みなさんこんばんは。第11回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。
 
 実際の事件を元にした作品というのはフィクション、ノンフィクション問わず古今東西映画でも小説でも一大分野といえるでしょう。実話ならではの真相の手触りの生々しさや現実と思えないような現実の衝撃を「楽しむ」ことにはある種の危うさはあるとは思っているのですが、それでも惹かれてしまう独特の魅力があるのも事実……今回ご紹介するシモーヌ・ノース監督の『IN HER SKIN/イン・ハー・スキン』も実話をもとにしたサイコ・サスペンス。覗き見趣味を満足させる異常犯罪エンターテインメントとして消費される危険要素が全くないとはいえないのですが、作り手がショッキングな描写で目を引くことよりも、事件を取り巻くすべての人物の感情と関係者が感じた苦しみを丁寧に描き、誠実に事件と向き合ったことを感じられる作品です。
 

■『IN HER SKIN/イン・ハー・スキン』(IN HER SKIN)[2009.オーストラリア]


あらすじ:1999年3月。ダンススクールに通う15歳の少女レイチェル・バーバーは迎えにきた父の車に姿を現さなかった。謎めいた失踪。「大金を稼げる仕事をする」と話していたと語るレイチェルのボーイフレンドの言葉に、何か犯罪に巻き込まれたのでは……と焦った両親は警察に必死で訴えるものの、情報も少なく「よくある家出」だと一定の捜査以上の対応をしてもらえない。家族は街じゅうにレイチェルのチラシを貼り、情報がないかと街の人たちへの聞き込みを続けるが、まったく手掛かりがない。そのときは、4年前にバーバー家の近くに住んでいて時折家にも来ていた娘キャロラインが事件に関わっていたことに誰も気づいていなかったのだ……

 これが長編映画デビュー作であり唯一の監督作であるシモーヌ・ノース監督は、レイチェル・バーバーの母エリザベス・サウスホールとメーガン・ノリスの共著 Perfect Victim にインスパイアされてこの映画を撮ったといいます。


 ダンスの才と美貌に恵まれ、彼氏や家族との仲も良好だった15歳の少女が突然失踪するという1999年に起きた実際の事件は、その奇妙な真相からオーストラリアでは当時かなり話題になったそうなのですが、私は全く事件そのものを知らなかったのでまずその展開に大きな衝撃を受けました。子供の頃から身体的にも精神的にも不安定で自己存在を憎み続けたキャロラインという娘の「愛されたい」という願望が引き起こした事件はあまりにも恐ろしく痛ましいものだったので……
 
 実際の事件、オセアニア映画、原題のI AM YOU(本国公開時のノーカット版では IN HER SKIN のタイトル、私が見た日本で見られるバージョンはリカット後の海外公開版のためだと思うのですがクレジット上では I AM YOU のタイトルが表示されていました)というタイトルあたりでなんとなく感づく人もいそうですが、『乙女の祈り』系統の若い女性の不安定な精神が暴走した先が生々しい触感をもって描き出されている作品です。みんなから愛されているレイチェルと、ずっとひとりぼっちをかみしめ続けてきたキャロライン。なぜわたしは愛されないの、素敵な家族がいないの、わたしはこんなに心も体も醜いの、なぜわたしはあなたじゃないの、わたしは、わたしは、わたしは……
 
 元の体重から20キロ以上増量してキャロラインを全身全霊で体現したルース・ブラッドリーが凄まじい演技を見せています。決して「醜い」わけではないのに、「愛されるはずがない」という強迫観念が肉の檻と化して彼女を閉じ込めているようなその身体。コントロールがきいていないドスドスとした歩き方、一度火がついたら誰にも止められない暴力的なわめき声、適当に笑顔さえ浮かべることのできない普段の無表情と現実から乖離していくときの夢みるような目つきの変化。いきなり裸になって「わたしはこんなにも醜い」と泣き叫び始めるシーンの絶望感と目を伏せてタオルをかけてやることしかできない父(サム・ニールが見せる長年の苦渋が滲んだいたたまれない表情が本当に素晴らしい)の姿は目に焼き付いて離れなくなること必至。
 
