書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信「翻訳メ~ン」はご覧いただけているでしょうか。最新版2019年3月号が到着しておりますので、併せてご覧ください。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

川出正樹

『地下道の少女』アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム/ヘレンハルメ美穂訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 第三作『死刑囚』から八年と一ヵ月。第五作『三秒間の死角』から五年と四ヵ月。版元倒産による危機から、多くの人々の尽力によるシリーズ移籍と復刊という今の出版状況において奇跡にも近い経緯を経て、ついについに未訳だった〈エーヴェルト・グレーンス警部〉シリーズ第四作『地下道の少女』が刊行されたのだから、これを喜ばずしてなんとしよう。しかもシリーズ屈指のサスペンスフルな展開に、ページを繰る手が止まりません。

 作中ある人物が、「地下の世界では、みんなそれぞれに物語があり、誰もが語るのを避けている」と述懐するように、高福祉国家の病巣をテーマにし続けてきた作者は、今回ふたつの都市の二重の意味での〈地下世界(アンダーワールド)〉に焦点を当てた。ある理由からいつ臨界点を突破してもおかしくない状態で捜査に没頭していくエーヴェルトと、地下世界に安らぎを見出した少女の視点を切り替え、過去と現在を往還して緩急自在に物語を展開していく手際のなんと巧みなことか。

 遺棄された四十三人の外国人の子供と、病院の地下通路で発見された顔を損壊された女性の死体。ふたつの難事件に奮い立つエーヴェルトは、ストックホルムの地下に広がるもはやだれも全容を把握していない錯綜したトンネル網へと分け入っていく。過去が現在に追いついたときに立ち現れる真相には、二重の意味で息を呑む。

 ちなみに作者は、前三作のネタばらしを巧妙に避けており、シリーズ未体験の方が初めて手にとってもまったく問題ないので、ぜひこれを機会に手にとって欲しい。

 

千街晶之

『ついには誰もがすべてを忘れる』フェリシア・ヤップ/山北めぐみ訳

ハーパーBOOKS

 被害者、容疑者、その妻、そして刑事。主要登場人物四人の視点で語られる物語だが、読み進めるうちに誰の言うことも信用できなくなってくる。というのも、作中の世界は、今日と昨日の記憶しかない「モノ」と、一昨日までの記憶を持つ「デュオ」という二種類の人類がおり、家柄や階級ではなく記憶の日数による格差が形成されたパラレルワールドとなっているからだ。記憶喪失といえばミステリにおいて数えきれないほど繰り返し使われてきた設定だが、SFの要素を取り入れることでこんなに斬新な印象を演出できるというのは新発見だった。少数に絞られた主要登場人物と、視点の切り替えを巧みに利用した怒濤の連続どんでん返しは、昨年の話題作だったピーター・スワンソンの『そしてミランダを殺す』を想起させるものがある。

 

霜月蒼

『黒き微睡みの囚人』ラヴィ・ティドハー/押野慎吾訳

竹書房文庫

 あらすじも何も見ないで読みはじめていただきたい。可能であればカバー絵も見ずに読むほうがいいと思う。別にあらすじやカバーで致命的なネタバレをしているわけではないのだが、じわじわと「それ」が明かされる妙味も、この小説にはあるからである。

 ミステリか?と言われるとためらうところもある。しかし明らかにcrime fictionという物語が援用されているのは確かだ。ティドハーは、『完璧な夏の日』でスーパーヒーロー物語を援用したように、C級パルプ・フィクションの道具立てを駆使して、この怪作を織り上げている。1939年、混沌としたロンドンで動乱のドイツから逃れてきた私立探偵ウルフが失踪したユダヤ人女性を追う物語は過剰に紋切り型で露悪的であり、まるでフリッツ・ラングとタランティーノをまぜたような按配であり、そして何より面白いのである。最後には不思議に感動的な場面にたどりつくのも面白い。

 パルプ・ハードボイルドの流儀による『黒い時計の旅』へのオマージュ、みたいな趣もある怪著。なお、どうせ誰から挙げているだろう圧巻のルースルンド&ヘルストレム『地下道の少女』、『拳銃使いの娘』に続きまたもや少女による「父殺し」の秀作『沼の王の娘』、韓国スリラー『あの子はもういない』『種の起源』と、2月もたいへん豊作でした。

 

北上次郎

『黒き微睡みの囚人』ラヴィ・ティドハー/押野慎吾訳

竹書房文庫

 シュンド文学、というのがあるとは知らなかった。訳者あとがきから引く。

「シュンドとは、格調を重んじ、厳格な内容の作品が多かったイディッシュ語文学において、通俗的な内容を積極的に取り入れた画期的な作品群とされ、アメリカを中心に広まったパルプフィクションに通じるとされています。本作も暴力や売春、SMといった要素が盛り込まれており、シュンド文学を強く意識していると言えるでしょう」

 そういう通俗的な小説を書いていた作家が強制収容所で見た幻想的な世界が、ヒトラーがロンドンで私立探偵になっているという本書だ。だから、狭義のミステリーではないが、シュンド文学というものに猛烈に好奇心を刺激されたので、今月印象に残った本としてあげておきたい。

 

吉野仁

『無垢なる者たちの煉獄』カリーヌ・ジエルベ/坂田雪子監訳・吉野さやか訳

竹書房文庫

 

