「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 ジェローム・チャーリン編のアンソロジー『ニュー・ミステリ ジャンルを越えた世界の作家42人』(1993)は目次だけで圧倒される一冊です。
 ローレンス・ブロック、ドナルド・E・ウェストレイクといった翻訳ミステリーファンにとってはお馴染みの作家が揃えられている……だけではない。レイモンド・カーヴァー、ガブリエル・ガルシア=マルケス、フラナリー・オコナー、三島由紀夫とストレート・ノヴェルの巨匠の作品が収録されている。
 このアンソロジーはチャーリンが設立者の一人を務めた国際推理作家協会の活動の一環で編まれたもので、チャーリンは序文で本書の狙いは越境であると語っています。
 この序文は、エドマンド・ウィルソン「探偵小説なんかなぜ読むのだろう?」「誰がロジャー・アクロイドを殺そうとかまうものか」に代表される、かつての評論家たちのミステリー批判の総括から始まります。現代のミステリーにはコナン・ドイルの作品にあった詩情や雰囲気がすっかり失せてしまっている。ダシール・ハメットに代表される想像力の欠如した小説など誰が喜んで読むのだ……というのが彼らの意見だったとチャーリンはまとめ、その後、真っ向から反論をします。
 ハメットをはじめとする作家たちの価値が分からなかったのは、彼らにミステリ―というジャンル自体への偏見があったからだと。そのためにヘミングウェイの素晴らしさは分かっても、ハメットの力強さには気づけなかった。自身の見た社会をそのままに描く文章は、同時代のストレート・ノヴェルの書き手たちにも時に勝るものだったというのに。
 今はもう誰もがその価値を知っているとチャーリンは続けます。その過程で、様々な境界線が越えられた。アメリカ本国よりも諸外国の者の方が先に今はノワールと呼ばれるようになったクライム・ノヴェルの価値に気づいた。ミステリー、ストレート・ノヴェル問わず、この犯罪小説の系譜に続こうとする者は絶えない。社会そのものが犯罪の文化を構築している現代では、社会を書こうとすれば自然に犯罪小説になってしまうのだ。
 このようなミステリーというジャンルのこれまでの経緯と、これから目指すべきものを示すため、ジャンルの境界線も国境も突破するようなメンツを選んだ。チャーリンは本書の意義をそうまとめます。
 目次以上に気圧される前書きです。
 余りの熱量に僕も「おお」とため息を吐いたのですが、同時に一つ納得もしました。これが彼の小説の読み味の所以か。
 ジェローム・チャーリンの作品は、まさに犯罪を生み出す社会を書いている故にクライム・ノヴェルになっている。特に今回紹介するアイザック・シーデル警視ものは、社会を描いているだけの小説と言ってしまっていい。

   *

 『ショットガンを持つ男』(1975)を第一作とするアイザック・シーデル警視シリーズは、日本では第三作の『はぐれ刑事』(1976)まで番町書房のイフ・ノベルズで紹介されています。前述の『ニュー・ミステリ』に載っている「リトル・レオ」もこのシリーズを補完する短編です。本国では『はぐれ刑事』以降も継続していて、最新作は二〇一七年に刊行されているようです。
 イフ・ノベルズでのキャッチコピーは〈アメリカ警察小説の秀作〉となっていますが、たとえば87分署シリーズのようなものを期待して手に取ると面食らうことでしょう。捜査が主眼の小説ではないのです。
 そもそもアイザックのことを主人公と呼んで良いのかさえ少し躊躇う。アイザックはニューヨーク市警の監査局の警視で、悪党を追う立場なのは間違い無いのですが、チャーリンはどの作品でも他の登場人物のパートに同等以上のページを割き、その多くが犯罪者やチンピラです。
 多視点で語ったニューヨークの街を蠢く犯罪者たちの描写が段々と噛み合っていき、全体を通して一つの構図が完成するようになっていることから本書をジグゾーパズルと喩える書評が『はぐれ刑事』の訳者あとがきで紹介されていますが、実に的を射ていると思います。
 その街にいる人間のことをひたすらに描く。それが社会を書くことになっていて、この社会は犯罪に満ちている故に自然、クライム・ノヴェルの体裁になる。
 この感触が独特で、ハマれば抜けられない引き込む力があるシリーズ……なのですが、硬派が過ぎて少し取っ付きづらさがあるのは否めません。特に『ショットガンを持つ男』は第一作であるにもかかわらず登場人物の背景情報の出し方が不親切で、少々読みづらい。
 個人的には、第二作の『狙われた警視』(1976)から読み始めることをオススメしたい。時系列的に邦訳されている三作の中で一番最初に当たりますし、街の至るところにいるどうしようもない人間たちの描き方もシリーズの中でトップレベルに冴えている。

   *

 母親が襲われたとアイザック・シーデル警視が聞いたのは、犯罪研究会議のためという名目でパリにいる時だった。
 慌ててアメリカに戻ったアイザックは、母を襲ったのは最近ニューヨークの街に跋扈しているロリポップ・ギャングだと聞かされる。だが、アイザックは無軌道な若者たちによる無差別な犯行だとは信じなかった。これは間違いなく、自分に恨みを持つ者による犯行だ。アイザック自身は当然、娘のマリリンも危ない。
 困ったことにその予断は当たっていた。アイザックの旧友フィリップの息子ルパートと、その恋人エスターをはじめとする不良少年たちの狙いは確かにアイザックで……。
 本書もやはりシリーズの他作と同様に群像劇になっています。アイザックと不良少年たちをはじめ、マリリンやアイザックの腹心の部下であるマンフレッドと何人かのキャラクターに視点が振り分けられている。
 この視点人物たちがそれぞれ、他のキャラクターに一切似ていないというのが特徴です。勿論キャラクターの書き分けというのは小説の基本ではありますが、チャーリンの場合、性格や見た目が違うというだけにはとどまらない。ユダヤ人、中国人といったルーツの違いから、経済的な状況や就いている職業に至るまで、とことん多種多様な人間が出てくる。
 そんな彼ら彼女らに一つだけ共通点がある。子供であるということ。
 実際には息子や娘がいる設定のキャラクターも親というロールをやりきれていない。自分がやることすらろくにコントロールができていない。
 唯一、アイザックのみがどうにか大人らしいことをやろうとしている。他人を操ることが得意な彼は事態を収束させようと動くのです。そして、他のキャラクター……子供たちはそんな彼のことを頼り、甘える。……その甘えが襲撃という形で表れたりもするのですが。
 物語はオフビートに進行していき、ふと気がついたら思いもよらない絵が出来上がっている。歪な形ばかりだった人間関係のパズルのピースがどれもピタリとハマっていて、そのことに驚く。
 そんな小説です。

   *

 チャーリンの小説はアイザック・シーデルもの以外ではミステリアス・プレス文庫で『パラダイス・マンと女たち』(1987)が訳されています。
 やはりニューヨークの暗黒街を舞台とした作品で、血生臭くハードだけれど、どこか抜けている雰囲気もあって、登場人物一人一人がなんだか愛おしい。アイザックものと同様です。
 きっと、これがチャーリンが見ている世界なのだろうと思います。

 

◆乱読クライム・ノヴェル バックナンバー◆

 

小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人七年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby