みなさま、カリメーラ(こんにちは)! 前回お話しした超リアリズムのアポストリディスと月光の作家ダネリは《ギリシャ・ミステリ作家クラブ》の会長を務めた人たちです。今回はこのクラブの歴史とそのアンソロジーを一冊ご紹介したいと思います。(ついでながら、以下ではいろいろと人名が出てきますが、ギリシャ人の男性は姓名ともに「ヤニス」「マリス」などSに終わることが多く、女性は「アシナ」「カクリ」のようにたいてい母音に終わります。わかりやすいはずですが、「ギリシャ人は妙な名前の付け方をするものだ」とG・ペレケーノス『俺たちの日』に出てくるアイルランド系警官はボヤいています。)
◆クラブの歴史
共産軍が国外に逃れ内戦がようやく治まった1950年代に「ギリシャ・ミステリの父」ヤニス・マリスの通俗スリラーは登場しました。ギリシャを対共産陣営の防波堤と位置づけるアメリカの援助により荒れた社会は徐々に復興していきます。50年代末から60年代にかけて「ギリシャのクリスティ」アシナ・カクリ(六歌仙No.1)の英国風謎解き短編が人気を集めました。しかし現代ギリシャの歩みはなかなか平坦ではありません。67年から軍事独裁政権が始まり七年間続きます(アポストリディス『負けゲーム』の背景)。70、80年代はミステリの停滞期。文学全般が政治・社会のリアリティーに取材し歴史を総括するべきもの、という風潮が強く、娯楽フィクションと考えられていたミステリは、「愛欲ひとすじ」フィリプ(六歌仙No.3)などごく数人の作品しかありません。1990年代になってようやく、自身の専門分野を持ち世界観を確立した人々が、社会的或いは心理的リアリズムに立つミステリを書き始めます。その代表が「心理の検死解剖」ダネリ、「国境を越える」マルカリス、「テサロニキ派」マルティニディス、「超リアリズム」アポストリディスなどの六歌仙でした。この人々の努力で読者層も広がり、出版社もミステリに目を向けるようになっていきます。こうして21世紀に入り、ミステリ作品出版の奔流が始まります。
この流れの中で、2010年に作家たちが結成したのが《ギリシャ・ミステリ作家クラブ》(Ε.Λ.Σ.Α.Λ.「エルサール」)。英語名はGreek Club of Crime Writers (G.C.C.W.)です。
当初は25の作家で出発し、現在45名に増えています。会員の相互の交流はもちろんですが、従来「亜流文学」とされていたミステリ文学の認知度向上、国産ミステリの質・量の拡大充実を目的に活動してきました。そのため、都市部だけではなく積極的に地方都市を訪れ、シンポジウムや読者との交流を通じてミステリの振興に努めています。
クラブのホームページは以下にあります(部分的に英語対訳もあり)。「文献目録」(1928年最初のギリシャ・ミステリ『プシヒコの犯罪』から現在までの作品データ整理。地道で貴重な基礎作業)、「閲覧室」(作品を無料公開)、「ギリシャ・ミステリ略史」などの項目が並んでいます。
http://www.elsal.gr/el/
https://www.facebook.com/www.elsal.gr
2019年は次のような予定があるそうです。
今年の4月アテネ市との共催でギリシャ初のミステリ祭Blue on Black 1st Athens Crime Fiction Festivalを計画。(題名はミステリの「ノワール」にギリシャを象徴する「ブルー」を加えたものだとか。)
5月テサロニキ・ブックフェアにブース出店。目玉テーマは「バルカン諸国のミステリ」(以下でご紹介する珍しい企画作品『バルカン・ノワール』の出版がきっかけ)。
Polaris社のコミック雑誌『青い彗星(ブレ・コミティス)』と提携し、コミック作者にミステリ原作を提供。(http://elsal.gr/el/ct-menu-item-15/1005-elsal-ble-komitis-5に見本あり)。