『無垢なる者たちの煉獄』か、それとも『沼の王の娘』か、大いに迷った今月で、どちらもけっして広く支持される作風ではないかもしれないが、黙殺されてしまうのはもったいない傑作。あえて選んだフランス作家カトリーヌ・ジエルベの本邦初紹介長編作は、この手の小説をわりと読み慣れている自分でさえ、おぞましさを感じるほどの衝撃的な展開が待ち構えている。前半を読んでいるかぎり、すっかり話を舐めていた。なぜなら、もうこれまで何度も読んだことがある凡庸な設定なのだ。刑期を終えた男が、出所してすぐ仲間とともにパリで宝石強盗を働き、警察と銃撃戦のすえ逃走、田舎の民家へ逃げこむ。その家には夫の帰りを待つ妻がひとり。男たちはしばらくそこを隠れ家とようとした……。それがまさかジャック・ケッチャム作品を思わせるほどの激しい場面が容赦なく描写されていくとは。一方のカレン・ディオンヌ『沼の王の娘』は、少女を拉致監禁した男とその被害者女性のあいだに生まれた娘がヒロインをつとめ、その親子が闘う物語。こちらも描かれる獣性や残虐性に容赦はない。個人的にはサイコサスペンスの部分よりも、一種の大自然サバイバル冒険スリラー、娘と父による〈もっとも危険なゲーム〉といえる活劇場面に心奪われた。親子、家族がテーマといえば、話題の韓国スリラー、『種の起源』『あの子はもういない』の二作は、どちらも濃い血縁の暗部が生々しく描かれ、心がおしつぶされそうになるほど息苦しい読書となった。それでも話の先を知りたくてページをめくらせる物語だ。

 

 

 

酒井貞道

『種の起源』チョン・ユジョン/カン・バンファ訳

ハヤカワ・ミステリ

 2月も大激戦だった。ホーカン・ネッセル『悪意』の深沈たる奥行、カリーヌ・ジエベル『無垢なる者たちの煉獄』の漆黒、イ・ドゥオン『あの子はもういない』の苛烈。捨てがたいそれらを差し置き、今日のところは『種の起源』をチョイスしたい。
 予備知識なしで読み始めるべき作品なので、粗筋等をあまり紹介したくないのだが、主人公は、目覚めたら自宅で母の死体と二人きりであり、昨夜何があったのかはっきり覚えていない、というスタートを切ることは書いておこう。主人公の意識の流れがそのまま小説になっている作品であり、主人公の想念があっちへふらふら、こっちへふらふらする度に、物語は過去と現在を行き来する。過去が時系列順に思い返されず、ほぼランダムにエピソードが断片的に紹介されていくので、読者は大いに惑乱させられるはずだ。今現在のパートで、主人公が母の死体を前にしていることもあり――逆に言うと、そんな状況にもかかわらず悠長に過去のフラッシュバックを何度も繰り返しているわけである――異様な感覚が常に付きまとう。主人公による一人称の語り口が常に落ち着き払っていることもあり、読者はやがて、本書が不気味な物語であることに気付かされるはずである。圧巻としか言いようがない語り口に酩酊すべし。

 

杉江松恋

『沼の王の娘』カレン・ディオンヌ/林啓恵訳

ハーパーBOOKS

 今月もまた一冊に絞るのが大変であった。というか本当にこれが全部2月に出たのか。2019年って2月が50日ぐらいあったんじゃないのか。そんな疑いさえ抱いてしまうほどに読むべき本がたくさんあった28日間でありました。

『沼の王の娘』は怪物の父親と、その怪物によって生み出された娘とが原生林の中で一騎打ちをするという物語で、設定を書いただけで胸が熱くなる。この小説が好きなのは単純な善悪二元論で書かれていないところで、主人公にとって自身の源である父親と闘うことは壮絶な痛みを伴う行為なのである。だからこそすべての始まりである小屋からの出来事を回想し、過去を反芻しながら現在の事態に対応している。かといって現在を脅かすものを許すわけはないので、自分と家族の未来を守るという鋼鉄の意志はいささかも揺るがない。過去と闘って未来を掴み取る話なので、これが嫌いになれるわけはないのであった。まったく風合いは違うのだけど、韓国ミステリーの二作品、チョン・ユジュン『種の起源』とイ・ドゥオン『あの子はもういない』も、自身の一部となってしまっている過去といかに切り結んでいくかという話になっていて、そうか、二月はこういう話が心に迫ったのだな、とこの原稿を書きながらしみじみ思い返した。

 最後まで迷ったのがホーカン・ネッセル『悪意』で、この短篇集だっていつもの月なら躊躇なく選ぶところである。中断された過去が突如動き出して主人公たちの現在を脅かすという構造が似ている作品が集められているのだが、そのうちの「サマリアのタンポポ」という一篇にネッセルの創作論めいたことが書かれていて、ここを読むだけでも本にお金を払うだけの価値はあるのではないかと思う。せっかくなので引用はしない。実際に読んでもらいたい。収録作の中で最も驚いたのは「親愛なるアグネスへ」という一篇で、あ、まだこんな手が残っていたのか、と感心させられた。某古典名作を連想する読者は多いはずだ。ホーカン・ネッセル、なんだか奥行のありそうな作家だ。できればもっと訳してもらえないものだろうか。

 

 またもや粒ぞろいの2月でした。韓国ミステリーの刊行が始まるなど新しい潮流もありますし、もはや定番になってきた感もある北欧作品もあり、フランス発の犯罪小説もおもしろそう、と目移りしてしまう読者も多いのでは。次回のこのコーナーも期待してください。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