「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 

 

 

 

 いやいや、その人を短編の名手と呼ぶのはちょっと違うでしょう。
 よく、そう言いたくなることがあります。
 その人は短編だけじゃなく、長編だって素晴らしいのですよ、だから小説の名手と呼んだ方が適切です、と。
 短編だけ、もしくは長編だけといったように片方の顔だけしか知らないのはもったいない。どちらかばかり注目されていると、つい「その人は長編/短編も……」と言ってしまう。
 スタンリイ・エリンは、そんな作家の筆頭でしょう。
 一編一編挙げていけばキリがないほどの名短編をものにした作家であるエリンですから、それに目がいってしまうのは仕方がないけれど、この人は、長編も凄いのです。
 薄汚れたニューヨーク・シティを、これまた薄汚れた探偵社の社長が駆けるハードボイルド『第八の地獄』(1958)、限られた登場人物全員の心理を一人称で描きながら展開されるフーダニット『ニコラス街の鍵』(1952)、それから一人の男の脳味噌の中身を取り出して突きつけてくるような、とびっきりのクセ球『鏡よ、鏡』(1972)。単純に一つの作品として見て高品質で、かつ、似たような話が一つもない。
 もし、彼が一編たりとも短編を書かなかったとしても、ミステリ史にその名前が刻まれたこと間違いなしといった作品群です。
 エリンといえば、一年に一編しか短編を書かないという職人気質が有名ですが、その丁寧な仕事は長編でも同じなのです。バラエティ豊かな上に、登場人物の積み重ねてきた人生の一瞬、あるいは人生そのものを切り取り、それをそれぞれに適した形の物語に仕立て上げるという核の部分はどれも通底しています。そして、ストーリーから構成、文章と何から何まで長編ならではの世界を描いている。
 アンソロジーのマストアイテムとして知られるデビュー短編「特別料理」(1948,同題短編集所収)とほぼ同時に活字化された処女長編『断崖』(1948)からして、そうなのだから恐ろしい。短編の名手は短編を書き続けているうちに長編の名手〈にも〉なったのではなく、最初の最初から小説そのものの名手だったのです。

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 『断崖』の主人公ジョージ・ラマンは、本人曰く〈どこへ行っても悩みの種だし、それに大ていは自分自身が苦手な年令〉のちょっと内気な性格の少年です。酒場を経営する父と二人で生活をしている彼は、店の手伝いもよくし、他の大人からもベビーシッターを頼まれたりと、純朴な良い子として親しまれています。
 物語は、彼が十六歳を迎える誕生日の夜から始まります。
 その夜、父の店にデイリー・プレスのスポーツ欄の担当アル・ジャッジが現れた。毒を交えてスポーツ界を茶化す彼の記事がジョージは大好きで、ジャッジ自身にも好感を持っていた。
 けれど、店に入った直後に彼がとった行動に、そんな好感は吹き飛んだ。
 彼は客たちの前で、ステッキで父を打ち据えたのだ。シャツを脱がされ、四つん這いにされた父は、何も抵抗せずいたぶられるがままにされていた。
 打たれながら父が歯を食いしばり涙を流しているのを見たその瞬間、ジョージの世界の何もかもが変わった。
 客が消えていった店内で、傷ついた父を見ながらジョージは決意する。あの男、アル・ジャッジを殺さなければならない、と。
 以上の粗筋を読んでいただければお分かりになる通り、本書は一人の少年の犯罪と成長を描く、青春犯罪小説です。
 エリンには「運命の日」(1959,『九時から五時までの男』所収)という、少年のこの先の生涯を決定づけてしまったある日のある瞬間のことを書いた名品がありますが、この『断崖』はさしづめ「運命の夜」といったところでしょうか。
 この夜、尊敬していた父が侮蔑の対象になり、惚れこんでいたライターが仇敵になり、その他の周りの連中がみんな馬鹿に見え始め、それから、自分自身がまるで別人になったのです。
 上に少し引用したように、ずっと大人と子供の中間の年齢である自分をもどかしく思っていた彼が、その年齢の壁を越えて、正真正銘の大人になった気分になる。それを証明するのがジャッジへの殺意であり、そのために家から持ち出した父の拳銃です。
 こうした感情をストレートに語るジョージの一人称は、余りに青臭い。
 エリンは幼い自分から脱したつもりのジョージの幼さを、これでもかというくらい生々しく描いていきます。
 たとえば、あの男を殺すと決意し、拳銃を持って家を出たものの、自分の手元にはジャッジのいるであろう場所へ行くお金すらないという社会的な立場の低さ、ナメられてたまるかと思いながら入ったナイトクラブで初めてウィスキーを飲み、すっかり酒に飲まれてしまうという肉体的な未熟さ……それから、最も痛々しく描かれるのが、考えなしの発言や行動で他人を傷つけたり、逆に簡単に傷ついてしまうという精神的な弱さです。クラブの歌手に対し無神経な言葉をかけて、お互いに気分を害すシーンなどは、読みながらこちらが恥ずかしくなってくる程。
 そんな風に無理な背伸びをしながら仇敵の殺害へと猪突猛進するジョージはとにかく滑稽で、いじらしい。
 そこが良いのです。
 何故なら、作者がその全てをコントロールして書いているから。
 エリンは自分が親しんでいた世界が壊れたあと、自律した素敵な大人たちがいる夜の世界という別の憧れを見つけ、世界を組み立てなおした彼の心を流れるような文章と構成で書いていきます。
 そして、最後の二十ページで、その組み立てなおされたジョージの心をもう一度、グッチャグチャにするのです。

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 本書の最終部は、いわゆる解決編になっていて、ジョージは〈事件の真相〉を全て知ることになります。
 しかし、その明かし方は、サプライズエンディングを目指した書きぶりではないように思います。
 意外といえば意外ですが、エリンは長編でも無駄なものなど一切書かない作家ですから、前半でこのことを書いたのなら、後半ちゃんと機能してくるだろう、と読者が推測できる範疇のものです。
 けれど、それはジョージには絶対に読み取れなかった真実なのです。
 だからこそ、それが明かされた時、ジョージはとんでもない衝撃を受ける。全てが反転してしまったあと、ようやく作り直したものが、もう一度、反転し、そこでジョージは自分がまだ大人になんかとてもじゃないがなれないんだということを思い知らされるのです。
 そして、最終的に彼がたどり着いた結論が叫びとなって、こちらの胸を打つ。
 自分自身の世界と、自分以外の世界の折り合いをどうにかしてつけようとする年頃の少年を書いた小説として、これ以上ないといっていいくらいの出来でしょう。

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 この文章を書くため、『断崖』と、それからエリンの諸短編を再読したのですが、ただただ、感嘆しました。
 最初に言った通り、エリンは長編に相応しい長編と、短編に相応しい短編を書いているのです。
 たとえば、上に書いたように『断崖』と「運命の日」は少年の運命の瞬間を描いているという意味で共通項を持つ二編なのですが、どちらの作品も、それぞれがそれぞれに何度読んでも変わらない感動を僕ら読者に与えてくれるような作品に仕上がっている。
 こんなの、小説の名手という他がありません。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人二年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby