことに――。
 この小説の構造を繙いてみると、冒頭の暗殺未遂シーンを別として、ヒロインが生まれる日から死を迎える日までを9度も繰り返している。さらに先の人生へと進むにつれヒロインの心奥に浮かぶ疑問。自分はいったい何のために生かされているのか。読み進むにつれて、読者にとってもそれが徐々に理解できてくる仕掛けになっている。それには、第一次・第二次世界大戦という歴史的背景が大きく影を投げかけているわけだが、このあたりについては、訳者の青木純子氏が訳者あとがきで詳細に解説されているので参照いただきたい。

 正直、本作を読み始めた当初は、ワープロ・ソフト時代だからこそできる、テキストを自由自在に組み合わせて構造を複雑化させただけの小説かなとも思った。アルゼンチンの巨匠フリオ・コルタサルの代表作『石蹴り遊びRayuela)』(1963年)の壮大な試みの労苦も知らない現代人が、文書を章ごとにコピペしちゃあ入れ替えて作り上げた、似非メタフィクションではないか、と。実際、“ふりだしに戻る”ルールも、物語中盤あたりから割愛されて、物語の走り出しを比較的ストレートに追う形に近づいていく。ところが、思った以上の読後のうち震えるような情動。居ても立ってもいられなくなってしまったのである。
 で、作者の意図をきちんと理解してみようとして、その飛び石のように配置された章ごとのテキストを、年代順に、そして繰り返される順に整理し直して、ざっと読み返してみた。さらに、あらためてページに沿って読んでみた。そうして、ようやくある考えに行き着いた。
 一見、この小説は章ごとにさまざまな時代へと奔放に飛び交う物語のように思えるのだけれど、ひょっとしたら、いやじつは、ページが進むとおりにきちんと物語の時系列(というか進行方向)は進んでいっているのではないか、と。ヒロインのなかでは、誕生の日に戻るのも、彼女の特異な人生の進行から考えたら、つねに未来へ向かっているわけなのだから。言うてみたら、冒頭の暗殺シーンですら、クライマックス・シーンとなる現在をまずは物語の“摑み”として披露しておいてから、あらためてそこへと至る過去の物語を最初から綴っていくという、よくあるエンタテインメントの常套手段というわけではなく、小さな運命の繰り返しを包み込むような、さらに一回り大きな繰り返しの冒頭にあたるものなのではないか。
 つまり、冒頭と後半のカフェのシーンは同じ繰り返しのようでいて、ひょっとしたら、異なる結末だったのかもしれない。いや、前述の“生きなおし”のルールからすれば異なる解答しかありえないはず。そのために、作者はこのシーンの結びを巧妙にぼかしているのだ。
 と、読者の受け止め方に委ねつつも、周到に組み立てられた構成なのだと考えられる。
そして、そんなヒロインの数奇な運命などおかまいなしに、つねに変わらない運命を迎える人々もいる。それを明示するラストのエピソードは、ケイト・アトキンソンという作家の、意地悪さというか遊び心というかが如実に表れていて、思わず笑みを禁じ得ない。

 さらに言うと、ヒロインの生きなおしの時々には、数々の音楽が彩りを添えている。
 幾度となく立ち帰ることになる誕生の日には、母シルヴィアがいつも、英国の伝統的な子守唄「ロッカ・バイ・ベイビー(Rock-a-Bye Baby)」を口ずさんでいる。言わずと知れたマザー・グースから作られたもの。
 とりわけ読者の印象に残るのは、アーシュラを依怙贔屓する叔母イジーが愛聴していた、“ブルースの女帝”ベッシー・スミスら黒人女性ブルース歌手たちだろう。イジーは、このベッシーやガートルード・マ・レイニー、アイダ・コックスといったシンガーのレコードを、何度となくアーシュラに聴かせる。ルイ・アームストロングのコルネットがフィーチャーされたベッシーの「セント・ルイス・ブルース」、「アイド・ラザー・ビー・デッド・アンド・ベリッド・イン・マイ・グレイブ」、マ・レイニーの「憂鬱がやって来る」――。
 レズビアンだとの説もあったマ・レイニーとベッシー、そしてアイダらが歌っていたのは、暴力や性差別によって虐げられた女性たちの嘆きだ。それまでにはなかった女性からの生々しい訴えである歌詞は、ある種のフェミニズム運動の一環として捉えられたりもしたという。彼女らは進歩的な女性の代表格だったわけである。
 となると、家族の中でただ一人自由奔放な生き方を変えないイジーが、女性ブルース歌手ばかり大量の一大コレクションを貯えていたというのには、何らかの作者の含みがあるように思う。まさに、第一次大戦後の女性の参政権運動や意識変革と大いに関係しているのかと。
 そう、作者が趣味だけで音楽を選んでいるはずがない。なにしろ探偵ブロディのシリーズでは、主人公が愛聴するのは、エミルー・ハリスやトリーシャ・イヤウッド、ルシンダ・ウィリアムズにアリソン・ムーラーと、女性カントリー歌手ばかりなのだから。
 前述のインタビューでアトキンソンは、フェミニズムの作家であると言われることに違和感があると答えているが、『博物館の裏庭で』でもこの『ライフ・アフター・ライフ』でも、やはり女性がまだ虐げられていた時代を背景に存在や権利を主張する女性像を描いていて、そこにはどうしたってフェミニズムの香りが感じられる。なにしろ、アトキンソン作品のどれをとってみても男性キャラの存在はきわめて希薄。本人もインタビューでそれを認めているのだから。

