いまわたしはケアリー・ロスの真っ最中です。
アイアマンガー三部作を訳し終わり、ゲラもこちらの手を離れ、あとは12月20日の単行本の刊行を待つだけ、という状況になったあたりから、どうもおかしい。やる気が起きない。朝起きられない。新聞を開けない。人と話をしても話題に追いつけない。知人と会ってもだれかわからない。次の翻訳に取りかかろうとしても文章を理解できない。笑顔が作れない。食欲がない。料理が作れない。人に会えない。歯が痛い。掃除ができない。お風呂に入るのが嫌だ……。この症状をわたしはケアリー・ロスと呼んでいるのですが、家の者たちは「それっていつものことじゃない?」「老化が進んじゃったのかなあ」「大丈夫、喉元過ぎれば熱さなんか忘れちゃうから」「料理は作ってほしい」「ロスじゃなくてウツだろ」などと言うばかりです。
父が死んでもこんな精神状態になることのなかったわたしです。これはやっぱりケアリー・ロスとしか言いようがありません。
クロッドとルーシーが活躍する作品との付き合いが終わりを迎えた、という事実が、これほどまでに大きな衝撃を人に与えられるとは。
いやいや、他人事ではありません。『肺都』を読み終わった皆さんを待ち受けているのは、わたしと同じ症状なんですからね。百年の恋が終わったかのごとき症状です。
そりゃあもう、辛いですよ。
でもでも、素晴らしいこともあるんです!
これまでは『肺都』を読んでアイアマンガー三部作の結末を知っているのは、編集や校閲をはじめ出版社関係の数人の方々だけで、大々的に話すことも感想を言い合うことも充分にはできませんでした。
ところが! これからは続々と、話し相手が見つかってくるわけです。もう、次から次へと「わたしも読み終わった」「おれも読んだぜ」「ぼくは一晩で読んじゃったよ」という方々が現れて、三部作の話の展開について、あの人物について、あのエンディングについて、思う存分話し合えるわけです。それはもう、思う存分話しますよね(1月2月には刊行記念のトークイベントもあります! 詳細は後ほど)。
第三部の原書が出版されたのは二〇一五年秋ですから、この二年余りわたしには、作品の面白さ、登場人物の愉しさ、物たちの哀しさについて話し合える人がほとんどいませんでした。ですから、仲間が現れるというのは、もうこれは天にも昇る心地なんですね。
早く読め読め。みんな読め。
このアイアマンガー三部作(『堆塵館』『穢れの町』『肺都』)はタイトルにあるように、場所を館、町、都と移しながら、アイアマンガー一族の過去現在未来を語った壮大な物語です。いまさらながら、ゼロからすべてを構築していくエドワード・ケアリーの類い稀な才能に舌を巻きます。魅力的な登場人物、有無を言わせぬ展開、ごみや汚物など汚いものがたくさん出てくるのに清浄な空気に満ちた世界、細やかな神経によって作られた世界の美しさ。
三部作で魅了されたところは人によってさまざまでしょうが、わたしがもっとも気に入っているのは、やはり、これまでお目にかかったことのない印象的な人々でした。クロッドとルーシーは言うまでもなく、ピナリッピー、ビナディット、仕立屋、ロザマッド伯母さん、おじいさま、おばあさま、ピゴット、エレナーなどなど、あまりにも実在感があって、いまでも振り向くとそこにいるような気がします。どれも愛しい人たちです。
さて、このケアリー・ロス、この重い喪失感を埋めるにはエドワード・ケアリーの新作を読むしかない、訳すしかないわけです。その新作『LITTLE』は二〇一八年秋に出版される予定。やっほーーーい。
これは十五年という年月をかけた大長篇で、蠟人形の創設者マダム・タッソー(マリー・タッソ-)の伝記小説だというのですから、もういまから涎が出てきます。wikipediaでちょっと調べたんですが、この女性、とんでもない歴史的出来事の生き証人で、その人生にはケアリーの大好きなものがちりばめられているんです。召使い、蠟人形、デスマスク、十八世紀フランス、ギロチン、マリー・アントワネット、医師、革命、逃亡。
ああ、待ちきれません。
蛇足ですが、一日も早く『肺都』を読みたいという方がいらっしゃれば、12月17日(日曜日)14時からおこなわれる「はじめての海外文学」というイベントのために、本書が青山ブックセンター青山本店の店頭に並ぶことになっています。もしよろしければ是非。
( https://hajimetenokaigaibungaku.jimdo.com/ )
そしてケアリー・ロスを分かち合うトークイベントのお知らせを。
●1月26日(金曜日)19時~ 代官山蔦屋書店にて、ゲストは書評家の杉江松恋さん。( http://real.tsite.jp/daikanyama/event/2017/12/-3-4.html )
ほかにもイベントをおこなう予定です。
古屋美登里(ふるや みどり) |
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著書に「BURRN!」で連載している書評をまとめた『雑な読書』(シンコーミュージック)。訳書に、映画「光をくれた人」の原作M・L・ステッドマン『海を照らす光』(ハヤカワepi文庫)、イーディス・パールマン『双眼鏡からの眺め』(早川書房)、エドワー・ケアリー『望楼館追想』(文春文庫)、ダニエル・タメット『ぼくには数字が風景に見える』(講談社文庫)、デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』『兵士は戦場で何を見たのか』(以上亜紀書房)、アトゥール・ガワンデ『予期せぬ瞬間』(みすず書房)など。倉橋由美子作品復刊推進委員会会長。倉橋由美子の単行本未収録エッセイ集『最後の祝宴』(幻戯書房)を監修刊行。 |
お待たせしました〈アイアマンガー三部作〉完結しました。もう内容については何も言いますまい。面白いのは当たり前。1巻、2巻を読んで、3巻が出るのをじりじりと待っていらっしゃった皆様、待った甲斐はあります。3巻は本当にとんでもない作品です。
そしてまだ〈アイアマンガー三部作〉を全然読んだことがなかった皆様。騙されたと思って『堆塵館』を手にとってみてください。エドワード・ケアリーの奇矯で豊穣な世界に引き込まれること請けあいです。しかもこれから読むかたは、次の巻が出るまでじりじりして待つ必要はありません、3巻まで一気に読めるのです。なんという幸運!!
さて、改めて三部作のカバーを並べて見ると、クロッドとルーシーの変貌ぶりにぎょっとさせられます。1巻でちょっと老けた半ズボン姿の少年であったクロッドは、2巻で見る影もないほどやつれ、3巻ではシルクハットをかぶりコートを着込んだ怪しい人物となり、片や1巻では強気そうな普通のメイド姿だったルーシーは、2巻ではすっかり勇ましくなり、3巻ではなんと爆発に遭ったかのような姿に……。いったいふたりに何が?
そんなこんなで完結した3部作、どうかよろしくお願いします!
(東京創元社 K)
・2016-09-07 訳者自身による新刊紹介:エドワード・ケアリー『堆塵館 (アイアマンガー三部作1)』(執筆者・古屋美登里)
・2017-06-02 訳者自身による新刊紹介:エドワード・ケアリー『穢れの町 (アイアマンガー三部作2)』(執筆者・古屋美登里)
・2013-09-17 本の世界の扉の鍵を——読書リストに寄せて(執筆者・古屋美登里)
・2012-02-06 言葉のまわりで 第一回(執筆者・古屋美登里)
・2012-02-13 言葉のまわりで 第二回(執筆者・古屋美登里)
・2012-02-20 言葉のまわりで 第三回(執筆者・古屋美登里)
・2012-02-27 言葉のまわりで 第四回(執筆者・古屋美登里)