今回は失踪した精神科医の謎をめぐるサイコロジカル・サスペンス、フリーダ・マクファデンの Never Lie(2022年)をご紹介します。

 新婚夫婦のイーサンとトリシアは新居の購入を考え、大雪のなか、ニューヨーク州ウェストチェスター郡にある家を見にいく。そこはお屋敷と言えるほど立派な家で、イーサンは気持ちを昂ぶらせていたが、トリシアは不気味なものを感じていた。着いたときには2階にぽつりと明かりが灯っていたのに、中にはいると明かりはまったくついておらず、リヴィングルームのテーブルのうえには水のはいったグラスが置かれていたのだ。イーサンは、明かりは気のせいだったのだろうし、グラスは不動産業者が最後に来たときに片付けるのを忘れたのだろうと気にもとめなかったが、トリシアは家のどこかに人がいる気がしてならなかった。
 トリシアの落ち着かない思いは、まえの住人のせいもあった。以前、その家にはエイドリエン・ヘイルという精神科医がひとりで暮らしていたが、3年まえに忽然と姿を消し、以来、行方不明になっていた。警察はなんらかの事件に巻きこまれて殺害されたと見て捜査をおこなったが、遺体は発見されず、有力な容疑者も見つからなかった。

 トリシアはすぐにでも帰りたかったが、外は雪が積もるいっぽうで車を走らせそうになく、携帯電話も雪のせいか電波が途絶え、いちばん近い人家も3キロ近く離れているとあって助けを呼ぶこともできず、一夜をこの家で過ごすしかなかった。家のなかにはエイドリエンが住んでいたときの家具や衣類など生活用品が残っており、くわえて不動産業者が用意していたのか、冷蔵庫には充分な食料がはいっていた。イーサンはこの状況を楽しんでいたが、トリシアは何かがおかしいという思いをぬぐえなかった。
 ここで夜を過ごすことに渋々応じたトリシアは、イーサンがシャワーを浴びているあいだ、書棚をながめていた。ふと目についた本を棚から取りだそうとしたとき、カチリと音がして隠し扉が現れた。その奥は小さな部屋になっていて、何本ものカセットテープが並んでいた。どうやら患者に対しておこなったカウンセリングを録音したテープのようで、興味を惹かれたトリシアは「EJ」と書かれたテープをイーサンには内緒で聞いてみることにした。

 EJは29歳の男性で、自己愛性パーソナリティ障害と診断されていた。カウンセリングを重ねたものの症状はいっこうに変わらず、エイドリエンは限界を感じて、彼を知り合いの精神科医に託すことにした。EJはその提案を拒否するが、彼女はカウンセリングを打ち切った。
 しかしある日、彼女の携帯電話にEJから動画が送られてくる。そこに映っていたのは、エイドリエンがある駐車場で他人の車のタイヤをナイフで切り裂いている姿だった。自分が車を駐めようと待っていた駐車スペースに、あとから来た車がはいったことに腹を立ててやったのだ。EJは、カウンセリングを再開しないとこの動画を公にするという。エイドリエンは著書が評判になったこともあって、一般に名が知られるようになっていた。この動画が人目にさらされると、それまで築いてきた地位を失うことになる。エイドリエンはEJにつきまとわれている恐怖を感じながらも、彼の要求を受けいれざるをえなかった。

 この成り行きを知ったトリシアは、エイドリエン失踪にEJが関わっているのではないかとテープを聞き進めていくのだが……。

 物語はトリシアの一人称で語られる章とエイドリエンの一人称で語られる章とで構成されており、トリシアが聞いているカセットテープの内容の背景にどのようなことがあったのかは、エイドリエンの章でわかる仕組みになっている。
 心の問題を抱えた患者に執着されて身の危険を感じるエイドリエンには同情するが、彼女もなかなか高慢な女性で好感が持てるとは言いがたい。他人の車のタイヤを切り裂くのも異常だが、いまどき(本書は現代の話だ)デジタルではなくカセットテープを使うのにも妙なこだわりを感じる。いっぽう、トリシアとイーサン夫妻もどこかしっくりこない。家に不気味さを感じて神経を張りつめるトリシアに対して、イーサンはそこで暮らす自分たちを思い描いて心を浮きたたせている。トリシアの気持ちを汲もうともしていないように見えるのだが、トリシアはイーサンのことを優しくていい夫だと思っている。3人それぞれに、どこか歪んだところがあるのではないかと感じてしまう。こういった読者の心を落ち着かなくさせる、サイコロジカル・サスペンスらしい人物造形も著者の意図したことなのだろう。

 著者のフリーダ・マクファデンは脳損傷を専門とする現役の医師である。作家としてはこれまでにサイコロジカル・サスペンスを中心に20数作出版しており、いずれも好評を博している。なかでもハウスメイドを主人公にした The Housemaidシリーズは評価が高く、第1巻が国際スリラー作家協会賞のペーパーバック・オリジナル賞を、第2巻が読書SNS“Goodreads”のユーザーによるGoodreads Choice Awardsのミステリー&スリラー部門の賞を獲得している。(第3巻は今年6月に出版予定)

高橋知子(たかはしともこ)
翻訳者。訳書にデドプロス『シャーロック・ホームズ10の事件簿』、ミラー『5分間ミステリー 裁くのはきみだ』、プラント『アイリッシュマン』、ロビソン『ひとの気持ちが聴こえたら』、ファージング『世界アート鑑賞図鑑 [改訂版]』(共訳)など。趣味は海外ドラマ鑑賞。お気に入りは『シカゴ・ファイア』『ブルーブラッド NYPD家族の絆』

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