■エリザベス・ウェイン『コードネーム・ヴェリ ティ』(吉澤康子訳)■


 なすすべもなく滂沱の涙が頬をつたってしまう――。
 ごく稀にそんな小説と出会うことがある。あまりに感情を揺さぶられるせいか記憶の彼方にすっ飛んでしまい、意外とすぐに思い出せなかったりするんだけど。いま思いつくままに挙げてみると、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『たったひとつの冴えたやりかたThe Only Neat Thing To Do)』(1985年)だとかケン・リュウの『紙の動物園The Paper Menagerie)』(2013年)、それぞれのタイトル作。冒険・スパイ系だと、なぜだかジェラルド・シーモアの『一弾で倒せAt Close Quaters)』(1987年)だとか、ジョン・ル・カレの『ミッション・ソングThe Mission Song)』(2006年)とか。なんだかもっとたくさん重要なのがありそうですが……。
 そんなわたくしめの超独断的名作群のなかに新たに加わった1冊が、エリザベス・ウェインの『コードネーム・ヴェリティCode Name Verity)』(2012年)。訳者の吉澤康子さんが書評誌での評価をきっかけに見つけ出して版元に邦訳企画を持ち込んだ作品だったとのこと。歴史テーマやヤングアダルト作品を数冊発表しているというニューヨーク生まれの著者は、小型飛行機の操縦を趣味とする民俗学博士とのこと。日本では本書が初紹介となる。
 
 ざっくり言ってしまうと、第二次大戦下に出会った二人の女性の友情の物語だ。ただしそれが、騙りといってもいいほどにとりわけ凝った構成で語られていて、あまりに奥深い物語に仕上がっているのである。全体のほぼ3分の2を占める第1部と残りの第2部という、2部構成。第1部は、ナチ占領下のフランスで捕虜となったイギリス特殊作戦執行部員の女性による手記。そして第2部は彼女の親友である補助航空部隊の女性飛行士による手記なのだけど、第1部は情報を引き出そうとする親衛隊大尉によって強制的に綴らされたもので、なぜか小説のような体裁で書かれている。そのあたりの秘密が、続く第2部の手記で明らかにされていくのだ。理由をはっきりと書けないところがなんとも歯痒いのだけれど。

 小さなバイク店を営む祖父母と暮らすマディは飛行機の操縦が大好きで、パイロットの資格を取得し、無線技術士として空軍婦人補助部隊に参加する。彼女がその同じ部隊で出会ったのが、クイーニーと呼ばれている年若き女性。王室と遠縁で上流階級に属し一分の隙もないたたずまいの美女。ふたりはやがて分かちがたいほどの親しい友だちとなる。
 やがてマディは、ナチスドイツ占領下にあるフランスへスパイとして乗りこんでいくクイーニーを秘密裏に送り届ける飛行機のパイロットを務めることになる。が、ドイツ軍の対空砲火を機体に受けてしまい胴体着陸の恐れが生じ、マディはクイーニーを先にパラシュート降下させる。無事に陸へ降り立ったものの、服装の選択ミスからナチスに捕えられ拷問を受けるクイーニー。ナチスの親衛隊大尉は尋問の代わりに、イギリス軍の情報を手記にするよう紙とインクを用意し、クイーニーに2週間の期限を与える。
 その大尉の成果が第1部の手記にあたるわけだ。当然ながらクイーニーは、彼女が情報を漏洩していると知る他の捕虜たちから裏切り者扱いされる。監禁され監視され拷問され憎まれ、という完全なる孤独へと追いやられるクイーニー。ネタバレになってしまうかもしれないけれど、そんななかで綴られたクイーニーの手記の内容というのは彼女の深謀遠慮によって周到に記されたもので、けっして事実だけを語ったものではなかったのである。それを受けて綴られるのが、彼女と離ればなれになってしまったマディによる手記。ここで彼女は、親友だからこそ、クイーニーがけっして明かさなかった意図を理解し、すべてが読者に明らかにされるのである。

 いやはや、こんなに落涙したのは、マルチェロ・マストロヤンニ&ジャック・レモン共演の映画『マカロニMaccheroni)』(1985年)でのエンドロールが終わった直後のSEか、はたまた不朽の名作映画『ニュー・シネマ・パラダイスNuovo Cinema Paradiso)』(1988年)の後半に繰り出されるキスまたキス・キス(ロアルド・ダールじゃないけど)の編集フィルムが流れるシーン観て以来かもしれない。たしかに年とって涙腺ゆるくなったということもあろうけれど、これで泣かない人はよほど強靭な心の持ち主だろう。それにしても、そのすべてを説明できないもどかしさたるや!
 
 さてさて、すべてが明らかにされ、物語が結末を迎えたあたり。最愛の友と離ればなれになってしまったマディは、かつての良き時代に想いを馳せながら、当時流れていた音楽をふたたび聴いている。でもそれは、いまの彼女の頭のなかでのこと。実際にダンスパーティーでバンドの演奏を聴いた「思い出のパリ(The Last Time I Saw Paris)」は、「私の小さな夢(Dream A Little Dream Of Me)」に差し替えられている――。
 涙腺を刺激する名場面が数多あるこの作品のなかで、おだやかな描写ながら印象的な記述のひとつが、この音楽に関する部分である。
思い出のパリ」は、ジェローム・カーン作曲・オスカー・ハマースタイン作詞によるスタンダード・バラード。1940年に発表されるやCBSラジオの番組を持っていたアメリカの歌手ケイト・スミスが取り上げ、翌年発表のミュージカル映画『レディ・ビー・グッドLady Be Good)』でもアン・サザーンが歌った。第二次世界大戦でナチスドイツのフランス侵攻のことを歌ったものだが、そもそも映画のために書かれたものではなかったという。とはいえ、アカデミー賞最優秀オリジナル・ソングに選ばれた(カーンにとっては2度目の受賞)。その後、1954年にはこの歌からタイトルをとった映画『雨の朝巴里に死すThe Last Time I Saw Paris)』が公開されている。
「私の小さな夢」は1931年頃に書かれたポピュラー・スタンダードで、ファビアン・アンドレ&ウィルバー・シュウォント作曲・ガス・カーン作詞。オジー・ネルソン楽団の演奏でネルソン自身が歌ったものが最初の録音となり、2日遅れで、アーニー・バーチルをフィーチャーしたウェイン・キング楽団がレコーディングしている。これもまたケイト・スミスが得意としたナンバーでもある。
 その後、数多くのアーティストがこの歌を取り上げたが、「夢のカリフォルニア(California Dreaming)」で知られるママス&パパスが1968年のアルバム『ママス&パパスThe Mamas & the Papas)』に収録。シングルはビルボード・チャートで最高12位を記録した。そもそもグループのメンバーであるミシェル・フィリップスの父親がこの曲の作者コンビと親しくて、子どもの頃からよく聴かされていたこともあって、レコーディング前からしばしばライヴで取り上げていたナンバーだったという。
 近年では、英国の人気シンガー&ソングライター、ロビー・ウィリアムズが、スタンダード・カヴァー・アルバムの第2弾として発表した『スウィング・ボース・ウェイズSwing Both Ways)』(2013年)に収録。アルバム・ヴァージョンは、リリー・アレンとのデュエットだった。

思い出のパリ」は、何度かフランスへの飛行を経験したバディが、飛行士の口笛からだったり、インターコムから聞こえるクイーニーのハミングからだったりと、耳にしてきたおなじみの曲。いわばクイーニーとの日々を、そして互いの夢を象徴する歌だった。
 ところが最愛の友と離ればなれになってしまったいま、「私の小さな夢」が彼女の想いを代弁する歌となってしまったのだ。
「私が一人で寂しくしていたら/ほんの少しでもいい/私のことを夢に見てほしい……」
 そしてこの歌がいまや、二人の少女の想いのすべてを表現した、いわば彼らのテーマ・ミュージックであることは間違いない。まさに古き良き時代を思わせる夢のような美しい旋律が、より一層、この物語の哀しみを深めていく。

◆YouTube音源
“思い出のパリ(The Last Time I Saw Paris)” by Kate Smith

*1940年にはじめてこの曲をレコーディングしたケイト・スミスはラジオで活躍した人気歌手。動画は1950年代のTVの昼帯で彼女がレギュラー出演していた「ケイト・スミス・アワー」からのもの。
 
“私の小さな夢(Dream A Little Dream Of Me)” by Mama Cass Elliot

*ママス&パパスのママ・キャス・エリオット、1967年の歌唱。
 
“私の小さな夢(Dream A Little Dream Of Me)” by Robbie Williams & Lily Allen

*2013年、ロンドンのハマースミス・アポロ・ホールでのチャリティ・コンサートで披露したデュエット。
 
◆関連CD
“The Mamas & the Papas” by The Mamas & the Papas

*ママス&パパス、1968年発表の4thアルバム。「わたしの小さな夢」収録。
 
“Swing Both Ways” by Robbie Williams
*英国の人気シンガー&ソングライター、ロビー・ウィリアムズのスタンダード・カヴァー・アルバム第2弾。「わたしの小さな夢」収録。
 
◆関連DVD
『雨の朝巴里に死す』

 
『ニュー・シネマ・パラダイス』

 
『マカロニ』

 
◆関連VIDEO
『レディ・ビー・グッド』

 

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
  好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。








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