日本のピエール・ルメートルファンは恵まれています。ルメートルの小説はほぼ邦訳されているからです。実はルメートル作品で最初に日本に紹介されていた「死のドレスを花婿に」、大ヒット作「その女アレックス」、またその主人公カミーユ・ヴェルーヴェン警部のシリーズ「悲しみのイレーヌ」「傷だらけのカミーユ」、ゴンクール賞受賞作「天国でまた会おう」(映画化され日本でも二〇一九年三月に公開、それに合わせて梅田 蔦屋書店ではこのようにオリジナルの限定映画ビジュアルカバーで展開されています→ https://twitter.com/umetsuta/status/1099288025505292289 )とその続編で最新作の「炎の色」、二〇一八年度の各種ミステリーランキングにランクインした単発作品「監禁面接」。翻訳は順調に進んでおり、残すところヴェルーヴェン警部ものの中編 “Rosy & John” (2011)” Trois jours et une vie”(2016)のみになりました。今回は後者をご紹介したいと思います。

 ルメートル作品は大きく二つに分けられると思います。まずヴェルーヴェン警部シリーズや単発の「死のドレスを花婿に」「監禁面接」のような、ひねりをきかせた展開や大胆な仕掛けで読者をあっと言わせるエンターテイメント。それに比べてゴンクール賞受賞作でもある「天国でまた会おう」は、読者を驚かせ楽しませるというより、戦争を体験した二人の若者の運命を抑えた筆致で描いた作品でした。“Trois jours et une vie” ――英訳版タイトルはそのものずばりの直訳で “Three days and a life ” ――は「天国でまた会おう」カテゴリーに分類される作品です。
 主人公は十二歳の少年アントワン。両親が離婚して母親と共にフランスの小さな町で何の変哲も無い毎日を送っています。ところがある日、いつもの遊び場の森の中で人生を変えてしまう事件が起き、そのためにアントワンはあまりにも大きな秘密を抱えることになってしまうのでした。
 ネタバレを避けるため、この森の中で何が起こったのかはここでは詳しく述べないことにします。そんなつもりはなかったにもかかわらず、アントワンがある恐ろしいことをしてしまい、そのせいで、当事者であるアントワンだけではなく、アントワンを慕う近所の幼い少年レミ、そしてレミの家族をはじめとするたくさんの人間の運命が狂ってしまったというとだけ言っておきましょう。大人であっても耐えられないような大きな秘密を期せずして抱えることになってしまったアントワンは苦しみます。自分のやったことを隠したい。ことが明るみになってしまえばきっとお母さんは耐えられない。黙っているしかない。何も知らないふりをしよう。でも黙っているのも耐えられない。勘付かれたんじゃないだろうか? 今にもみんなにばれてしまうんじゃないんだろうか? 
 本を読んでいると、自分では一度も同じ経験をしたことがなくても、「こういうこと、ある」と思ってしまうことがあります。秘密を抱えるようになってしまった後のアントワンの心の動きはリアルで、「きっとこういう状況では、十二歳の子どもはこういうふうに思うのだろう」と思わせるもの。アントワンが逃亡を計画する場面があるのですが、そこでリュックサックに詰めるのがTシャツに靴下、スパイダーマンのフィギュアなのです。そして挫折するのがなぜかと言うと、逃亡資金としてあてにしていた貯金が子ども一人では下ろせないことに思い至ったから。特にしっかりしているわけでも頭がいいわけでもない十二歳の子どもの浅はかさ、ダメダメさ、危なっかしさが表れているシーンです。
 アントワンは、悪いことをする気でしてしまったわけではありません。けれどもことは起こってしまった。自分がしてしまったことをただひたすら隠すために彼のその後の人生が翻弄されていくさまを読者は見守ることになります。これが、たとえば悪人はいかにして生まれるか、という物語だったなら、アントワンは自分がやってしまったことをきっかけに、冷酷な犯罪者の道を歩むことになったかもしれません。あるいは、恐ろしく頭のいい悪の天才少年の物語だったなら、子どもながら他人に罪を着せて自分はのうのうと幸せな人生を生きていったかもしれません。でもアントワンは悪人ではなく、素晴らしい善人でもなく、ただのどこにでもいる平凡な人間に過ぎません。だからこの物語が見せてくれるのは人の運命というものが、子ども時代に起こったある一つの出来事のせいで狂わされていくさま。自分のやってしまったことの恐ろしさゆえに悪夢に悩まされ、恐怖に襲われ、秘密の露見を恐れるアントワンは、ただ運命に翻弄されるしかありません。
  二五〇ページのこの本の最後にたどり着いた時、こう思わずにはいられなくなります。あの出来事が起こらなかったら、アントワンはいったい、誰とどんな人生を送っていただろう? 「そんなつもりじゃなかった」では済まされないことをしてしまった人間の人生の、あったはずの道、できたはずのこと、叶ったはずの望みに思いを馳せつつ読み終えた一冊でした。

●”Trois jours et une vie” by Pierre Lemaitre
https://store.shopping.yahoo.co.jp/umd-tsutayabooks/mabu9780857056658w.html

河出真美(かわで まみ)
 好きな海外作家の本をもっと読みたい一心で、作家の母語であるスペイン語を学ぶことに決め、大阪へ。新聞広告で偶然蔦屋書店の求人を知り、3日後には代官山蔦屋書店を視察、その後なぜか面接に通って梅田 蔦屋書店の一員に。本に運命を左右されています。2018年4月より世界文学・海外ミステリーも担当するようになりました。おすすめ本やイベント情報をつぶやくツイッターアカウントは@umetsuta_yosho。月2回、おすすめ洋書+ミステリーをおすすめする無料イベント、BOOK&COMMUNITYを開催中。また不定期で翻訳者のお話をうかがうイベント「翻訳者と話そう」も開催中。詳し
くは梅田 蔦屋書店HPまで。
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