クラブ所属の作家たちはこれまでに三冊の競作短編アンソロジーを出しています。その第一作目が今回ご紹介する『危険への扉』(2011年、メテフミオ社)です。書名の原題の意味は「非常入口」で、「非常出口」をもじっています。
◆アンドニス・ゴルツォス編『危険への扉』
アンドニス・ゴルツォス他『危険への扉』 メテフミオ社、2011 |
600頁を越える分厚い一冊に16人の短編が収められていますが、なかなか面白い仕掛けが施されています。編者たちが決めたルールに従い、後は各作家が自由に肉付けして話を作り上げるというものです。時代は1960年から現在まで(なので時代ミステリはなし)、場所はどこかの地方都市(従来の多くの作品がアテネ・テサロニキに集中していたので。ただし守られていない場合もあり)。登場人物のプロフィールが設定され、主人公の失踪と一件の殺人(あるいは自殺、事故)が起こるというのが決まりです。
登場人物9人を紹介しておきましょう。
成功した大実業家オディセアス・ルーソス(43歳)とずっと年下の妻マリア(28歳)が中心人物。《黒い羊(=一家のはみ出し者)》兄サキス(48歳)。息子の小アネスティスはまだ11歳。その祖父母アネスティス(78歳)とエヴゲニア(68歳)(孫が祖父の名をもらうのはギリシャで普通です)。以上6人がルーソス家三代の面々ですが、夫婦の歳が離れている点や、グレた兄の存在からしてなにやら問題が起りそうです。一家を取り巻く3人もクセ者が揃っています。まず、顧問弁護士ジョニス(65歳)は「ヤニス」ではなく、あえて英語風の名前であるあたりがうさん臭さを感じさせます。マリスのミステリなら後ろ暗いジゴロの役で出てくるところでしょう(実際『コロナキの犯罪』の主要容疑者はこの名)。オディセアスの助手ダコスは25歳の若き片腕。マリアとの歳の近さはドラマを生むかも。最後にジャーナリストのアリアドニ(42歳)ははっきりと「オディセアスの元愛人」とされています。金銭や愛憎の火種があちこち仕込まれており、作家たちがどれを拾い上げて、自分の「○○節」に仕立てるのかが見どころ。読者は自分ならこのキャラでどんなストーリーを作るか想像しておくと楽しめます。
「六歌仙」からも三人が作品を提供しています。
まず、フィリポス・フィリプ(六歌仙No.3)の「美しい蝶」。「愛欲ひとすじ」の人にしてこの題名ですから、アテネのナイトクラブでのし上がる悪女の話かと思いきや、意外にも本物の蝶のことでした。オディセアスは、ロドス島の《蝶の谷》を訪ねて以来、異様な熱心さでネットから蝶の情報を集め始めます。周囲はまた何か金づるを発見したに違いないと想像するのですが……失踪後、メキシコの浜辺に現れ陽光を満喫するオディセアスの気持ちはわからないでもありません。
アンドレアス・アポストリディス(六歌仙No.5)「現代のコミック」では、何とルーソス一家が総出で犯罪に精を出しています。シリーズ探偵の退職警官リヴァス&免職警官スリス(『ロボトミー』の強欲二人組)が登場、誘拐されたオディセアス救出を引き受けます。サッカー籤店を隠れ蓑に麻薬密輸団とつるんでマネーロンダリングに勤しむ一家と、これを追跡するギリシャ国家情報局との抗争。相変わらず、複雑怪奇な組織犯罪がリアルに描かれます。
月光のティティナ・ダネリ(六歌仙No.6)「静かな湖」は、30歳に成長した小アネスティスを語り手にするというひねりの発想。19年前の父親の失踪とその親友の縊死を思い出す度に頭痛に襲われ、自分が原因だったのではと罪悪感に苛まれてきました。伯父サキスは家族の鼻つまみ者ながら、唯一彼の気持ちを理解してくれる相手です。真相解明によって救われ月夜の湖を泳ぐ静謐なラストシーンが印象に残ります。心理を解剖し続けるこの作家はやはり自分の世界を持っています。
ストレートな謎解きの味があるのはアルギリス・パヴリオティス「養殖池」。1995年から作品を発表しており、マルティニディス(六歌仙No.4)と並ぶ第二世代のテサロニキ派です。『ギリシャの犯罪』シリーズには一作しか書いていないので《六歌仙》ではないのですが、本来ならこの人を入れて《現代ギリシャ・ミステリ七福神》としたかったところです。シリーズ探偵として弁護士アナグノストゥが活躍しますが、本作でも(クセ者のはずの)弁護士ジョニスがスーパーヒーローとなり、65歳などものともせずハードなアクションをこなします(この設定は意外すぎて笑える)。短編ながら逆転の連続で、なぜか自分のパソコンに書き込まれた殺人記録がバレて、ジョニスが苦境に立たされるというスリリングなストーリーが楽しめます。
◆21世紀の第三世代
以上の四人を除くと、残りは21世紀に入ってデビューした第三世代の作家たちになります。ただし、必ずしも二十代の若手を意味しません。すでに自身の本業で名を上げた人たちがミステリに参入してきた場合もあるからです。その筆頭はテフクロス・ミハイリディス(1954-)でしょう。元々数学専攻でピエール・エ・マリー・キュリー大学で学位を取り、後にフランス教育功労勲章を授与された学者です。数学教育の著作も多いのですが、52歳にして長編『ピタゴラスの犯罪』(2006年)でミステリ界に登場(6カ国語に翻訳されています)。
テフクロス・ミハイリディス『ピタゴラスの犯罪』 ポリス社、2006 |
ちょっとこの長編をご紹介しておきましょう。プロローグの古代ピタゴラス教団の集会場面にまずビックリですが、実は本筋である1930年代の犯罪の見立てになっています。ドイツ、パリへ留学した数学専攻のギリシャ人青年の生涯に、20世紀初めのバルカン戦争、(第一次大戦参戦をめぐる)国家の大分裂、ギリシャ・トルコ戦争などの激動の歴史が絡まり、パリではピカソやロートレックなども登場します。特に数学の知識がなくても楽しめますが、観念の殺人ともいうべき動機を受け入れられるかは読者にかかっているでしょう。整然とした数学体系の背後でうごめくドロドロとした人間関係(業績争い)のエピソードが読み物として面白い。大発見の論文を受領しながら紛失した大学者とか……松本清張の世界です。
この処女長篇にはまだ現れないのですが、ミハイリディス創造のシリーズ探偵は(男性作家としては珍しい)女性警部補オルガ。ボルヘス作品を愛好する感受性と男性社会のあからさまな差別に立ち向かう強靱さを持っています。上司や同僚は対照的にイヤな奴ばかりということもあって、いくぶん理想化されていますが、勧善懲悪のヒーロー(ヒロイン)小説には終わりません。犯罪の背後にはつねに社会問題があり、ラストのカタルシスも制限されています。
『危険への扉』所収の「安全への出口」ではオルガ警部補は上司と衝突し中部の地方都市ヴォロスへ左遷されています(「地方都市」という共通ルールを生真面目に守る作者のせい)。東欧から娼婦を違法に送り込んでいたトルコ系ドイツ人の人身売買屋が殺害されます。政府の不正武器購入と高官の性愛スキャンダル絡みでルーソス家の一人を脅迫して始末されたようです。最後に犯人は北のスコピエへ逃れ、次期市長立候補を目論む弁護士ジョニスは圧力をかけてスキャンダルをもみ消し、事件は犯人不明で幕を下ろします。
この人の息子アンドレアス・ミハイリディス(1982-)も2011年短編「ガーゴイルの歌」でミステリデビュー。この作品で登場した得体の知れない左腕義手のダークヒーローは一作限りかと思われましたが、『危険への扉』の「カルチャー・ポップ」でも《吸血鬼》のニックネームで脇役として再登場、特殊任務のため部下の女検視官二人(厳格なエリサヴェトと赤毛にジョン・レノン風丸眼鏡のチェコ移民カフカ)をフランスに派遣します。二人は南フランス、モンペリエに移住していたルーソス家の映画監督オディセアスとたまたま知り合い、新作上映会に招待されます。ステージで主演女優が異様な状況で毒殺され……題名通りポップ・カルチャーへの言及(イアン・フレミング、ナンシー・シナトラ、ジェニファー・コネリー、シザー・ハンズ。さらにパンクのIggy Pop、フルート&ロックのIan Anderson、《Hiroshima – ce jour là -》を歌うLamia Cross……この辺になると私には全然分かりません)が多く、父親に比べ若い感覚に溢れています。