 何度も何度も体験した苦しみ。家族や知人を失う哀しみ。その大きな元凶の存在に思いあたり、自らそこに立ち向かうことを決意させられる運命。はたしてその崇高なる使命を、過激派組織のテロやクーデターといったジハード(聖戦)と混同していいものなのだろうか。大きな疑問を突きつけられながらも、決然と立ち向かわねばならない生きなおしの回答。そして、それすらうまく成し遂げることができたかどうかもわからないという、何とも胸しめつけられる物語です。ぜひともじっくりと読んでいただきたい。
 そして、映画化が叶うことなら、少女役から大人らしい女性まで、シリアスものからコメディまで、カメレオンのように役柄をこなすシアーシャ・ローナンに、この聡明で活発でシニカルでかつ憂いも抱えたヒロインを、ぜひとも演じてもらいたいものだ。

 ちなみに、ベッシー・スミスは43歳のときに交通事故で病院に運ばれたのだが、搬送先が白人専用病院だったために受け入れ拒絶され、たらい回しにされたあげく手当てが間に合わず死去している。稀代の天才歌手の死にざまもまた、生きなおしをさせてあげたいものだった。

◆YouTube音源
■“Rock-a-Bye Baby”

*18世紀後半の英国の代表的な子守唄。

■“St. Lewis Blues” by Bessie Smith

*ルイ・アームストロングのコルネット演奏とのコラボ。ベッシー・スミス1925年の録音。

■“I’d Rather Be Dead And Buried In My Grave” by Bessie Smith

*1928年発表、ベッシー・スミスのシングル「ピックポケット・ブルース(Pickpocket Blues)」のB面曲としてレコーディングされた、ボブ・フラー作曲のブルース。

■“Yonder Come the Blues” by Gertrude Ma Rainey

*1926年録音。ガートルード・マ・レイニーの「憂鬱がやって来る」。

◆関連CD
■『Greatest Hits』Bessie Smith

*「セント・ルイス・ブルース」、「アイド・ラザー・ビー・デッド・アンド・ベリッド・イン・マイ・グレイブ」を収録したベスト盤CD。

◆関連映画・DVD・Blu-ray
■『つぐない』

*イアン・マキューアン原作・製作総指揮による、2007年の作品。

■『追想』

*イアン・マキューアンの『初夜』を原作とした、ドミニク・クック初監督作となる2018年作品。

■『ラブリーボーン』

*『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督による2009年映画化作品。

■『わたしは生きていける』

*メグ・ローゾフの同名小説を原作としたケビン・マクドナルド監督、2013年作品。

■『ブルックリン』

*コルム・トビーンの原作小説を『ハイ・フィデリティ』の作家ニック・ホーンビィが脚本化。ジョン・クローリー監督。

■『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』

(“https://www.storyofmylife.jp/”)

*『レディ・バード』に続き、グレタ・ガーヴィク監督とシアーシャ・ローナン主演のタッグ2作目となる、『若草物語』の映画化。

■『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』

*ウディ・アレン監督による1972年発表作。7つのストーリーから成るオムニバス映画。

■『Case Histories』

*BBC制作による「探偵ブロディ」シリーズのドラマ化作品。英国推理作家協会(CWA)TVダガー受賞。残念ながらインポートのみ。

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。













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 著者:フリオ・コルタサル
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