 視点を変えながら「真相」に近づいていく構成になっているのですが、それぞれのパートの中にふっと窓辺や室内を浮遊するように見守る(生身の人間にはありえない)視点≒幽霊の視点で家や人物が映し出される悲しくも美しいショットが挟み込まれています。現実の事件を忠実に描写しながらも、時折こうした幻想的なシーンが入るのも人物の感情の不安定さを示していて効果的。冒頭で舞う蝶のような視点で森を抜けていくカメラワーク、その異様な不穏さ、不安定さと同時に感じられる歓喜にあふれた力強い解放感の意味がわかったところでは戦慄せざるをえませんでした。
 
 レイチェルの家族の「何もわからない」「どうすることもできない」という焦り、「私は誰にも愛されない、私は異常で醜いから」というキャロラインの強迫観念の苦しみ、その苦しみをぶつけられる家族の疲弊、そして「いつ、誰が、どうしていれば事件が起きなかったかに答えがない」というやるせない痛みと虚無感……決して気軽に「楽しめる」作品ではありませんが、胸の奥に鈍い痛みを残し続ける良作です。


■よろしければ、こちらも1/『スノータウン』



 豪州実録犯罪映画では1990年代の連続殺人事件をモデルにしたジャスティン・カーゼル監督の『スノータウン』も重要作。「虐待を受けて育ってきた少年の唯一の庇護者は他人を虐待する連続殺人犯」という徹頭徹尾逃げ場がない物語です。「何が起きて、いつ、誰が何を理由に殺されたのか」が今一つわかりづらい映画にはなっているのですが、本作の怖さはそのわかりにくさがおそらく主人公の体感そのものだということ。残酷さに耐え切れず途中で感情を完全に放棄した少年には、現実に起きていること全てが夢のように茫漠と感じられ、暴力にも殺人幇助にも何も感じなくなっていく、その感覚に観客をシンクロさせる演出が実に恐ろしい。性的虐待者「だと思われる」者を次々に拷問し殺し奪い取り処理する、を繰り返す男たちの即物的な犯罪描写は吐き気がするほどおぞましく、露骨に見せるより陰惨な「音」による暴力演出も地獄のよう。教会の歌、カンガルーの首を落とす音、銃声、髪を剃るバリカンの音、原始的な拷問にあがる呻き声、テープに残された強制遺言……果てしない荒涼感と精神の貧困が生み出した「結局何がなんだかよくわからない」連続殺人の強烈な寒々しさが強い印象を残します。体力のあるときにどうぞ。


■よろしければ、こちらも2/『彼女たちはみな、若くして死んだ』


 昨年刊行されて話題を呼んだチャールズ・ボズウェル『彼女たちはみな、若くして死んだ』は実録犯罪ものの古典のひとつ。本サイトでも以前にストラングル・成田さんがこちらで紹介記事をお書きになっています。やはり今作の凄さは実際の事件の関係者を「キャラクター」的に煽情的に消費されることを出来る限り避けるように、殺された者/殺した者の感情に想像で踏み入ることはせず「殺人、捜査、証言、証拠、真相判明」の記録に徹底されていること、そしてミステリにするにはあまりにもありふれた、もしくはあまりにも無茶苦茶な現実の非道さ。今から見れば昔の事件、しかし人間そう変わらない……という気持ちになる作品でもあります。若く美しく(あるいは美しくなく)、女性であるということでさらされる理不尽さ。職業婦人ならばなおのこと。びっくりするほど薄っぺらい殺人理由の背景に「女性が置かれる状況について」がさらりと、しかしはっきりと描き出されている点も特色だといえるでしょう。
 
 実際の事件をモデルにした作品の評価には難しいところがあります。事実と異なることが事実と認識される危険は? 作品としての質が高ければ題材とするのは自由なのか? 被害者や関係者の感情が無視されていないか? でも「無視されていなければよい」ものなのか? 作品ごとにさまざまな事情があってこれという答えの出る話ではありませんが、さまざまな事件を元にした作品に触れるとき、いち鑑賞者としてこのあたりも併せて考えてみるのも悪くないのではないかと個人的に最近思っています。なかなか難しいのですけどね……!
 
 それでは今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。
 

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。

■【映画コラム】ミステリアス・シネマ・クラブで良い夜を■バックナンバー一覧