アポストリディス、ダネリの後を継いでミステリ・クラブ会長となった作家たちもこの世代です。第三代会長ヤニス・ランゴス(1966-)は所収作「エントロピー」(組織崩壊)という題名からして、アポストリディスの後を継ぐ社会リアリズム志向のようです。いきなり寿司バーでのオディセアス誘拐事件で幕を開け、テロ組織が声明を出しますが、さて本物なのか? 現場に居合わせたやり手ジャーナリストのアリアドニは巧妙にスクープをモノにし、時の人に。違法行為に手を染めてきた大企業グループが誘拐事件を機に崩壊していく様がテンポ良く語られます。
ランゴスはジャーナリスト出身で現代史レポートや旅行ガイドなども書いていますが、2005年の『胎児の姿勢』でミステリデビュー。代表作『血が匂う』(2008年)はギリシャ初のシリアルキラー事件(1969年、犯人はドイツ人二人組)に基づいた実録ものです。『ギリシャの犯罪4』(2011)「黒い肉」では不気味に胎動する極右勢力と陰湿な人種差別の中で、レバノン人を両親に持つ女性警官アザが、失踪したガーナ移民を個人的な依頼から捜査するという異色の設定ですが、人種のるつぼと化しているアテネの現実に裏打ちされています。
四代目の現会長セルギオス・ガカス(1957-)はフランスで演劇を学んだ人で、舞台監督・テレビのプロデューサーとして30年のキャリアがあります。児童劇の脚本四作や普通小説の短編あり。ミステリ長編は2001年のデビュー作『カスコ』(登場人物の名から)と2008年の『灰』の二作だけですが、仏伊英語に翻訳され高評価を得ています。2002年のフランクフルト・ブックフェアではギリシャの代表作家6人に選ばれました。
(『カスコ』のフランス語訳、「サロニカ」は「テサロニキ」の別名) |
『危険への扉』所収の「アジル」は登場人物の一人の手記という設定ですが、いきなりミステリが嫌いというプロローグで始まります。クリスティもハメットも(ギリシャ人にとってこの二人が古典ミステリの代表格)、プルーストの足下にも及ばないと挑発、手記を書く理由は、作家気取りの若手たちへの反発と自身の体験した実話を保存するため、と語ります(クラブ会長ですが大丈夫なんでしょうか?)。ルーソス家の美形のパキスタン人庭師アジルが若妻マリアとの不倫現場をオディセアスに発見され……翌朝アジルの死体が見つかり、オディセアスの憔悴しきった姿が描かれます。犯罪の場面がわざと抜かれて最後に置かれていますが、ミステリ嫌いの読者は先にそちらを読むようにという指示が冒頭にあります(実際にする人はいないでしょうが)。この最終章で意外な犯人の悪意と手記の書き手の正体が曝かれ、実話記録という設定には深い狙いがあることが分かります。
ガカスは『ギリシャの犯罪』シリーズにも、島国カーボベルデから異郷ギリシャへやって来た黒人留学生が異様な犯罪を語り続ける「雨」(意外な聞き手の正体は最後のひねり)、臆病に生きてきた元左翼の老人が人生の最期に積極的な行動を起こす「ジャスミン通り七番地」、被害者の残したポオ「アナベル・リー」を見立てた草稿が真相への光明を与える「蜘蛛」の三作品を寄せています。寡作ながら大きな影響力を持った人です。
留学や国外での就労経験は作家にひと味違う視点を与えるようです。イタリアで学び学位を取得したディミトリス・ママルカス(1968-)もこの世代の一人。短編「第四の人物」を読んだときは、フィリプ風の愛憎劇が持ち味かと思いましたが、『危険への扉』の「注意! 垂直の危険」でも爛れた男女の多角関係が複数の殺人計画に発展します。豪邸に住む弁護士ジョニス、前科のあるらしい灰色のオディセアス、男たちを手玉に取るジャーナリスト・アリアドニ、と皆とんでもないヤツらです。キプロス出身で、期するところあってオディセアスの右腕となった一本気の純情なダコス青年が重要な役を演じます。
ママルカスのデビュー作はアテネが舞台の長編犯罪もの『ヴォタニコスの大いなる死』(2003年)ですが、『ディミトリオス・モストラスの失われた書庫』(2007年)は19世紀初めにイタリア在住のギリシャ人が建てた書庫と蔵書の秘密をめぐるサスペンスもので面白そうです。『赤い旅団の隠れた中核』(2016年)は一転して1970年代にミラノで暗躍したテロ組織を題材にし、2017年文芸誌『アナグノスティス(読者)』の最優秀長編賞を(他の普通文学作品を抑えて)受賞。平行してジュニア向け作品も執筆し、2011年以降、冒険好きなクリスとノエミが時間旅行に巻き込まれる《時の子供たち》シリーズ四作、2016年から《四人の少年探偵》シリーズ三作を発表しています。
アポストロス・リケサスは1963年テサロニキ近郊生まれの若手ジャーナリスト(次世代のテサロニキ派リーダーでしょう)。2005年『修正液』でデビュー、詩集も四冊出しています。
リケサスの「チベット死者の書」は誘拐されたオディセアスの視点で話が進みます。悪徳弁護士ジョニスの影響(ナイトクラブでウケようという不届きな理由)で暗記していたチベット仏典を諳んじつつ自ら交渉を試みる大胆なオディセアスに、間抜けな誘拐犯たちは煙に巻かれてしまいます。ママルカス作品では純情青年だった助手ダコスが、ここではとにかく下品で黒い。ルーソス一家の或る人物に取り入ってのし上がってきました。この関係が犯罪の発端になっています。舞台は自身の風刺小説『ノミのサーカス』(2009年)で登場させた架空の国《アメリムニシア(憂いのない国)》ですが、皮肉な名からして明らかにギリシャを当てこすっています。
ダネリ風に人物の心の襞に分け入っていく作品がいくつかありますが、私が一番気に入ったのはアシナ・バシュカ(1982-)「一連の不幸な出来事」。冒頭でスイスの精神科クリニックに登場する人物と、誘拐犯によるアテネのルーソス家襲撃事件の際に目撃される異様な「彼」の正体にビックリさせられます(失踪したオディセアスかと思ってしまいましたが、さにあらず)。孫アネスティスの誕生日パーティーを舞台に、(出番が少なかった祖母エヴゲニアも含めて)家族たち一人一人のねじれた心理が丹念に描かれます。一見家族に愛されているようで、心中孤独なアネスティス少年と最愛の親友エクトラスとの交遊が何とも切ない。
長編ミステリは2006年のデビュー作『殺人は容易なこと』含めまだ二作。写真家、デザイナーとしても活躍しているようです。
ギリシャ・ミステリ界では随一、というか唯一の古典トリック派がネオクリス・ガラノプロス(1972-)。本業は弁護士ですが、2007年長編『ヨルゴス・ダルシノスのもう一つの顔』でデビュー。ディクスン・カー『三つの棺』や『ユダの窓』の翻訳もあります(さすが本格派)。
ジョン・ディクスン・カー『うつろな男(三つの棺)』 ネオクリス・ガラノプロス訳、トポス社、2008 |
「容易な的」ではオディセアスの失踪をめぐり、カーター・ディクスン『墓場貸します』かと思わせて別の手を繰り出してきます。と言ってもカーならやったかもしれない珍無類の力技(よほど好きなんでしょうね)。犯行現場の見取り図を入れるのはギリシャ・ミステリ界でこの人くらいです。キャラ設定の点では、最初から家族全員に疑われる兄サキスが憐れ。
昨年発表されたガラノプロスの長編『理想の探偵』(2018年)ではロンドンのグローサー街221Βに住む私立探偵シャーウィン・ホッブズとウォードン博士が活躍。かつてコモ湖の対決で倒したはずの宿敵モルティマー教授が死体となって登場し、ホッブズが不可解な精神の失調に苦しむという、生真面目なこの贋作については、他の機会にご紹介するつもりです(トリック以外のある切り口が用意されていて……泣けます)。
ネオクリス・ガラノプロス『理想の探偵』 カスタニオティス社、2018 |
本アンソロジー中で一番の異色作はマイラ・パパサナソプル(1967-)「ピアノ・リサイタル」でしょう。主人公オディセアスの失踪という共通ルールを逆手に取って、家族再生の物語を紡ぎ上げます。真摯で純情な助手ダコスの献身や敬虔な祖母エヴゲニア(やっと出番が回ってきました)の祈りが、ラストで響くアネスティス少年のピアノの音色と相まって読後感のよさは収録作品中随一です。
というのも、この作家は1998年のデビュー恋愛小説『ユダの至高のくちづけ』が25万部を売り上げ10カ国語に翻訳、その後八つの長編を発表してきた、もともと純文学に軸足を置く人なのです。唯一2006年にミステリ仕立ての『幸いなるかな、悲しむ者たち』を書いており、そのへんの縁でこの企画に参加したようです。結果として、『危険への扉』の色幅がぐっと広がることになりました。
◆さらなる第三世代の有望株たち
ギリシャ経済危機で国中が震撼した2010年ですが、にもかかわらず(と言うか、書くべきことに満ちた時代だからこそ)ミステリ界にはさらなる新人たちが登場してきます。
まず、真っ先に上げなければならないのが、『危険への扉』の企画編者であるアンドニス・ゴルツォス(1945-)です。2009年の短編「そう思うなら、そうじゃない」でデビュー。主人公と作者が激論し抗争するという、メタミステリ風の不思議な作品です(リアリズムのギリシャ・ミステリでは珍しい)。長編は2016年に第一作『献辞』を出したばかりですが、六歌仙のマルティニディスやフィリプより年上で、アンソロジー『最後の旅』(2009年)を編纂したり、出版社メテフミオ主催の読書会を運営したりとミステリ界のオルグとして貢献してきた人です。この《メテフミオ・ミステリ読書会》は《ギリシャ・ミステリ作家クラブ》よりも古く、2007年に結成され、現在会員が99名に達しています。月一回課題図書をめぐって議論を交わしており、これまで130回開催、170作品を品評。東野圭吾『容疑者Xの献身』や桐野夏生『OUT』も課題作になったことがあるそうです。
アンドニス・ゴルツォス編『最後の旅』 メテフミオ社、2009 |
東野圭吾『容疑者Xの献身』ギリシャ語訳 クリダリスモス社、2012 |
桐野夏生『OUT』ギリシャ語訳 メテフミオ社、2012 |
『危険への扉』の「丘のすぐ前の闇」では、大理石の採石場で儲け50年間町を繁栄させてきたルーソス家に、粉塵被害の抗議や労働争議によって没落の兆しが見え始めます。そんな折オディセアスが姿を消し、採石場が大爆発を起こして町中が悲惨な状態に。マッチョな若妻マリアがハーレーを乗り回して夫を探す、という新鮮なキャラに変わっています。時折正体不明の不思議なナレーションが挿入されますが、京極夏彦『塗仏の宴』をちょっと思い出してしまいました。
ヤクザ者の兄サキスはその設定からして分が悪いキャラですが、ニナ・クレタキ「第四区の物語」でも冒頭から幼児殺しでケルキラ島の監獄第四区に収監中。同房の子分に事件の真相を口述しています。ところが、告白には一つだけ嘘が含まれており、手記を作らせる真意が最後に明かされます(アクロイド殺しのひねり)。どうしようもない悪党ながら、ある一点にのみ純情(この場合は甥アネスティスへの愛情)というツボを押さえた造型に、やっぱりほろっときます。軍事政権直前の混乱期に起きた復讐と錯誤の殺人が絡んだ重い物語。
クレタキ(1960-)は30年ほど教師・会社勤めをしてきた人で、長編はまだ二冊ですが、現実の犯罪事件をレポートするウェブ・ページ「Crime and Punishment」を運営しています。http://eglima.wordpress.com/
また、短編「おばあちゃん」はギリシャ人エフィ・パパー監督により”My stuffed Granny” (2014)としてアニメ化され多くの賞を受賞しています(「東京アニメアワードフェスティバル2015」の「審査員特別賞」もその一つ)。ミステリではないのですが、経済危機を生きる家族の心をある奇蹟が癒やしてくれます。https://vimeo.com/93951774 で見られます。
My Stuffed Granny from EFFIE PAPPA on Vimeo.
2011年には、有望な四人組がデビューしました。若手ヴァシリス・ダネリス(1982-)はその一人(残り三人はいつかご紹介します)。何者かに刺殺された大道芸人を弔ってやろうと非情の町アテネを奔走する流しのギター弾きを描いたノワール長編『黒ビール』が処女作です。
ヴァシリス・ダネリス『黒ビール』 カスタニオティス社、2011 |
現在イスタンブールでギリシャ語を教えながら執筆活動中。クラブの事務局長を務め、このエッセイを書くに当たってもいろいろとお世話になっています。
ラジオのミステリ・ドラマの元になったダネリスの短編「アリス」の日本語訳(拙訳)は以下で公開されています(掲載誌『プロピレア』というのは「日本ギリシア語ギリシア文学会」の年刊誌で、古代から現代まで時代を問わず、ギリシャ語学文学の論文や翻訳を載せています)。
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/journal/Propylaia/–/24/article/46850
最近は三代目会長ランゴスと組んでバルカン七か国(ギリシャ、ブルガリア、クロアチア、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、トルコ)のミステリ作家21人による短編アンソロジー『バルカン・ノワール』を出版しました。国を越えたこの種の試みは他に類がありません。
ヤニス・ランゴス、ヴァシリス・ダネリス編『バルカン・ノワール』 カスタニオティス社、2018 (バルカン半島七か国のミステリ作品21篇のギリシャ語訳) |
『危険への扉』の場所設定はほぼ自由なので、ダネリスの「グレイドウォーター事件」はギリシャを飛び出し、テキサスの田舎町の事件に取り組みます。二十年前に移住してきたオディ(=オディセアス)は大物議員の娘マリー(=マリア)と結婚し、大手石油会社を経営。町ではアイルランド系有力者と張り合っています。観光業で町おこしを目論む町長から土地売却を迫られる中、オディが失踪します。義父はダラスの私立探偵テオ・カーターに捜査を依頼。カーターは地元保安官バロウズの協力を得て、ロデオ大会やら闘犬場をかけずり回った末に真相を曝き、マディ・ウォーターズを聴きながら町を後にする(作者はブルース大好き)、ギリシャ全然関係なしの米ハードボイルドか荒野の用心棒か……というとそうでもありません。単なるアメリカかぶれというのではなく、ギリシャ人とアメリカの深い縁というリアリティーが基になっています。
一旗揚げようと夢を抱いて米国へ渡ったギリシャ移民は、20世紀に入って爆発的に増え、現在(二世三世を含め)100万人を超えます(300万人以上という推定も)。数千万人規模のドイツ系やアイルランド系に比べると多くはありませんが、副大統領や知事も出すほど中上流層に食い込んでいます。もちろん、自らの意志による移住だけではなく、1940年代の占領・内戦、60年代後半から70年代にかけての軍事独裁制などギリシャ国内が危機的状況の時期に、政治経済難民となって押し出された人々もいます。
オディの移住も内戦終結直後ですし、軍事政権期に逮捕を逃れて渡米したという助手ダコスは左翼活動家だったのでしょう。ギリシャ人たちはすでに確固としたコミュニティーを築いており、オディもギリシャ系共和党議員やロビー団体に強力なコネを持っています。
それ以上に大きな傷を残したのは、第一次大戦からギリシャ・トルコ戦争にかけての虐殺・追放・難民、そして住民交換です。1922年にアンカラ侵攻中のギリシャ軍が潰走撤退し、トルコ沿岸部の古い歴史の町スミルナ(現イズミール)が壊滅した《大破局》では何十万人もの難民がギリシャ本土や国外へ逃れ、それに続く100万人以上の住民交換は国の人口構成を変えてしまいました。後に「海運王」として世界的大富豪となったオナシスも、この時全財産を失いアテネに渡ります。
《大破局》で桟橋に追いつめられた難民の悲惨な様は、記者としてトルコで取材中だった若きヘミングウェイが掌編「スミルナの埠頭にて」で描いています。湾内に浮かぶ連合軍艦隊の将校を語り手としたごく短いスケッチで、強烈な情景が目に焼き付きます。
ギリシャ系のジェフリー・ユージェニデスはピュリッツァー賞受賞の『ミドルセックス』(2002年)で、半陰陽という体質を持つギリシャ系アメリカ人を主人公に、三代にわたるファミリー・サーガを創り上げました。第一部では、小アジア(トルコ)の寒村で暮らしていた祖母とその弟がトルコ軍の侵攻を恐れて村を捨て、虐殺と大火災のスミルナを脱出しアメリカに向かう姿が凄まじい筆致で描かれます。
スミルナで殺人を犯した後、難民の波に隠れてギリシャのピレウス港にたどり着き、さらにブルガリア、ユーゴスラビア、フランス、とヨーロッパを股にかけて悪事を重ねていくのが、エリック・アンブラー『ディミトリオスの棺』(1939年)の陰の主役、国際ブローカーのディミトリオスです。人品卑しからぬ風貌ながら、ガラガラヘビのような声を持つ不気味さが忘れられない悪役です。
ダネリスの探偵テオ・カーターも実はスミルナ難民の息子であることが途中で明かされます。遠い異国が舞台の作品でもギリシャ人作家は民族の根っこを忘れていません。
以上、今日のギリシャ・ミステリ代表作家16人。共通ルールを設定することで、その多彩な顔が浮き彫りになった実に楽しいアンソロジーです。(その後も続々と新人がデビューしており、特に最近は北欧ミステリの影響を受けた注目株が何人かいます。)
《エルサール》のお茶目な会合
(©Αντώνης Γκόλτσος, Αλίνα Δαράβαλη撮影。https://crimefictionclubgr.wordpress.com/photos/ )
橘 孝司(たちばな たかし) |
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台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと日本に紹介するのが念願。現代ギリシャの幻想文学・普通小説も好きです。 本格ファンが是非読んでおきたい「最後の最後で推理小説の底が抜ける(©有栖川有栖氏)」T. S. ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』。自分の手柄が載った新聞をこっそり買い求める名探偵ポジオリがあまりに人間的。 現代ギリシャ文学作品(ミステリも普通文学も)の表紙写真と読書メモは、以下のFacebookの「アルバム」に紹介してあります。アカウントがあれば閲覧自由ですので、覗いてみてください。 https://www.facebook.com/profile.php?id=100014275505245&sk=photos&collection_token=100014275505245%3A2305272732%3A69&set=a.233938743758641.1073741833.100014275505245&type=3 |
【↑「スミルナの埠頭にて」を収録。ミステリ・ファンにとってはなんと言っても「殺し屋」ですね。同じニック・アダムズ登場の物語が本書には13篇入っており、併せて読むと世界が広がります。】
【↑このデビュー作でも《大破局》の後渡米し、故郷を想いながら地下室で暮らす老夫人が登場します。】
エリック・アンブラー『ディミトリオスの棺』 ハヤカワ・ミステリ文庫 15-1 エリック・アンブラー,菊池 光 発売日 / 1976/04 |