——愛のために裏切りを選んだ男

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

畠山:台風21号で大きな被害を受けた皆さま、心からお見舞い申し上げます。特に大阪は地震や豪雨もあったというのに、度重なる自然災害でさぞお疲れのことでしょう。
 そして北海道の地震にはたくさんの方々からお見舞いと励ましをいただきありがとうございました。「今日は人の上、明日は我が身の上」という言葉を痛感しております。丸二日間の停電を経験して、とりあえず言えることは「アイスの買い置きはほどほどに」。

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」。今回のお題は、グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』。1978年の作品です。

モーリス・カッスルはアフリカ情勢を担当する初老の英国情報部員だ。さほど忙しいわけでもなく、あつかう情報も重要視されるものは少ない。判で押したような決まりきった日々を送っていた。ある日、カッスルと同僚のデイヴィスは、新しく保安担当になったデイントリー大佐の調査を受ける。どうやらソ連に機密が漏れているらしい。上層部は酒好きで生活が緩んでいるデイヴィスを疑い、証拠がそろわぬままに「処分」を決定する。しかしカッスルだけは、デイヴィスが無実だということを知っていた——

 グレアム・グリーンは1904年イギリス生まれ。反抗的な少年だった彼は、父親が校長を務める学校に通うのが苦痛で、スパイ小説を読み耽っていたとか。
オックスフォード大学卒業後、ジャーナリストとして活躍し、1929年に『内なる私』で作家デビューしました。
 第二次世界大戦時にはMI6に属し、あの史上最も有名な二重スパイ、キム・フィルビーの直属の部下だったのだそうです。二重スパイをテーマにした本書はフィルビーと交流があった頃から執筆していましたが、諸事情を鑑み、発表を遅らせたという経緯があります。
 1976年にアメリカ探偵作家クラブ賞巨匠賞、1981年にエルサレム賞を受賞。
著作は本書の他にも、『ブライトン・ロック』『権力と栄光』『第三の男』『情事の終り』『ハバナの男』等々、代表作を一つに絞れないほどのラインナップがあり、映像化されたものも多いです。

 二重スパイ、特にキム・フィルビーの影響が濃いミステリー小説なら、本書とジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』が二大巨頭でしょうか。どちらも現実の情報部を経験した作者なので、派手な要素はなく、地味にじっくりと宮仕えの息苦しさを描いています。

 さて、カッスルがなぜデイヴィスの無実を知っていたかといえば、実は情報を漏らしていたのはカッスルだったからです。彼は南アフリカ在勤中に、自分の工作員を務めていた黒人女性のセイラと恋に落ちました。しかし、当時の南アフリカにはアパルトヘイト(人種隔離政策)があり、白人と黒人は居住地や使用施設を完全に分けられ、結婚はおろか恋愛関係になることすら禁じられていました。カッスルが二重スパイになることを選んだのは、セイラと共に生きることを強く望んだからなのです。普通は思想や経済的苦境が二重スパイとなる理由なのですが、カッスルの場合それは、「愛」ゆえの選択でした。これが本書の大きな特徴といえましょう。

 障害を乗り越える経験を経て、二人は深く静かな愛情で結ばれ、つつましい日々を送っています。そんなカッスル夫妻の姿は、読後もずっと心に残りました。二人が離れ離れになることを余儀なくされても、ずっと互いを慕い続ける姿はまさに“運命の恋人”。セイラが心の内で「糧として生きたいのは礼儀ではなく、愛だ」と強く叫ぶシーンに胸熱です。
 私にとって本書はスパイ小説の体裁をとったラブ・ストーリーでもありました。

 さて、加藤さんはどう読んだのかな?

 

加藤:グレアム・グリーンは映画『第三の男』のイメージが強くって、随分昔の作家と思っていたけど、本作は1978年の作品なのですね。ル・カレ先生の『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』より後の作品だと知ったときは、意外に思ったことを覚えています。

 畠山さんも書いてるけど、『ヒューマン・ファクター』を読むうえで、キム・フィルビーというスパイ界のスーパースターについて触れないわけにはいきません。
 キム・フィルビーは、第二次大戦前のケンブリッジ大で共産主義に傾倒し、同時期にソ連にリクルートされた、いわゆる「ケンブリッジ・ファイブ」の不動のセンター。MI6に入り、大戦中からソ連の二重スパイ(Wスパイ)として活動しました。二重スパイとは情報機関の人間が実は相手側のスパイでもあるということですね。フィルビーはソ連の援助を得ながら、その魅力的な人柄も相まってMI6で順調に昇進し、やがて将来のトップ候補の一人と目されるまでになります。
 しかし1951年、英国外務省の幹部マクリーンとバージェス(ともにケンブリッジ・ファイブ)がスパイであることが発覚しソ連へ亡命すると、ホワイトホールがひっくり返るような大騒ぎとなり、彼らと旧知のフィルビーは関与を疑われ、MI6を退職します。それでもMI6は、フィルビーを逮捕するどころか、ほとぼりが冷めると再雇用するのです。ふたたび、二重スパイとして活動するフィルビーでしたが、1961年に外務省のジョージ・ブレイクが逮捕され(のちに脱獄してソ連に亡命)、1962年には、逆にソ連から亡命してきたKGBゴリツィン大佐の証言などで身の危険を感じて出奔。なんと翌1963年にモスクワに姿を現し、自分の正体を全世界に発表したのです。

 そのフィルビーの下で働いていたのが、『ヒューマン・ファクター』の著者グレアム・グリーンでした。フィルビーの存在がこの巨匠の一部となったと言えるのかも知れません。それでも、グリーンはその生涯で、フィルビーを責めるような発言は一切しなかったようです。そこには余人には察することすら難しい何かがあったのでしょうね。
 その意味で沈黙を貫いたグリーンが自分のキャリアの最晩年に、ついに発表したのが『ヒューマン・ファクター』です。
 ル・カレが『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』で二重スパイ(モグラ)を「資本主義の堕落に絶望したセンチメンタリスト」として描いたのに対し、グリーンは「愛のために迷わず国を捨てた男」として描いたのです。

 

畠山:て、丁寧な説明をありがとう(あまりの加藤さんのフィルビー萌えにちょっと押され気味)。まあ確かに彼の名前は、他のスパイとは一線を画した感があるよね。

 先ほど私は本書はラブ・ストーリーであると高らかにのたまいましたが、「犬小説」としても楽しみました。カッスル家のわんこ、ブラー。こいつがいい味出してるんです。近寄ってくる人は誰でも友達だと思ってべろべろに舐めまくる、番犬失格のダメわん(でも猫をかみ殺すクセがあるのはいただけないゾ)。
 二重スパイであることが明らかになるのは時間の問題となり、カッスルがいよいよ次の行動に出ようとする時、このブラーの存在が強く場面を支配します。ムダ飯を食ってたわけではないのすよ、彼は。ああ、でも彼のことは本を読んだ方と語らねば。ネタバレってわけじゃないけど、このシーンはまっさらな状態で読んでいただきたいもの。

 そしてもう一つ、ちょっとばかりおやじ萌えもいたしました。カッスルがデイントリー大佐にときどき子供みたいないぢわるをするのが、妙に可愛い。やられたデイントリーも「なんか変だな?」という程度のボヤっとした受け止め方で、なにその絶妙なコンビぶりは! と言いたくなるのです。キミらは追う者と追われる者の自覚があるのかと問い詰めたいw(はっ…!これはまさかの♪akiraさん案件なのだろうか!?)
 人生の終盤に足を突っ込んだおやっさん二人の、抑制のきいた他人以上友情未満の関係。二重スパイを見つけ出し、面倒になる前にさっさと始末しようとする組織の気持ち悪さに胸やけしそうになるところで、これはちょっとした救いでした。

 ところでタイトルの『ヒューマン・ファクター』は直訳すると「人的要因」。人間は不確実で不安定、時として不合理な行動もする厄介なシロモノであります。本来の性格は人畜無害そのもののカッスルが情報漏洩に手を染め、同僚のデイヴィスは、単にチャラくてだらしないだけなのに、運悪くそのチャラさが組織の「二重スパイ探索網」に引っかかってしまう。デイントリー大佐はその「人の良さ」が災いして後手に回り、自説に固執するドクター・パーシヴァルは少しずつ制御不能に陥っていく……。自分なりにベターな選択をしているつもりでいても、各々が持っている抗えない運命がある、それが人間なんだなぁと、柄にもなく哲学チックな気分になりました。

 

加藤:もも申し訳ない……つい熱く語ってしまいました……。僕が子供の頃、スパイになりたかったって話はしましたっけ? コレが宝物すぎてケースから出せなかったもん。尊敬する人は明石元二郎とか書いちゃったりして、思えばヘンな子供だったなあ。

 さて、1950年代から60年代初頭に相次いだキム・フィルビーら英国エリート層のスパイ発覚と亡命、ベルリンの壁の出現などによって、イギリスではスパイ小説の黄金時代を迎えました。初期のレン・デイトンやフリーマントルらの傑作も、この流れの中で生まれたと言えるのではないでしょうか。
 そして、それを決定的にしたのが、ル・カレ先生の『寒い国から帰ってきたスパイ』。近頃邦訳が出た『ジョン・ル・カレ伝』(アダム・シズマン著)によると、キム・フィルビーの亡命が世界を驚かせたのは、この本が出る直前だったそうです。生き馬の目を抜く出版エージェントが、それをプロモーションに利用しないはずがありません。「真実のキム・フィルビーの世界がここに!」みたいなPOPや帯を作ったかどうかは知らないけど、とにかく『寒い国から帰ってきたスパイ』は、ミステリーファンのみならず、スパイへの関心が高まった大衆にも受け、瞬く間にベストセラーとなったそうです。興味本位で手に取った本がメチャクチャ面白かったもんだから、そりゃみんなビックリしたことでしょう。この夏の『カメラを止めるな!』の盛り上がりかたみたいな。
 ちなみに、この本には当時すでに人気作家だったグリーンが「史上最高のスパイスストーリー」という賛辞を送り、エージェントはそれも大いに利用したようです。

 グリーンが『ヒューマン・ファクター』を発表したのは、そんな熱狂も冷めた1978年、74歳のときでした。書き始めたのは随分前だったらしいですが。これから読む人に、あまり余計な先入観や予断を与えすぎるのもどうかとは思うけど、名匠グレアム・グリーンが自分の人生に大きな印象を与えた、キム・フィルビーという「事象」を通して、世界の在り様、人間の本質みたいなところを描いた、純文学に限りなく近いスパイ小説を楽しんでいただけたらと心から思います(できれば加賀山さんの新訳で。宇野利泰さんの旧訳はスパイスリラーを意識しすぎてて、本当に同じ話かと戸惑うレベル)。

『ヒューマン・ファクター』の発表から15年余りが過ぎた1994年、南アフリカ大統領にネルソン・マンデラが就任し、アパルトヘイトは撤廃されました。つい最近のことのようでもあり、随分昔のことでもあるような。それから25年目にあたる今年、ラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)に初の黒人主将が誕生したというニュースが届きました。いちラグビーファンでしかない僕にも感慨深いものがあったなあ。
 世界はいろいろな人たちの想いで動いてゆくのだ。

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 グリーンが著したスパイ小説中で、個人的なお気に入りは1958年の『ハバナの男』です。政治信条や愛国心といったものとは無縁なところで情報が生み出されて消費されるメカニズムを描いたこの作品には、グリーンの姿勢がよく表れています。『ヒューマン・ファクター』が発表されたのは作家生活としては最後期にあたる1978年で、グリーンにとって忘れがたい人物であったキム・フィルビーの影が全篇を覆っており、その存在が彼にとってはいかに大きなものだったかを認識させられます。

 ただしグリーンは、キム・フィルビーの亡命よりもずっと以前から、自身も関わっていた諜報戦争という国家ぐるみの超法規的な行為について書き続けていた作家であります。そこが後続の作家とは決定的に異なる点で、彼はキム・フィルビーという灰色地帯にいる人間を横目で見ながら、奇妙な行動をとるスパイという人種を描いていたのでした。フィルビーの亡命はグリーンの内部にあるものを変えたかもしれませんが、あるいは以前から抱いていた疑念が確信に変わっただけという可能性もあります。フィルビーの行為という結果ではなく、彼を衝き動かすことになったメカニズムにグリーンの関心はありました。だからこそ元上司を非難する言葉を一切口にしなかったのであり、スキャンダリズムによって自作の評価が左右されなくなるまで本作の発表を控えたのではないかと思われます。本質的には人間喜劇の書き手であったグリーンが、人生の終わりに差し掛かって(本作発表の翌年、彼はがんの手術を受けます)自己を解放して書いた作品であり、恰好の作家入門書でもあります。また、スパイ小説が文学の一ジャンルとしてなぜ書き続けられてきたのかということを考える上でも『ヒューマン・ファクター』は重要な作品と言えるでしょう。

 さて、次回はいよいよ大作『薔薇の名前』ですね。お二人がいかに読まれるのか、楽しみにしております。

 

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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