「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 好きなのではないかと予感しながらも、何故か読むのを避けていた。僕にとってロス・トーマスはそういう存在でした。買い集めるだけ買い集めて、積みっぱなし。
 怖気づいていたのだと思います。ロス・トーマスといえば難解という評判があった。ストーリーが込み入っていて万人向きではない。そう聞いて、中々、手が出なかったのです。
 ある日、意を決して『女刑事の死』(1984)を読んで、驚きました。
 分かりやすく面白い。近年、ここまで夢中になってしまう読書をした覚えがないという程に夢中で読み耽りました。その後に読んだ、他の作品についても同様に素晴らしかった。
 前評判の理由は理解できました。登場人物が多く、それぞれの視点での幾つもの筋が絡み合う群像劇が多い。『クラシックな殺し屋たち』(1971)のような一人称の小説でさえ、主人公視点ではないところでのキャラクターの動きを加味して読んでいく必要があり、シンプルとは言えない。
 とはいえ難解かと言われれば、はっきりNOと断言できます。視点人物それぞれの性格、思惑が明瞭なので「この人は誰? これは何の話?」という混乱はない。大小様々な悪党たちが各々の目的のために動いていった結果、一つの大きな悲喜劇が出来上がっていき、最後には皮肉な結末が待つ。ここにあるのはよく整理された上質なエンターテイメントです。
 なにより、うっとりするくらいに文章が良い。特に、ニヤリとさせられる表現の差し込み方が巧みです。基本的には飾りの少ない簡潔な文章なのですが、ちょっとした言い回し一つ一つが洒落ていて読んでいて心地よい。
 好きなのではないか、どころじゃない。大好きだ。これがロス・トーマスへの現在の気持ちです。
 今回紹介する『ポークチョッパー 悪徳選挙屋』(1972)も、読み始める前に既に「絶対に面白い」という確信を持っていました。
 勿論、その期待は裏切られませんでした。
 
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 九月初めの月曜日、勤務先であるスーパーマーケットから帰宅したトルーマン・ゴフは妻から手紙が来ていると知らされた。ある程度の厚みがある、マニラ紙の封筒を見て、ゴフはまた、あの手紙が来たのだと察する。
 中に入っているのは百ドル紙幣五十枚で五千ドル、それから、名前が一つ書かれたのみの白いカード。
 ゴフは名前を覚えてカードを破り捨てたあと、紳士録を手に取った。これから自分が殺すターゲットがいかなる人物かを調べるために。
 一方その頃、全米各地では選挙戦のために男たちが動き出していた。
 選挙戦といっても政治家を選出するものではない。産別労働組合の委員長の選挙だった。それ故に情勢は荒れていた。
 組合員数は九十九万人前後。アメリカで最大級といっていい、そんな労組の委員長ともなれば強大な権力を持つ。実際、現委員長のドナルド・カビンはその特権を、十六年もの間、思う存分享受していた。
 だが、今回の選挙は危うい。対立候補であるサミー・ハンクスが着々と勢力を拡大している。ハンクスが使うのは、腐敗した現体制を批判する表の戦法だけではない。カビンをハメるような、非合法じみた手口まで使いこなしている。
 勿論、黙っているカビンではない。汚い手を使ってでも、相手を蹴落とさなければ。そう思う双方の選挙戦は加熱していき……。
 労働組合の選挙戦を描いたクライム・ノヴェルと、まとめてしまって良いでしょう。
 現代を生きる日本人としては、労組を舞台にしたエンターテイメントなんて成立するのかと思ってしまうくらいですが、実際、成立させてしまっているのだからロス・トーマスは凄い。
 まず、この選挙戦が面白い。
 いかに資金を手に入れるか。確実な味方を引き入れるか。そして、対立陣営を打ちのめすか。
 ともすれば、生々しすぎて嫌になってしまいかねない内容ですが、そこがロス・トーマスの小説家としての腕の見せどころ。リアリティは保った上で、犯罪小説の形に戯画化しており、どこかユーモラスに読ませてくれさえする。
 たとえば、現委員長であるカビンがテレビ番組でタレントに攻撃され、評判を落とす一連の流れの辺りなんて上手い。舌戦の様子をコミカルに描いていて、スキャンダルが暴かれた嫌な場面というよりも、情報戦の一環で見事な一手を指されたという印象の方が残る。
 労働組合の選挙戦を、まるでゲームのように読ませる。素材について知り尽くしており、かつ、小説家としても一流の人間だからこそできる離れ業です。
 そして、この離れ業ができているからこそ殺し屋への依頼という筋も効果をあげている。いかにもフィクション的であるにもかかわらず、あくまで物語の一要素として物語に組み込まれており浮いていない。
 一体、誰が何のために殺しの依頼をしたのか? そして、その依頼はかなうのか?
 選挙戦が展開を見せる度に、読者はこの謎を突きつけられます。殺しのターゲットになっているのは、カビンらしい。だが、こんな有利な状況でハンクスがわざわざ強硬手段を依頼するだろうか。じゃあ他の誰が? この人だろうか。それとも……シンプルながらも、この謎が物語を牽引するサスペンスを産んでいる。
 殺し屋についての謎が解けるのと、選挙戦の決着は、ほぼ同タイミング。読者は、そこで思わず膝を打つ。鮮やかな構成といっていいでしょう。
 
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 ロス・トーマスの作風を語る際、一癖も二癖もあるキャラクターというフレーズがよく使われますが、登場人物に魅力があるという点では『ポークチョッパー』も例外ではありません。
 一見して新たな委員長候補として完璧ながらも致命的な弱味を抱えた男、「選挙を盗む」ことにかけてはプロの組合専従者、全てを知り尽くした株式界の長老……どの人物も登場の時点で読者の頭にその性格が刻み込まれる。また、労働組合の上層部から、末端の労働者に至るまで幅広い層を高い解像度で書けているのもロス・トーマスの腕が発揮されているところでしょう。
 中でも選挙戦の中心にいる男、ドナルド・カビンについての人物造形は特に見事です。
 彼は、こうなりたいとは思ってはいなかった男として語られます。
 元々は役者になりたいと思っていた。実際、才能はあって、運命の歯車の噛み合い方がほんの少しでも異なれば、そちらの道に進んでいた。それについての後悔が頭のどこかにある。
 一方で、強大な権力を弄ぶのを楽しんでないわけではない。複雑な人物像を過不足なく語り、故に「どうして彼が命を狙われているのか」という例の謎も活きている。
 群像劇ではありますが、本編の主役を強いて挙げるなら、カビンだと思います。彼の物語が終わる時に、選挙戦も、この小説も終わるわけですから。
 
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 最初に、ロス・トーマスについて買うだけ買って積みっぱなしだったと書きましたが、実は今も、全て読み切ったわけではありません。好きな作家の本なら、とにかくあるだけ読んでしまうタイプである僕にとっては珍しいことに大好きと分かった後も読むペースは抑えています。
 余りにも好みすぎて、読み切ってしまうのが勿体ないのです。
 僕にとってのクライム・ノヴェルの理想形の一つが、ロス・トーマスの小説です。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人八年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby