みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
前々回からご案内しているギリシャ・ミステリ日本語訳の件、前に向かってはいるのですが、少し遅れ気味で現在三回目の校正にかかろうというところです。本を出す大変さを実感しています。
その代わりと言っては何ですが、ミニ情報をひとつ。
現代ギリシャ・ミステリの嚆矢の一つとされているのが1927-28年雑誌『セアティス』に掲載された「プシヒコの犯罪」。アテネ北部のプシヒコ区を舞台にしたかなり諧謔味の盛られた中編小説です。この時期すでにドイルやクリスティーなどがギリシャ語訳され流行していましたが、著者パヴロス・ニルヴァナス(1866-1937)は普通文学史に名を残す作家で、島や山村の庶民生活を取り上げ人間の心理面の分析に特異な冴えを見せました。
この「プシヒコの犯罪」とミステリ文学の関係について、2022年刊の『プロピレア』誌にちょっと書いておきました(日本ギリシア語ギリシア文学会の年刊誌です)。広島大学図書館リポジトリにて無料公開されています。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/journal/Propylaia/–/28/article/53432
同じ雑誌にニルヴァナスの小品「ある犯罪の物語」の拙訳もありますので、ご興味があればどうぞご覧ください。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/journal/Propylaia/–/28/article/53437
さて、今回の話題へ。
ギリシャといえば、島です。その数1200から6000というから、とんでもなく幅がありますが、小さな岩礁を入れるかどうかによって変わるんでしょうかね(ただし、国境付近の孤島ではトルコ海軍と一触即発の危機も起きているので、単に岩の塊などでは済ませられない)。人が住むのはそのうち200ほどだそうです。
『ギリシャの島』 アテネ出版社、1997年。 【観光国ギリシャのこと、この類のガイド本はたくさん出ていますが、インターネットもなかった数十年前現地で買ってハマった思い出の本です。オールカラーの写真満載で、70ほどの代表的な島について紹介。】 |
今回は雑踏のアテネを離れて、特に島にこだわった作品を二点ご紹介しましょう。どちらの作家も本エッセイ初登場です。
◆クレタの現在とキプロスの過去
ギリシャ最大の島(面積も人口も)はもちろんクレタ島です。パトリシア・ハイスミスのリプリー君があれほど憧れた島ですね。
レフテリス・ヤナクダキス『影』(2017年)はこの島でストーリーが展開します。さらに回想シーンではキプロス島も登場。
Skia / Σκιά: Leuteris Giannakoudis / Λευτέρης Γιαννακουδάκης レフテリス・ヤナクダキス『影』 カスタニオティス社、2017。 【不思議なカヴァー・イラスト。ガラス瓶の中にあるものの正体は?】 |
いくつかの年代がモザイクのように組み合わされているので、ちょっと気を抜くと混乱してしまいそうになります。そのへんを整理しながらストーリーをかいつまんでご紹介しましょう。
主人公のゲレス警部が23年ぶりに故郷クレタへ帰ってきます。事件がらみということではなく、ずっと不仲だった父親が危篤となり、亡くなる前に和解のきっかけを見つけるためです。
すっかり様変わりした島の様子に呆然としながら海岸のヴェネチア要塞跡を歩くうちに、浅瀬に沈む娼婦の死体を見つけてしまい、地元警察の捜査に協力する羽目になります。まあ、ありがちの導入部です。ところが、死体の口の中からある甲虫の死骸が発見されてから謎が深まっていきます。ゾウムシという、もともとクレタには生息していなかった種類で、書影のカバー中央に描かれた怪しい物体がそれです。しかも虫の胴体にはゲレス警部の亡き母親の指輪が嵌っていたというのですから、どんどん奇怪な展開になっていき、ゲレスも他人事ではありません。さらに第二の娼婦殺人が続き、やはり口の中には……
ゲレス警部は停職中の身でもあり(熱血派でアテネの政治家の犯罪に首を突っ込み過ぎたらしい)、公式の捜査を行うのは地元警察のイヴァン警部です。名前から察せられるように、ブルガリア系移民の三世で、複雑な家庭事情あり。最近ある女性をナンパして深い仲になりますが、その女性というのが部下(イヴァンより年上)の娘で、ちょっと気まずい状況です。
作品全体が作家の故郷クレタへのノスタルジーにあふれています。帰還したゲレス警部は作家カザンザキスの墓、ヴェネチア時代の城塞跡、モロシニの噴水、閉鎖された映画館跡などを巡りながら、旧友たち、従妹、かつての恋人との再会をしばし喜びます。ところが、そのうち彼らが次々に失踪していきます。再会時のぎこちなさの裏には何か秘密を抱えていたようなのです。犯罪がらみなのか、自ら身を隠したのか。調べるうちに、ある極めて現代的な(ギリシャに限らない)社会問題が浮かび上がります。
連続娼婦殺人は現在(2013年)の事件です。ギリシャ全土がいまだ経済危機に揺れており、欧州連合から資金援助を受ける代わりに、公務員制度や年金等での様々な抜本的改革を迫られ、時の政府が辞職、総選挙が行われようとしています。島に渡ったゲレスが耳にするのもこの話題ばかりです。
このメイン・ストーリーの間に、五十年近く遡る1965年のキプロス島の情景が挿入されていきます。1960年に英国から独立して共和国となったキプロスですが、数年後ギリシャ系とトルコ系住民の対立が激化し内戦状態となっていました。トルコを牽制するためにギリシャ本国から軍がキプロスへ派遣され、ゲレスの父親シルマスもキプロスに飛びます。その際ともに任地に赴いた人物は本国のさる政党から密命を受けていました。なんとギリシャ政権与党に打撃を与えるために、ある秘密工作をせよというものです。緊迫したこの戦争謀略パートはなかなか引き込まれます。
連続殺人の事件の根源は遥かこの過去にあったようです。
それから四分の一世紀後の1989年、第二の因縁となる事件が起きます。シルマスの妻(ゲレス警部の母)が睡眠薬の多量摂取で亡くなってしまいます(ゲレスと父シルマスの不和はこれがきっかけだったらしい)。当時はギリシャで政権交代のかかった総選挙の真っ最中。シルマスはキプロスから帰還して以来政治活動に熱中していましたが、支持政党のパソックは敗北を喫し、失望の中にありました。
この半世紀前と四分の一世紀前という二つの過去が、現在のゾウムシ猟奇連続殺人に絡んできます。さらに失踪した旧友や従妹がどうかかわるのかも見逃せません。
読む前に《政治ミステリ》という批評をどこかで目にし、興味を惹かれて作品を手に取ったのですが、複雑怪奇な政界の策謀にメスを入れた作品ではありません(《リアリズムの極北》アポストリディスならその方向に行きそうですが)。かと言って、政治・社会情勢をただ淡い背景として用いているのでもなく、フーダニットを骨格にしながらも(あくまでミステリ)、犯罪の引き金となった過去の政治的陰謀や各時代の選挙運動の狂騒をストーリーにリンクさせつつ、伝奇的かつリアルな物語を創り上げています。
登場人物について少し書いておきましょう。
主人公ゲレス警部は現在四十歳前。かつて父親と大喧嘩してクレタを去り、アテネで密かに警察学校に合格し警官になりました。この父との不和の原因が実は事件に深く関係しています。
子供の頃はバスケ好きで、エアジョーダンを欲しがった思い出も語られますが、もともと文系肌の人物。折りを見ては『ヴォスタンジョグル類語辞典』を引いています。
セオロゴス・ヴォスタンジョグル編『類語辞典』。 初版1949年、ロングセラーのギリシャ語版シソーラス。読み書きに際して非常に重宝します。ヴォスタンジョグルはほかにも有用な『図解辞典』と『正書法辞典』を編んでおり、ギリシャ語学習の三種の神器といったところ。 カヴァー絵はスフィンクスの謎を解くオイディプス王です。 |
もう一人印象深いのはイヴァン警部の部下、初老のクリアラキス警部補代理です。クロスワード狂で、殺人現場で上司を待つ間もパズルにいそしんでます(やりすぎ)。娘が上司イヴァンとデキてしまったうえ、奥さんが危篤になったりと私生活の方で苦労していますが、そのぶん忘れがたい存在感があります。
ただ、辞書やクロスワードといった小道具はどうしてもマルカリスのハリトス警部やデクスターのモース警部とかぶってしまい、ちょっと損してますね。
作品冒頭には、ソフォクレスの現存作品のうちでもっとも初期のものとされる「アイアス」からのエピグラフが置かれています。戦死したアキレウスの武具獲得をめぐって、オデュッセウスとの争いに敗れたギリシャ一の猛将アイアスが狂気に陥る話ですが、コロスの長老が「災いの初めをわれらに語り給え……」と呼びかけます。『影』でもまた、事件のきっかけを作った1960年代半ばのキプロスが描かれることになります。
それ以外にも「立派に生きるか、立派に死ぬか」(要するに「名誉」が大事)という「アイアス」のセリフをある人物が口にする場所があり、ミステリ全体の趣向に繋がっています。
【「アイアス」所収。】 |
作者ヤナクダキスは1972年、クレタ島イラクリオの生まれ。元々生物学を専攻した人ですが、文学に関心があって文芸雑誌を発行したり、全クレタ文学コンクール・詩部門で三度受賞しているそうです。
まだ作品は多くはなく、2000年に不思議な題名の『走れ、蠅よ、窓ガラスをたたけ』でデビュー、2006年には短編集『遺失物』を出しています。この二作は書籍の紹介文を読んでも内容がよくわかりません。「弾丸は発射され、弾道をたどっていく」とか「バスに、船に、置き忘れられたものはどこへ向かうのか。どんな運命が待つのか」など幻想小説か散文詩のような感じです。2012年の長編『十二月の幽霊』は引退したボクサーが警官による学生射殺事件に巻き込まれ過去の悪夢が蘇る、とあるので、たぶんミステリでしょう。それ以外に、アンソロジー『悪の本』(2009年)と『本の歴史』(2014年)に短編を寄せていますが、けっこうおもしろそうです。
『影』は著作権エイジェンシー・イリス社のカテリナ・フラングさん(κα Κατερίνα Φράγκου, Πρακτορείο Πνευματικών δικαιωμάτων Ιρις)のご厚意によりゲラ版を読ませていただきました。心より感謝いたします。
◆ 因縁と決着のアンドロス
次に登場するアンドロス島は、日本でも有名なミコノス島やサントリーニ島と同じキクラデス諸島に属し、諸島中で二番目に大きい島です。ピレアス港からも行けますが、アテネの東にある港町ラフィナから大型フェリーが出ていて、2時間ほどで着きます(個人的な話ですが、私が初めて行ったエーゲ海の島はこのアンドロス島でした。とにかく紺碧の海があまりに美しく(文字通り)言葉を失ったことが忘れられません)。
https://www.kathimerini.gr/k/travel/561392197/andros-polyprosopi-kai-anerchomeni/ 【アンドロス島の美しいホーラの町。手前には石橋でつながった中世のヴェネチアの城跡。中央右には(見えるでしょうか?)海に突き出た岩礁に立つ可愛い教会。トライアスロン大会が毎年行われ、『琥珀』の主人公も参加しています】 |
ドロス・アンドニアディスの第三長編『琥珀』(2021年)の主人公《私》はラフィナ経由でアンドロス島へ向かいます。遺産関連の問題を片づけるためらしいのですが、一方夜な夜な忌まわしい悪夢に苦しんでいるらしく、そのへんの事情は少しずつ明らかにされるのでしょう。
ドロス・アンドニアディス『琥珀』 カスタニオティス社、2021。 |
《私》は同じ船で来たプラチナブロンドの女と知り合い、その恋人(?)《おやじ》の経営する
女は本名が不明で、映画『ロッキー4』の女優に似ているというだけの理由で《ブリジット》と呼ばれますが、《私》同様に過去の傷を抱えているようです。《おやじ》は長身で日焼けしたアメリカ原住民のような逞しい風貌でトランペットが趣味。隣人とタヴリ(バックギャモン)にふける気さくで明るい人物なのに、なぜか次第に鬱状態になっていきます。
《私》のほうは東岸の町ホーラで開かれるトライアスロンに参加(実際に毎年開催されており、今年で6回目。作家自身も参加)。帰りの山道で謎のバイクに襲われますが、うまく撃退し、「こっちから行ってやるから、《おやじ》にそう言っとけ!」。《私》とブリジット&《おやじ》の出会いはやはり偶然ではないようですね。《私》が急にタフなヒーローになってしまうのは背景が語られてない分相当に違和感があり、感情移入もしにくいのですが、後半で事情が明かされることになります。
途中から、突然三人称語りになりビックリ。アンドロス島の三人に代わり、モスクワに巣食うマフィアの話になります。幹部のセルゲイがグループの縄張りを拡大すべくキプロス島へ派遣されます。この人物が首都レフコシアで見込みのある若者をスカウトしながら、マフィア支部の足場を築いていくストーリーはそれだけで面白いのですが、この章の人物たちがアンドロス島のパートとどうつながるのかが話の肝でしょう。登場人物の一人が言うように、その時こそ「蠍が琥珀を砕いて出てくる」はず。
消したい過去があるんだ、と《私》がブリジットに語るシーンで、アメリカ映画『メメント』(2000年)に触れられます。時系列が真逆の二つのシークエンスを結合した複雑な作品らしいのですが(筆者未見)、『琥珀』の時間のモンタージュはそれほどわかりにくくはありません。悪夢が何度か挿入されながら、キプロスのパートの後は再びアンドロス島に戻って運命の対決を迎えます。
アンドニアディスは1974年キプロス生まれで、現在はアテネに在住。もともと数学専攻で、大学院では情報学とコミュニケーション学を学んでいます。2015年に『牡牛の目』でデビューしました。退職間近の殺人課警部がウィトルウィウス的人体図を思わせる死体の謎に挑むスリラーらしいです(ギリシャの『ダ・ヴィンチ・コード』ということか?)。2018年の『メメント・モリ』では同じエレフセリアディス警部が続投。元バスケットボール・スター選手の息子が姿を消し、溶けた蠟燭、ワインの瓶、カーネーション、頭蓋骨といった謎のイラストがメールで送られてきます。こういう奇妙な手がかりの謎は大好きなので、ぜひ読んでみたいと思います。
ドロス・アンドニアディス『メメント・モリ』 カスタニオティス社、2018。 |
最近、例の傑作シリーズ『ギリシャの犯罪』の第6巻が出ました。アンドニアディスも短編「ツークツワンク」を書いています。不思議なこの題名、チェス用語で「指したくはないが、手番なので指さざるを得ない状況」だそうです。緊迫した人間関係が進む中、狂気はいったいどこに潜んでいるのか? クリスティーの名作「夜鶯荘」を現代に移したような異様な物語が展開します。
ドリス・アンドニアディス『ギリシャの犯罪6』 カスタニオティス社、2022。 【ついに出ましたシリーズ第6巻。祝!(台湾風に言うなら「狂賀」!) 短編16作を収録。配列は作家の姓のアルファベット順なのでアンドニアディスは巻頭です。】 |
◆◆ 欧米ミステリ中のギリシャ人(22)――サイモン・ブレットのギリシャ人――
1975年『邪魔な役者は消えていく』でデビューした英国人作家サイモン・ブレット。《売れない俳優探偵パリス》シリーズが有名だそうですが、もうひとつ、《富豪の未亡人メリタ・パージェター》物があります。
今回わけあって読んでみたのはこのパージェター夫人シリーズです。1986年発表の『気どった死体』が第一作で、以降第八作まで出ています。
舞台はイギリス南海岸にあるデヴェルー・ホテル。客は裕福な高齢者ばかりで、余生をゆったり送ろうとしているのですが、一人の老婦人が墜落死を遂げます。身寄りはなく、遺言に従って遺産はホテルの客に分けられることに。ところが、続いて別の客が絞殺されてしまい……容疑者が限られ、ストーリーの合間には殺人者の日記が挿入されるという、なにやら懐かしいテイストです。
なにより印象を残すのはアクの強い主役探偵パージェター夫人です。67歳、超のつくポジティヴ志向の未亡人。騒々しく登場したかと思うと何事も我を押し通し、お上品な高級ホテルを目指す女支配人の目論見を平然と打ち砕いていきます。ミス・マープルより一世代年下でしょうか。豊満で少し肥満気味、血色がよく誰が見ても老人臭さが微塵も感じられない女性、とあります。私のイメージでは映画『クリスタル殺人事件』のマープル嬢、アンジェラ・ランズベリーです(凛とした気品漂うジョーン・ヒクスンではあり得ない)。
やたらと出てくるのが夫人が忠実に守る「亡き夫の教え」。故パージェター氏の正体ははっきりしないのですが、どうも泥棒集団のボスだったようで、氏を慕うかつての部下たちが何ごとも都合よく助けてくれます。夫人自身は「わたしがこれまでにいちどだって犯罪になるようなことに手を出したことがないのは知ってるでしょ?」なんて言ってますが……
とにかくパージェター夫人の勢いに引かれて楽しく読めるフーダニットです。殺人事件は起これど誰も犠牲者のことを気にかけず、警察へすぐに通報しようともしません。パージェター夫人が前面に出すぎる分、警察の捜査も印象に残らないし。
犯人はけっこう意外な人物でした。
最後にパージェター夫人は引っ越しを考えています。おとなしく隠居する気はまったくなさそう。
第二作『奥様は失踪中』(1988年)では、(作者の出身地)サリー州の住宅街に舞台が移ります。前作で敗北主義の同年配の間に住むのはコリゴリ、若い人たちのそばにいたほうが血が騒いで楽しいわ、とバイタリティー溢れるパージェター夫人が越してきます。
馬蹄形に並ぶ六軒の高級住宅《スミシーズ・ローム》の一つを夫人は借りますが、入れ替わりに転出した夫妻の行方がなぜか知れません。五軒に住むのはいずれも秘密を抱えたクセのある女たち(夫たちはロンドンへの遠距離通勤のせいか、あまり登場せず)。彼女たち同士の関係も相当に微妙なうえに、さらに怪しげな新興宗教団体が登場してくることで、話がこんがらがっていきます。
死体を見下ろす殺人者の描写から始まり、クローズド・サークルで事件が進行(絶海の孤島などではなく、郊外の住宅地というのが今っぽい)、今回もワクワクの犯人捜しです。。一見裕福で満ち足りた家庭の裏に流れるドロドロが暴かれていきます。
事件自体は途中まで失踪の調査で進むので『気どった死体』より少々地味ですが、犯人の正体は前作以上に意外過ぎるものでした。
故パージェター氏の仕事仲間の組織が、前にもましてすごいことになっています。組織力、情報収集力など警察よりはるかに上。一番キャラが立っているのは、まるで葬儀屋か死刑囚のような沈鬱な口調で話す探偵メイスンでしょう。人探しにかけてはスゴ腕ゆえに《トラッフラー(トリュフ探しの名人)》のニックネームを持ち、危険な捜査に挑むパージェター夫人を援護して大活躍します。
では第三作『手荷物にご用心』(1990年)の舞台はどこになるのかというと、いきなりギリシャなのです。今回エッセイで取り上げたのも実はその理由からです。
パージェター夫人は、夫と死別して落ち込む友人ジョイスを元気づけようと、コルフ島(ケルキラ島)へ連れだって出かけます。英国ガトウィック空港から三時間半の旅。ギリシャ西側のイオニア海にあり、クレタ島やアンドロス島と違ってオスマン帝国の支配をうけなかった島です。旧市街地は2007年に世界遺産となっており、海に突き出た可愛いヴラチェルナ修道院や19世紀にオーストリア・ハンガリー皇后エリザベートが建てた豪華な宮殿アキレイオン(アキレウスの館)も有名で、映画『007/ユア・アイズ・オンリー』でも美しい姿を見せています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Corfu#/media/File:Pontikonisi.jpg 【コルフ島(ケルキラ島)。水上に突き出たヴラチェルナ修道院】 |
ただし、パージェター夫人は「暗闇のなか、ギアの音をきしませて曲がりくねった道を走るバスに揺られながら、どうも自分好みの旅とはだいぶ違うと考えていた」ようで、ちょっと前途は多難かも。
ブズキの音が鳴り響くのどかな聖ニキタス村に到着。二人で別荘を借り、のんびり自炊生活しようという計画です。
ところが翌朝、信じられないような青一色の海と空、ここが好きになりそうな予感がするわ、などとパージェター夫人が感無量の中、ジョイスが死体になって見つかります。ギリシャには来たことがなく知り合いもいないはずなのに、なぜ彼女が殺されなければならないのか。地元警察は行きずりの強盗説でかたづけようとしますが、まさかそんな話ではないでしょう。
飛行機に搭乗する前にジョイスはパージェター夫人にバッグをひとつ預けていました。中には使途不明の不思議なものが入っています。
ストーリーの中心となるのは村のタベルナです。登場人物たちが集まって、ウーゾをチビチビやりながらムサカ(ナスとミートソースのグラタン風料理)や
キャラをちょっと紹介すると、タベルナのあるじは五十代のマッチョなスピロス(名前はコルフ島の守護聖人スピリドンにちなんで)。スカーフを手に見事なギリシャダンスを披露しています。ウエイターのヤニスは白い歯をきらきらさせて、細身でテーブルの間を滑るように歩く小粋な若者。厨房を手伝う神秘的な黒髪の美女はスピロスの妹テオドシア。彼らがまっとうに働いている傍らには、何で暮らしているのかよくわからないのらくら男ゲオルギオスが居座っています。印象が最悪なのがカラスカキス巡査。事あるごとによそ者パージェター夫人に突っかかり、ろくに事件を調べようとせず、本当は観光警察なのに案内もしない。「カライスカキス」なら19世紀独立戦争の名高い英雄で、ピレアスのサッカー競技場《スタディオ・ヨルギオス・カライスカキス 》にもその名を残しているのですが、コルフ島の巡査はトホホの小物。
とにかくジョイスの過去に原因があるとみて、パージェター夫人は英国の《トラッフラー》メイスンに調査を依頼。しかしギリシャにつながる手がかりがなく、夫人自らが帰国して捜査する決心をします。
かなりの部分がコルフ島で展開し、超ポジティヴの夫人がアクの強い現地の人々の中でどう活躍するのかが読みどころです。異国で素人が調査するのですから、あらゆる種類の壁がありそうですが、またまた亡き夫のお助け軍団が登場。村ではロンドン育ちのギリシャ人ランベスが甲斐甲斐しく世話をしてくれ、言葉の問題も全くなし(ギリシャ語も出てきません)。夫人は開放的になった外国人観光客たちを冷めた目で見る余裕さえあります。
今作も楽しい謎解きが軽快に進みます。ヘッドへリングもけっこう散りばめられ、ジョイスが死の前夜タベルナ内で何か(誰か?)を見て衝撃を受ける場面(視線の先には複数の人物。初めてギリシャ訪問なのにいったい何に驚愕したのか)などはいかにも本格物の醍醐味(『鏡は横にひび割れて』が思い出されます)。
最後は海を背景にしたスペクタクルの大サービスでした。
それにしても、故パージェター氏の手下軍団が優秀過ぎる。「ご主人様にはお世話になりまして、奥様のお頼みでしたら何なりと」「奥様に代金を請求するなんてとんでもない」のセリフが何度も繰り返されます。三作目になると、ちょっと「またか……」の感がありますが。
大物メンバーとして旅行会社社長エンリケスが初登場。夫人がカラスカキス巡査に睨まれて、ギリシャを去ること相成らぬ、と宣告されたにもかかわらず、いとも簡単にフライトチケット(ファーストクラス)を手配し、おまけにランベスの手になる偽造パスポートで自由に英国とを行き来させてくれます。ミステリ版《どこでもドア》ですね。コージーを越えてもはやファンタジーの域。何人いるかわからないこのグループ、《ドラえもんグッズ集団》とでも呼びたいほどで、最初から犯人逮捕を依頼しておけば、すぐに事件が解決しそう。
ご都合主義は、まあファンタジーだから何でもありだと思えばいいのですが、ユーモアで済ませきれないのが亡きパージェター氏のポリシーです。かつての仕事の後暗い部分は夫人に知らせようとしていません。知らなければ、脅されても証言を求められても話せないため身は安全、ということらしいのですが、つまりは、夫人に世の中の暗部を見せない。夫人も「知らない方がいいこともあるわ」と乗っかって無邪気にふるまっています。その一方で、他人のフライトチケットを奪って優雅にシャンパンを飲んでたり、情報を得るため弁護士を平然と恐喝しています。
気楽なエンタメ作に目くじらを立てることはないのでしょうが、例えば、戦争を遂行する国家とこれに目を背ける国民の責任がホットな議論になる今の世の中だからこそ気になってしまいます。
本作が出版された1990年と言えば、共産主義体制が次々と崩壊し世界が大混乱していた頃ですが、当時の現実への言及も特にありません。
まさにファンタジー世界のミステリです。
いろいろ文句を言ってしまいましたが、それなら読むのをよせばいいのに、まったく読者とは気まぐれなもの。ちょっとしたことでまた手が伸びてしまいます。何気なくブレットの作品リストを眺めていて、シリーズ最新作『パージェター夫人の広報 Mrs Pargeter’s Public Relations』(2016年)のカヴァーに翻るギリシャ国旗が目にとまりました。紹介文によればパージェター夫人がふたたびギリシャを訪れるらしい。これは……やっぱり読みたくなります。
【『パージェター夫人の広報』(2016年)。パージェター夫人シリーズ第8作。1998年の第6作Mrs. Pargeter’s Point of Honour以降中断していましたが、2015年第7作Mrs. Pargeter’s Principleで復活したようです。夫人のギリシャ旅行は実に26年ぶり】 |
パージェター夫人は野良猫の里親を探すチャリティー団体の会場を訪れます。特に動物好きというわけではなく、旧知の女性に会うためです。そこで何と亡き夫の妹を名乗る女性に声をかけられます。いきなり馴れ馴れしく登場したこのロシェルという女、広報コンサルタント会社のやり手経営者で、しょっぱなから妻と妹の間に敵愾心の火花が散ります。ところが、パージェター軍団の面々に尋ねてもそんな存在など全然知らないか、ある者は黙して語らず。いったい本物なんでしょうか?
そんな折、チャリティー団体の女性スタッフが殺されてしまいます。猫好きでギリシャの小島アトモスに住み込み、野良猫を保護して英国に送る担当でした。
さらにもう一つの事件発生。パージェター夫人宅の鉄壁の金庫が破られ(設置したのはパージェター氏の部下で凄腕の錠前師だったのに)、夫が遺してくれた大切な黒い手帳が盗まれてしまいます。中にはパージェター軍団の詳細な連絡網が書き込まれていました。
猫のチャリティーも殺害事件も手帳窃盗もつながっていて謎のカギはアトモス島の猫の保護施設にあり、と(早々と)睨んだパージェター夫人は《トラッフラー》メイスンとともに、ふたたびギリシャへ渡ります。
さて、このアトモス島は人口三百人ほどの小さな島で、スキアソス島から船で渡るとされています。スキアソス島のほうはエーゲ海のスポラデス諸島(キクラデス諸島より北)に属する実在の島です。この諸島は17の島からなり、大きなスキアソス島やスコぺロス島には五、六千の住民がいますが、三百人の島というのはないようで(それどころか多くが無人島化しています)、つまりアトモス島は前作のコルフ島とは異なり、架空の島です。こうしておけば、気兼ねなくパージェター夫人が大暴れできるということでしょう(けっこう悪辣な島民たちが登場しますから)。
ついでながらスキアソス島は現代ギリシャ文学史上もっとも重要な小説家の一人アレクサンドロス・パパディアマンディスの生まれ育った島として有名です。また、隣のスコぺロス島は《ギリシャ・ミステリの父》ヤニス・マリスの出身地です。
ただ、夫人のギリシャ訪問は初めてではないためか、今作ではその描写が少なめなのが残念。アトモス島の猫の保護施設とか、海岸のホテル《
それで内容はと言うと、残念ながら、『気どった死体』『奥様は失踪中』ではしっかり主軸だった謎や意外な展開が薄味になってしまい、おなじみパージェター軍団の大冒険の趣き。善玉悪玉の境界がはっきりしすぎていて、犯人もけっこうわかりやすい。そのため、三作目『手荷物にご用心』で少し感じたイライラが増幅されてしまいました。
とにかく次々に現れる《ドラえもんグッズ集団》の優秀なこと。コンピュータ&ネット調査のプロ、情報を惜しみなく流してくれる警官、地獄耳の敏腕ジャーナリスト、爆薬の世界的権威。世界中のどんな錠前も開けられる《どこでもキー》とか、遠隔操作で他人のファイルとコピーが削除できるプログラムなども登場。おまけに、かつて敵対していた世界一の錠前師が「じつはパージェター組で働きたかった」なんて告白するに及んでは……事件が解決できない方が不思議。これでは大勢のエリート衆が寄ってたかって貧弱な敵をイジメている図にさえ見えてしまう。
さらに、この《ドラえもんグッズ集団》が夫人を甘やかしすぎです。相変わらず夫人のためならお代は一切いただかず(プロなら請求したほうがいいよ)、パージェター軍団の稼業(つまり犯罪ですが)の詳細をまったく夫人には知らせません。「夫人の瞳に無邪気な色を認めると、すぐに口をつぐんだ」のセリフが何度も繰り返されます。ドラえもんだって時にはのび太の成長のために厳しい言葉で叱るのに。
8作も続いているのですから熱心なファンはいるのでしょうが、こころから楽しめるかどうかは、黄門様の印籠みたいに定番となった展開を痛快に感じられるかどうかにかかっていそうです。
◆おまけ
ギリシャの島々のミステリ地図を作ってみました。
他にもまだまだ作品がありますので、そのうち改訂版も準備したいと思います。
*画像クリックでpdfファイルをひらきます。
橘 孝司(たちばな たかし) |
---|
台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと紹介するのがライフワーク。現代ギリシャの幻想文学・一般小説も好きです。 《図書館廃棄本を救え》作戦、今月は初体験のバルザックです。『ウジェニー・グランデ』は登場人物たちの掛け合い・陰謀合戦が無類の面白さ。キャラが立っているのは吝嗇家で非情なグランデ爺さんだけではありません。周囲の誰もかれもが欲望で動いており、娘ウジェニーを心から愛する真打ちのイケメンがようやくパリからやって来たと思ったら、この男がまた……それだけではなく、主役のウジェニー自身も方向は違えど父親の妄執ぶりにだんだん似てくるというおそろしい展開。登場人物全員を突き放して描く三人称視点が悲喜劇のモザイクを生み出しています。 同じ巻に収録された『谷間の百合』はほぼ全体が(私には鬼門の)一人称語り。ナルシストの語り手ヴァンドネスが饒舌すぎて、プラトニックな伯爵夫人とファム・ファタールの侯爵夫人の二人から愛されてハイハイ幸せでしょうね、と途中から辟易しはじめましたが、最後に置かれた手紙の内容にビックリ。ガツンとやられました。これが作家の狙い? たぶんそうじゃないんでしょうけど、ミステリ・ファンとしては(純愛の部分ではなく)ここで反応してしまいます。いえ、語り手が伯爵夫人殺しの真犯人というわけではありませんが。 【三人称のパノラマ描写と一人称語り。この二作を同じ巻に収めたというのは編纂者が狙ってのことなのか(私が読んだのは1965年刊の中央公論社版)。続けて読めば最後はなかなかの衝撃です。そもそも三角関係の恋愛をその一角を占める当事者が語って、客観性が成立するはずがない】 |
【スキアソス島は文豪パパディアマンディスの生まれた島。村や町の生活を描いた膨大な短編群で知られる作家ですが、数少ない長編の一つ『女殺人者』は和訳があります】 |
【1970年代半ばからクリスティー原作のオールスターキャスト映画が次々と作られましたが、『オリエント急行殺人事件』(1974年)、『ナイル殺人事件』(1978年)に続く第三段がこの『クリスタル殺人事件』(1980年)。原作は『鏡は横にひび割れて』(けっこう好き)。にしてもこの邦題は何とかならなかったものか。同年に田中康夫『なんとなく、クリスタル』が注目を浴びたとはいえ……】 |
【クリスティー「夜鶯荘」所収】 |