「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 タイトルだけは見覚えがある。
 デイヴィッド・ドッジの『黒い羊の毛をきれ』(1942)は僕の中で、長らくそれだけの作品でした。
 古書店の棚で、世界推理小説全集や現代推理小説全集、クライム・クラブといった東京創元社から出されていた叢書が固まっている一角を見つける。心中でガッツポーズをしながら近寄って、アンソニー・バウチャー『ゴルゴダの七』(1937)やクレイトン・ロースン『首のない女』(1940)のような稀覯本や、ウィリアム・モール『さよならの値打ちもない』(1956)やベルトン・コップ『消えた犠牲』(1958)といった読みたくてずっと捜している本がないかチェックをする。そうした棚に必ずといっていい程、並んでいるのが『黒い羊の毛をきれ』です。妙な題名で記憶には残る。文庫など別の判型では出されていないらしいが、余り評判は聞かないので手には取らない。
 だから、『泥棒成金』(1952)と同作者だと知ったのも、つい先日のことです。
 そもそも最初は『泥棒成金』を本連載で取り上げるつもりだったのです。同題のヒッチコック映画の原作として知られるこの作品は、大人のおとぎ話と呼びたくなるようなキュートな犯罪小説です。引退した伝説の宝石泥棒である主人公が模倣犯の登場で平穏な生活を脅かされ、無罪を証明するために泥棒を追う側になるという粗筋からして魅力的じゃありませんか。泥棒が泥棒を捕まえようと奮闘する筋を中心にした上で、舞台となっているフランスのリゾート地に集った登場人物たちがそれぞれの思惑のもと動き回る様子を心地よいテンポで読ませてくれる佳作です。
 というわけで参考程度の気持ちで『黒い羊の毛をきれ』を入手し、読み始めたのですが……驚きました。面白いじゃないか。
 転がりゆくようなストーリー、洒落た会話、活き活きとした登場人物、どこをとっても気持ちの良い、一級と呼んで差支えのないミステリーです。読み終える頃にはすっかり方針転換をしていました。
 今回は本書、『黒い羊の毛をきれ』をご紹介いたします。
 
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 『黒い羊の毛をきれ』は経理士ジェームズ・ホイットニー(ホイット)とその愛人キティ・マクレードを主人公としたシリーズの第二作にあたります。
 第一作であり、ドッジのデビュー作であるDeath and the Taxes(1941)の事件での活躍を切っ掛けに、ホイットのことをサンフランシスコ警察の警部補に紹介されたという依頼人が現れるところから本書の物語は始まります。
 依頼人は大金持ちの羊毛業者ジョン・J・クレイトン。美味しい仕事にありつけそうだとクレイトン氏のもとを訪ねたホイットでしたが、待っていたのは計理の仕事ではありませんでした。ロサンゼルスに事務所を置かせているクレイトン氏の息子、ボッブの様子がどうもおかしいので探ってほしいというのです。明らかにおかしい額面の小切手が何枚も出回っている。不正をしているのではないか。
 ホイットは最初、それは探偵に頼む仕事であって自分向けではないと断ろうとしたのですが、結局押し切られてしまい、愛するキティをサンフランシスコに残し、ロサンゼルスへ出向くことに。
 調べ始めてみるとクレイトン氏の懸念通り、妙なことが起こっていた。ホイットは聞き込みの果て、ボッブがハマっている賭けポーカーの現場へと乗り込んで……というのが粗筋になります。
 率直に言えば、ヒキの強い概要ではありません。
 先に述べた『泥棒成金』のような派手な要素がない。ジャンルとしても、ミステリーではあるけれど、サブジャンルの分類には困る。僕がずっと「余り評判を聞かない」と思っていたのもこの辺りの事情でしょう。
 それはある意味当然で、そもそも本書の魅力はそうした部分にはないのです。この小説の楽しさは、読み心地の部分にある。会話や物語の転がし方が洒脱で、そここそが良いのです。
 たとえば、クレイトン氏に押し切られて依頼を受けてしまって意気消沈したホイットを心配したキティが何があったのかを尋ねる場面が僕は好きです。「いいお仕事なの?」「よくはない。よすぎるのだ」といったような、シンプルながらニヤリとしてしまうやり取りがされるのです。
 それから、あれこれ調べていたところ殺人事件が発生してしまい、それについて捜査を始めたホイットが「これは謎を解く鍵に違いない!」と思い込み、聞き歩くのがキティのために用意させたフットボールのチケットの件だったりする部分も良い。それを聞き出すため繰り返される会話が一つのくすぐりになっていて、いちいち口角が上がる。
 笑えるだけではなく、物語の核になっている賭けポーカーの描き方の部分では緊迫感も出してくる。それぞれ思惑を持った一癖も二癖もある参加者たちが一つのテーブルの中でイカサマありの駆け引きをする描写、それを捉えるホイットの視線や思考、申し分のない巧みさです。特に引退した大学教授を名乗る謎の男シムスが良いキャラクターなのです。
 読みながら「おっ、良いな」と感じる文章や要素が続いていく。これこそがこの小説の美点でしょう。ジャンル分けをするなら本書はきっと、スクリューボール・コメディなのです。系譜としてはパトリック・クェンティンの〈パズルシリーズ〉や、クレイグ・ライスのヘレン&ジェイクと同じところにある。これらと比べて外連味は薄いですが、恐らく、『迷走パズル』(1936)や『大はずれ殺人事件』(1940)を愛する翻訳ミステリーファンにはぴたりとハマる。あるいはドナルド・E・ウェストレイクの『ギャンブラーが多すぎる』(1969)あたりの作品が好きな人にも……そう、繰り返すようですが、少なくとも僕は大好きなやつなのです。
 最後に待つ事態の収束のさせ方だって、これらの名作に匹敵するとまでは言いませんが、とても良い。「えっ、あなたなのか」と思う意外な犯人、それを出してくる場面の演出、どちらも申し分なく上手い。
 何より、その後のホイットとキティ二人のラストシーンが、とにかく笑顔がこぼれてしまうのです。
 シリーズは本書の後も続いているようなので、この二人の物語をこの先も読んでみたいなという気持ちにさせられます。
 
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 ドッジは本国では旅行記の作者としても有名で、『泥棒成金』のようなアメリカ国外を舞台とした小説を書いていたのもその流れの中にあるようです。
 サンフランシスコからロサンゼルスと国内での移動ではありますが、本書もそうした趣があります。知らない街で、地元では会わないタイプの人間とやり取りをするホイットの描写に筆をしっかり割いている。実際、冒頭で依頼を受けたホイットがキティに「だから年末は一緒にいられない」と話す時、キティは旅行気分で同行したいと言ったりもします。
 こうした部分に至るまでの楽しさの提供に、これは確かに同時代で多くの読者を獲得できただろう、という実感を覚えます。
 決して力こぶをつくって「傑作!」と言うような小説ではありませんが、だからこそ「これ、結構良いんだよ」と肩の力を抜いて色々な人に差し出せる。そんな一冊だと思います。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人七年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby